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アメリカが仲介した日露講和条約「ポーツマス条約」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

日露戦争の引き金となった義和団事件

日本がロシアと戦争する機会は、思わぬところで訪れることになります。1900年、清国にて義和団事件と呼ばれる内乱が発生、さらにこの内乱に乗じて清国が日本やロシアを含む多数の国に宣戦布告をしたことから、義和団事件は世界を巻き込む事件へと発展しました。

もちろん清国の宣戦布告は無謀極まりなく、あっさり敗北して終わります。こうして義和団事件は鎮圧できましたが、この事件の処理と影響が日露戦争へとつながっていくのです。まず日本は義和団事件の鎮圧を認められ、世界から「極東の憲兵」と呼ばれるようになりました。

これに注目したのがイギリスで、ロシアとの関係が悪化していたイギリスは日本との同盟を望んで日英同盟を締結、日本はイギリスという頼もしい味方ができたのです。一方ロシアは満州・朝鮮への影響力が強まり、日本としてはもうロシアを捨て置けない状況になりました。

ロシア軍を圧倒した日本軍

ロシアは日本が放っておけないほど影響力を強め、日本はイギリスを味方につけてロシアと戦える体制が整います。そしてついに日本がロシアに対して宣戦布告、1904年に日露戦争が勃発したのです。遼東半島獲得の権限を奪ったロシア、日本はその恨みと高めた軍事力で戦争を有利に進めます。

日本は日露戦争の前哨戦となる仁川沖海戦で勝利、さらにロシアの重要補給地点である旅順を占領、そして両軍60万人の兵士が入り乱れた奉天会戦でも勝利。もはやロシアの残す切り札は最強のバルチック艦隊のみであり、日本海海戦にてこれも見事撃破した日本は勝利を決定づけました。

とは言え、日本は既にこの戦争で国家予算を遥かに凌ぐ費用を費やしており、実質戦争の継続は難しい状況になってしまいます。一方のロシアも切り札を失ったことで日本と戦える余力はなく、両国のこの状況を把握して仲介に入ったのがアメリカの大統領・ルーズベルトでした。

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清国の内乱・義和団事件の影響により、1904年に日本の正式な宣戦布告で日露戦争が発生、日本は終始戦いを有利に展開した。やがて費用や戦力の問題から戦争継続が困難になった両国、そこへ仲介に入ったのがアメリカのルーズベルト大統領だ。

ポーツマス条約の締結

image by PIXTA / 10887270

アメリカに対する日本の思惑

ルーズベルト大統領の仲介によって、1905年にアメリカのポーツマスにてポーツマス条約が締結、日本とロシアの講和を目的としたこの条約は日露講和条約とも呼ばれました。条約調印における日本側の代表は外務大臣・小村寿太郎、ロシア側の代表はセルゲイ・ヴィッテです。

この条約について会議された場所も調印された場所もアメリカのポーツマス。しかし、いくらアメリカの大統領が仲介に入ったとは言え、日本とロシアの問題をアメリカの地で話し合うのはいささか不自然に思えるかもしれませんが、これには理由がありました。

日本はロシアに勝利したものの、アメリカと戦えば勝ち目がないのは承知しており、そのためアメリカとは友好的な関係を望みます。そこで外務大臣・小村寿太郎はルーズベルト大統領に中立の友誼的斡旋を依頼、要するに「友情のよしみで両国の間を取り計らってほしい」と頼んだのです。

条約締結の場はアメリカのポーツマス

外務大臣・小村寿太郎の頼みはアメリカにとっても都合の良いものでした。圧倒的な軍事力を誇るアメリカも、アジアで自国以上に強い国を現れることは望んでいません。そのため、日本の頼みを聞けば日本もまたアメリカの言うことを聞いてくれるだろう……つまり日本が牙を剥く心配がなくなると考えたのです。

こうして、ルーズベルト大統領は日本とロシアの講和条約の会議をする場にポーツマスを選びました。ポーツマスは軍港であるため警備がしやすく、また別荘が立ち並ぶほどの避暑地であることから会議や条約調印の場にふさわしく、そこでアメリカの中でもこの場所が選ばれたのでしょう。

そしてポーツマス条約の締結、ただこれは日本に有利な内容となっている一方で納得できない部分もありました。また、ロシアもポーツマス条約の締結後は国内の平和が乱れており、日露戦争終結後のポーツマス条約締結は、日本もロシアも大きな問題を引き起こすことになるのです。

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