チャールズ・ダーウィンは自然の変化について記した『種の起源』の作者。自然界は、誕生から現在に至るまで変化しているという研究を発表した。彼の理論は自然を神の完璧な創造物と見なす聖職者を激怒させるのみならず学問の世界を震撼させた。

それじゃ、ダーウィンの種の理論が意味することや西洋キリスト教の思想との対立点を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。人類の歴史を考えるとき「ダーウィン」を避けて通ることはできない。「ダーウィン」は『種の起源』の出版により多くの議論を巻き起こした科学者。博物学のみならず文化にも大きな影響を与えた「ダーウィン」の進化論のインパクトを解説する。

チャールズ・ダーウィンとはどのような人物?

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ダーウィンはイギリス生まれの博物学者。生物や植物など自然の生命を広く研究した人物です。生物が形成されるプロセスを研究した「種の理論」を唱えたことにより自然科学の世界に革命を起こしました。そんなダーウィンの自然に対する強い関心は幼少期からすでに生まれていました。

イングランドの裕福な家庭に生まれたダーウィン

ダーウィンが生まれたのは1809年2月12日。イングランドにあるシュロップシャー州シュルーズベリーに住む、裕福な医師の父ロバート・ダーウィンと芸術家の母スザンナのあいだに生まれました。ダーウィンは、6人兄弟のなかの5番目の子どもでした。

ダーウィンは生物学に「進化」という概念を持ち込んだことで知られています。この「進化」の概念を最初に使い始めたのはダーウィンの祖父である高名な博物学者で詩人のエラズマス。2人の考えは同じではなく、ダーウィンは「ゆるやかな変化」と言い換え、祖父よりも長い期間を想定しました。

幼少期から博物学への興味を深める

ダーウィンは、子供のころから自然に対する興味が強く、父から与えられた庭などで植物の観察を熱心に行っていました。ダーウィンの兄は、科学実験に熱中していたことからダーウィンが実験を手伝うことも。子ども科学者の先輩である兄をダーウィンはとても慕っていました。

さらにダーウィンは、植物だけではなく鉱物や貝殻の収集も熱心に行うように。自然にかかわるものは何でも興味の対象となりました。そのような幼少期を過ごしたことで、その後のダーウィンの「種の理論」が生まれたと言ってもいいでしょう。

父親の意向により医師を目指した息子ダーウィン

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By Kim Traynor - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

16歳になったダーウィンはエディンバラ大学に進学、父の医業を助けるために医学と地質学を学ぶようになります。しかし、自然に対する興味を深めていたダーウィンにとって、大学の講義や実験は退屈そのものでした。

エディンバラ大学で医学を学ぶものの落ちこぼれ

エディンバラ大学で医学を学ぶものの、基本的に医業に向いていなかったダーウィン。外科手術を見学しますが、血を見ることができませんでした。また、当時の医業では麻酔手術がなかったため、痛みに苦しむ患者の姿を見ることも、ダーウィンにとって苦痛そのものとなります。

さらに、自然のなかで観察・採集することが好きだったダーウィンは、教室で聞くだけの講義に興味を持つことができませんでした。そのため、大学になじめなかったダーウィンは、学位を取らずにエディンバラ大学を中退してしまいました。

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牧師の道に路線変更して植物採集に熱中

医業を継ぐことは困難と判断した父は、ダーウィンを牧師にするためにケンブリッジ大学のクライスト・カレッジに入学させます。そこで神学や古典を学びながらダーウィンは自然の研究に没頭。ケンブリッジ大学を優秀な成績で無事に卒業しました。

しかしダーウィンは大学で得たものは何もなかったと回想。この時期の彼に影響を与えたのは、大学外で出会った聖職者・博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローでした。ダーウィンはのちに、ヘンズローを自分に大きな影響を与えた人物のひとりであると明言しています。

ケンブリッジ大学を卒業後、イギリス海軍ビーグル号に乗船

Route from Plymouth, England, south to Cape Verde then southwest across the Atlantic to Bahia, Brazil, south to Rio de Janeiro, Montevideo, the Falkland Islands, round the tip of South America then north to Valparaiso and Callao. Northwest to the Galapagos Islands before sailing west across the Pacific to New Zealand, Sydney, Hobart in Tasmania, and King George's Sound in Western Australia. Northwest to the Keeling Islands, southwest to Mauritius and Cape Town, then northwest to Bahia and northeast back to Plymouth.
By © Sémhur / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0, Link

ケンブリッジ大学を卒業したあと、ヘンズローの紹介によりイギリス海軍の測量船であるビーグル号に乗船することが決定。事故や遭難が多かった時代。父親は難色を示すものの何とか説得。ダーウィンは船酔いに悩まされながらもイギリスから南米に向かいます。

