日本史昭和歴史

太平洋戦争にもつながった「日中戦争」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

日本軍の進撃

1937年、日中戦争が勃発します。日本軍はまず北京を含めた中国北部を攻略、制圧するとそこから南下する作戦を取りました。さらに上海にて駐留中だった日本軍は南京に向けて進撃していき、戦争開始からわずか4ヶ月ほどで南京周辺の地域を制圧するまでに至ります。

南京は当時の中国の首都、その首都まで日本軍が迫ってきたため中国は明らかに形勢不利でした。蒋介石にとって誤算だったのは、期待していたソ連やドイツの支援が全くこなかったことで、やむなく南京の東側にある成都と呼ばれる地域まで逃亡することにします。

そして南京を占領した日本軍、日中戦争でこれまで占領した地域に南京政府を作ると汪兆銘(おうちょうめい)をリーダーに任命。汪兆銘は国民党ナンバー2の地位を持つ人物でした。さらに続く日本の総攻撃、南京の臨時首都として扱われた漢口の攻略にも成功して、いよいよ蒋介石を追い詰めて成都制圧が間近に迫ります。

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盧溝橋事件を引き金にして起こった日中戦争。次々と地域を制圧・占領する日本軍は中国の首都・南京の制圧にも成功した。逃げる蒋介石を追い詰める日本軍、明らかに日本有利の展開だったが、戦況は少しずつ変化していくぞ。

日中戦争の行方

image by PIXTA / 33805571

講和の打ち切り

激しい日本軍の攻撃……いや、激しすぎると言うべきか、成都攻略を目前にした日本軍は成都近くの重慶を無差別に砲撃してしまいます。4000人もの被害を出したこの砲撃は世界各国から非難される事態となったため、日本はドイツを仲介とした講和を国民政府に提案しました

しかし中国の国民政府はこの返事をなかなかよこさず、しびれを切らした日本の首相・近衛文麿は「国民政府相手とせず」と言い放って講和を打ち切ります。日本の国内でも戦争に対する支持が高まり、国家総動員法の成立で全ての政党が解散、大政翼賛会という新たな政治組織が誕生しました。

最も、例え講和が打ち切られても日本にとって特に危機感はなく、なぜなら戦況は圧倒的に優勢だったからです。しかし1937年の後半になると戦況に変化が起こり、これまで圧倒していた日本軍に対して中国軍の抵抗が激しくなり、戦闘は膠着状態になってしまいました。

中国への支援

なぜ中国軍の抵抗が激しくなったのか、それは中国に対してイギリス・フランスなどの国が支援をし始めたためでした。支援を得た中国軍はまるで水を得た魚のように強くなり、その援助によって日本軍と互角に戦えるほど力を手にしたのです。

それなら中国への支援を断ち切ってしまえば良いと考える日本、そこで1940年にイギリス・フランスへの牽制として日独伊三国同盟を締結させました。しかし、同盟を締結させてもなお中国に支援を続けるイギリスとフランス、さらにこの同盟締結によってアメリカを怒らせることになってしまったのです

1940年、ドイツと戦争していたフランスが降伏したことを機に、日本軍はフランスの植民地・フランス領インドシナに進軍しました。その目的は日中戦争継続のための資源を確保すること、しかしとうとう怒ったアメリカが日本に対して全面禁輸を決断する事態となったのです。

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講和が打ち切りとなり、また他国の援助を受けた中国軍が戦力を高め、これまで日本優勢で進められてきた日中戦争の風向きは変わってきた。そしてアメリカを怒らせてしまった日本、これが思わぬ戦争の結末を招くことになる。

\次のページで「日中戦争の結末とその後」を解説!/

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