それじゃ、ダーウィンの種の理論が意味することや西洋キリスト教の思想との対立点を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- チャールズ・ダーウィンとはどのような人物?
- イングランドの裕福な家庭に生まれたダーウィン
- 幼少期から博物学への興味を深める
- 父親の意向により医師を目指した息子ダーウィン
- エディンバラ大学で医学を学ぶものの落ちこぼれ
- 牧師の道に路線変更して植物採集に熱中
- ケンブリッジ大学を卒業後、イギリス海軍ビーグル号に乗船
- ガラパゴス諸島にて生物の多様性を記録
- ビーグル号の航海の経験を通じて生物の「変化」に気が付く
- 1859年にダーウィンは『種の起源』を出版
- 生物は環境に適応するために「変化」すると発表
- スペンサーの社会進化論をヒントとする「適者生存」は批判の的に
- ダーウィンの進化論が聖職者を激怒させた理由
- 神の「不変の」創造物を分類したのがリンネ
- 変化するのは神の創造物が失敗作だったから?
- ダーウィンの『種の理論』がその後に与えた影響
- 宗教と科学のあいだの対話が進む
- 人種差別を正当化するために利用される
- ダーウィンは科学のあり方に一石を投じた非エリート研究者
この記事の目次
ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。人類の歴史を考えるとき「ダーウィン」を避けて通ることはできない。「ダーウィン」は『種の起源』の出版により多くの議論を巻き起こした科学者。博物学のみならず文化にも大きな影響を与えた「ダーウィン」の進化論のインパクトを解説する。
チャールズ・ダーウィンとはどのような人物?
ダーウィンはイギリス生まれの博物学者。生物や植物など自然の生命を広く研究した人物です。生物が形成されるプロセスを研究した「種の理論」を唱えたことにより自然科学の世界に革命を起こしました。そんなダーウィンの自然に対する強い関心は幼少期からすでに生まれていました。
イングランドの裕福な家庭に生まれたダーウィン
ダーウィンが生まれたのは1809年2月12日。イングランドにあるシュロップシャー州シュルーズベリーに住む、裕福な医師の父ロバート・ダーウィンと芸術家の母スザンナのあいだに生まれました。ダーウィンは、6人兄弟のなかの5番目の子どもでした。
ダーウィンは生物学に「進化」という概念を持ち込んだことで知られています。この「進化」の概念を最初に使い始めたのはダーウィンの祖父である高名な博物学者で詩人のエラズマス。2人の考えは同じではなく、ダーウィンは「ゆるやかな変化」と言い換え、祖父よりも長い期間を想定しました。
幼少期から博物学への興味を深める
ダーウィンは、子供のころから自然に対する興味が強く、父から与えられた庭などで植物の観察を熱心に行っていました。ダーウィンの兄は、科学実験に熱中していたことからダーウィンが実験を手伝うことも。子ども科学者の先輩である兄をダーウィンはとても慕っていました。
さらにダーウィンは、植物だけではなく鉱物や貝殻の収集も熱心に行うように。自然にかかわるものは何でも興味の対象となりました。そのような幼少期を過ごしたことで、その後のダーウィンの「種の理論」が生まれたと言ってもいいでしょう。
父親の意向により医師を目指した息子ダーウィン
By Kim Traynor – Own work, CC BY-SA 3.0, Link
16歳になったダーウィンはエディンバラ大学に進学、父の医業を助けるために医学と地質学を学ぶようになります。しかし、自然に対する興味を深めていたダーウィンにとって、大学の講義や実験は退屈そのものでした。
エディンバラ大学で医学を学ぶものの落ちこぼれ
エディンバラ大学で医学を学ぶものの、基本的に医業に向いていなかったダーウィン。外科手術を見学しますが、血を見ることができませんでした。また、当時の医業では麻酔手術がなかったため、痛みに苦しむ患者の姿を見ることも、ダーウィンにとって苦痛そのものとなります。
さらに、自然のなかで観察・採集することが好きだったダーウィンは、教室で聞くだけの講義に興味を持つことができませんでした。そのため、大学になじめなかったダーウィンは、学位を取らずにエディンバラ大学を中退してしまいました。
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