ガラパゴス諸島にて生物の多様性を記録

ビーグル号は1831年にイギリス南西部の港町プリマスを出発。途中、アフリカの西沖合にあるカーボベルデに立ち寄ります。ここで火山を観察したダーウィンは観察記録を開始。その後、ブラジルのリオデジャネイロで正式な博物学者が下船したため、ダーウィンが非公式ながら仕事を引き継ぐことになりました。

1835年にビーグル号はエクアドルのガラパコス諸島に到着。その地でダーウィンは、ゾウガメ、イグアナ、マネシツグミに惹きつけられ、生物の多様性を詳細に記録するようになります。駆け出しの科学者だったダーウィンは、何かを理論化するのではなく、ただ一心不乱に記録し続けました。

ビーグル号の航海の経験を通じて生物の「変化」に気が付く

ダーウィンはガラパコス諸島に生息している生物の観察を通じてあることに気が付きます。いろいろな場所に生息していたのがゾウガメ。詳しい人は生息場所による個体の違いが分かることを知りました。その話からガラパゴス諸島には変種が分布していると考え始めます

ただこの時点では漠然とした気づきにとどまり、理論化されるまでには至りませんでした。変種の問題に着目した時期は、すでにビーグル号は帰国の準備に入っていました。そのためダーウィンの研究は途中で中断。そのままイギリスに変えることになります。

1859年にダーウィンは『種の起源』を出版

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ダーウィンは帰国後、ヘンズローの助けを借りながらビーグル号における調査やコレクションの整理を開始。研究発表を重ねながら科学の世界で知名度を高めていきます。そして徐々に、ダーウィンの代表作となる『種の起源』の原型が作り上げられていきました。

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生物は環境に適応するために「変化」すると発表

ダーウィンは1859年に『種の起源』を出版。研究書ではなく一般読者向けの本でした。そこでダーウィンが唱えたのが「自然選択説」。生物は長い時間をかけて環境に適応するように変化すること、種が分かれて多様な種が生まれることを主張しました。

種が変化する過程で起こるのが「生存競争」。生物が生息する場所や食料を獲得するために争うことです。生き残るために生物は少しづつ個体のかたちを変化させていくというのがダーウィンの考え。この考えのヒントとなったのがトマス・マルサスの『人口論』でした。

スペンサーの社会進化論をヒントとする「適者生存」は批判の的に

ダーウィンの『種の起源』で唱えられたもうひとつの重要な概念が「適者生存」というものです。この発想は、もともと社会学者・哲学者のハーバート・スペンサーが考え出したもの。ここでスペンサーは人間社会は軍事的タイプから産業的タイプに進化することを唱えました。

スペンサーの考えをベースにダーウィンは自然界における変化のプロセスを説明。環境に上手く適応できた種が生き残り、適応できなかった種は消滅した可能性が示されました。この考えによりあらゆる業界から大バッシングを受けることに。長年の師匠であったヘンズローすらこの理論を受け入れられませんでした。

ダーウィンの進化論が聖職者を激怒させた理由

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By Charles Darwin, digital picture taken by Alexei Kouprianov - Ch. Darwin On the Origin of Species..., Public Domain, Link

ダーウィンが唱えた「進化」あるいは「変化」の考えに拒絶反応を示したのが聖職者たち。なぜなら、当時の常識となるのが「自然=神の創造物」だったからです。神が創ったものが、神の手を離れて変化すると考えることは、冒涜以外の何物でもありませんでした。

神の「不変の」創造物を分類したのがリンネ

ダーウィンと並んで生物学の歴史的人物とされるのがリンネ。植物の分類学を完成させた博物学者として知られています。リンネは、自然界に存在する植物や生物の形状を再現、似ているもの同士を並べて詳細に分類しました。

リンネの問題意識は、植物や生物を分類することで「神が創造物を作った意図」を知ること。科学であると同時に神学でもありました。そのためリンネが分類した植物や生物はそれぞれ独立した神の創造物。ひとつのものがいくつかに分かれるという発想はありませんでした。

変化するのは神の創造物が失敗作だったから?

