
蒋介石が満州よりも優先した国共内戦
満州事変に怒りを見せた中国でしたが、それに対して動こうとしなかったのは決して日本を怖れていたからではありません。当時中国ではさらに大きな問題として国共内戦と呼ばれる激しい内戦が国内で起きており、そのため満州の問題に対処する余裕はなかったのです。
中国では、大陸を完全に支配た蒋介石(しょうかいせき)が率いる国民党、そして毛沢東(もうたくとう)が率いる中国共産党、これら2つの党が争っていました。蒋介石にとってはこの争いの方が深刻で、日本が引き起こした満州事件はそれほど大きな問題と思っていなかったのです。
また、蒋介石は日本との関係維持も大切に考えていました。ですから、ここはひとまず中国共産党を倒すことを優先、満州での日本のことはそれから対処すれば良いと判断します。そんな蒋介石にとって大きな転機となったのが、1936年の西安事件と呼ばれる蒋介石の拉致監禁事件でした。
西安事件による張学良の要求
西安事件によって西安に拉致監禁された蒋介石、監禁したのは張学良(ちょうがくりょう)という名の人物です。張学良は満州の軍隊に属する人間、さらに父・張作霖は日本の関東軍に殺害されたという過去があり、そのため張学良は日本を酷く嫌っていましたし、また憎んでもいました。
蒋介石を拉致監禁した張学良は2つのことを要求、1つは国共内戦の停止、もう1つは国全体で団結して日本に反発することです。この事件によって国共内戦は停止、それどころかこれまで敵対していた国民党と中国共産党が手を組むことになり、国共合作という形がとられることになりました。
こうしたいきさつで誕生したのが抗日民族統一戦線と呼ばれる連合組織。以後日本と中国の関係は悪化の道を辿っていき、中国の国内では日本人が殺害される事件が次々と起こるようになりました。そんな緊迫した状況の中、1937年に日中戦争勃発を引き起こす大きな事件が起こったのです。

国民党の蒋介石は満州事変よりも国共内戦の方が重要と考えた。しかし西安事件にとって国共内戦は停止、対立していた国民党と中国共産党は手を組み、抗日民族統一戦線と呼ばれる組織が誕生する。それ以降、日本と中国の関係は悪化していった。
日中戦争に発展した盧溝橋事件
日中戦争の引き金となったのが、1937年の盧溝橋事件。その時、北京の近くの盧溝橋付近では日本軍が軍事演習を行っていました。そこに聞こえてきたのが中国軍の銃声、演習中の日本軍に対して中国軍が攻撃してきたのです。日本軍は安全確認のため直ちに点呼を取りますが、そこで一人が行方不明になっていることに気づきます。
最も、行方不明になった者は単にトイレに行っていただけだったのですが、それが判明するのは後のこと。中国軍の攻撃によって兵士が行方不明になったと判断した日本軍は、中国軍と衝突して銃撃戦へと発展します。とは言え、この銃撃戦はそこまで規模の大きな戦いにはなりませんでした。
なぜなら、この問題に対して日中双方の代表者が迅速に話し合い、数日後には停戦が成立したからです。これで事態は収束したはずでしたが、日本政府は現地に増援部隊を派遣、それならそれでと中国も国民党と中国共産党が協力して国共合作を呼びかけます。そして徹底抗戦の声明を表明する蒋介石……こうして日中戦争が始まりました。
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