ダーウィンが唱えた「変化」の概念を取り入れると、神が最初に創った創造物は「不完全」だと言うことになりかねません。さらに「適者生存」により環境に上手く適応できなかった種が消えるとなると、その創造物は欠陥品となってしまいます。

当時の価値観は、神の創造物である自然は完璧なもの。絶対に変化しないというのが大前提でした。ヘンズローが博物学者で神学者だったように科学と宗教はワンセット。自然を研究することは神の意図を理解することと同じだったため、ダーウィンは大バッシングに合うことになったのです。

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ダーウィンの『種の理論』がその後に与えた影響

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ダーウィンが唱えた「種の理論」は、強い反発を招きながらも宗教と科学の関係性を考え直すきっかけを作るというプラスの効果をもたらしました。ただ同時にダーウィンの「適者生存説」は、人種差別を正当化するために利用されるマイナスの効果も出てきます。

宗教と科学のあいだの対話が進む

ダーウィンの理論は、不完全さは残るものの、基本的にかなりの説得力があるものでした。そのため、宗教とは切り離してひとつの理論として認めるべきであるとするリベラルな神学者が増加。また、ダーウィンの理論の大バッシングの先頭に立ったイギリス国教会も徐々に態度を軟化させていきます。

そして20世紀に入るころには宗教と科学を切り離して考える態度が定着。現在の科学の基本的立場を作るきっかけとなったのがダーウィンの『種の起源』をめぐる論争だったと言えるでしょう。ダーウィンの誕生200周年を前に控えた2008年、英国国教会は「あなたを誤解していた」と正式に謝罪しました。

人種差別を正当化するために利用される

ダーウィンの理論が悪い方向性で使われた例となるのが人種差別です。19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米では「白人滅亡説」が流行。アフリカ系やアジア系が白人を淘汰するのではないかと恐れられました。とくに恐れられたのが混血による淘汰。混血化を防ぐためにさまさまな隔離政策が行われました。

またダーウィンの「自然選択説」は、障がい者や貧困者を排除する根拠として使われ始めます。この優生学の先頭に立ったのがダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトン。ダーウィン自身は、弱い者が生き残ることは社会の不利益になるとしながらも、援助を断ち切ることは道徳的に許されないと述べ、優生学と一定の距離を保ちました。

ダーウィンは科学のあり方に一石を投じた非エリート研究者

科学の世界に強烈なインパクトを残しながらも、ダーウィンは在野の研究者として自然の探求に身を捧げました。代表作である『種の起源』が一般読者向けだったように、アカデミズムの世界から一定の距離を置き続けたダーウィン。だからこそ、バッシングを恐れることなく同時の価値観を揺るがす理論を提唱できたのです。ダーウィンは自然の探求を通じて、地球の歴史、植物・生物の歴史、人類の歴史に想いを巡らせていたのでしょう。大きな視点から物事を見ることの大切さをダーウィンは現代の私たちに教えてくれるのです。

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イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

孤高の非エリート科学者「ダーウィン」『種の起源』が与えた影響を元大学教員がわかりやすく解説

ダーウィンの『種の理論』がその後に与えた影響

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ダーウィンが唱えた「種の理論」は、強い反発を招きながらも宗教と科学の関係性を考え直すきっかけを作るというプラスの効果をもたらしました。ただ同時にダーウィンの「適者生存説」は、人種差別を正当化するために利用されるマイナスの効果も出てきます。

宗教と科学のあいだの対話が進む

ダーウィンの理論は、不完全さは残るものの、基本的にかなりの説得力があるものでした。そのため、宗教とは切り離してひとつの理論として認めるべきであるとするリベラルな神学者が増加。また、ダーウィンの理論の大バッシングの先頭に立ったイギリス国教会も徐々に態度を軟化させていきます。

そして20世紀に入るころには宗教と科学を切り離して考える態度が定着。現在の科学の基本的立場を作るきっかけとなったのがダーウィンの『種の起源』をめぐる論争だったと言えるでしょう。ダーウィンの誕生200周年を前に控えた2008年、英国国教会は「あなたを誤解していた」と正式に謝罪しました。

人種差別を正当化するために利用される

ダーウィンの理論が悪い方向性で使われた例となるのが人種差別です。19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米では「白人滅亡説」が流行。アフリカ系やアジア系が白人を淘汰するのではないかと恐れられました。とくに恐れられたのが混血による淘汰。混血化を防ぐためにさまさまな隔離政策が行われました。

またダーウィンの「自然選択説」は、障がい者や貧困者を排除する根拠として使われ始めます。この優生学の先頭に立ったのがダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトン。ダーウィン自身は、弱い者が生き残ることは社会の不利益になるとしながらも、援助を断ち切ることは道徳的に許されないと述べ、優生学と一定の距離を保ちました。

ダーウィンは科学のあり方に一石を投じた非エリート研究者

科学の世界に強烈なインパクトを残しながらも、ダーウィンは在野の研究者として自然の探求に身を捧げました。代表作である『種の起源』が一般読者向けだったように、アカデミズムの世界から一定の距離を置き続けたダーウィン。だからこそ、バッシングを恐れることなく同時の価値観を揺るがす理論を提唱できたのです。ダーウィンは自然の探求を通じて、地球の歴史、植物・生物の歴史、人類の歴史に想いを巡らせていたのでしょう。大きな視点から物事を見ることの大切さをダーウィンは現代の私たちに教えてくれるのです。

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