今回は浦上四番崩れを取り上げるぞ。幕末に起こったキリスト教弾圧事件ですが、あまり知られていないけどどんなことだったのかな。

その辺のところを幕末、明治時代に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治時代には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、浦上四番崩れについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、浦上崩れとは

浦上崩れは、幕府直轄領の肥前国彼杵郡浦上村(浦上山里村:現在の長崎県長崎市)で、江戸時代中期から明治時代初期に4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件のことで、崩れというのは検挙事件の意味。

浦上には隠れキリシタンが存在し、禁教令に鎖国令下の江戸時代でもひそかに組織を作って信仰を守り続けてきたが、江戸幕府、続いて明治新政府が隠れキリシタンの検挙と弾圧ということ。寛政2年(1790年)に起きた弾圧を、浦上一番崩れといい、天保13年(1842年)浦上二番崩れ、安政3年(1856年)浦上三番崩れ、そして慶応3年(1867年)が浦上四番崩れ、別名が浦上教徒事件。

また昭和20年(1945年)8月9日の長崎への原爆投下についても、特に長崎市内浦上地区在住のキリスト教徒に多くの犠牲者を出したために、キリスト教徒の受難事件として、浦上五番崩れと称することもあるそう。

1-2、浦上四番崩れとは

浦上四番崩れは、最初は江戸幕府が、そして事件の最中に明治新政府が発足して、慶応4年(明治元年/1868年)の御前会議で全住民の配流が決定されたということが日本駐在の公使たちに知られて抗議を受け、欧米のキリスト教国の反感を買うことに。

明治新政府はその対応にかなり苦慮し、明治6年(1873年)、キリシタン禁制の高札の撤去と浦上のキリシタンの釈放と帰還を実施し、250年近くの日本のキリスト教禁止政策に終止符を打ったということで、重要な事件に。

1-3、日本でのキリスト教禁教の背景

1549年に日本にキリスト教を伝えたのは、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエル、その後、諸大名などにも洗礼を受けるものが増えたのですが、スペインが領土を拡大するために宣教師を送るという話で豊臣秀吉がキリスト教を警戒したなどで伴天連追放令やキリスト教禁止の方向に進みだし、対日本の貿易でのイギリスとポルトガル、スペインのライバル争いがカトリックとプロテスタントの対立にもちこまれたりなどもあったようで、江戸幕府は慶長17年(1612年)に江戸、京都、駿府などの直轄地での教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告。

この後、諸大名に対しても「国々御法度」として同様に行い、そして鎖国政策、島原の乱後はキリスト教禁止を国策とし、全国でキリスト教宣教師、信徒を徹底的に捕縛、仏教へ強制改宗させ、問答無用で全国民が寺請制度でどこかの寺に属さなければいけない決まりとなり、キリシタンから改宗しないものは一族郎党が処刑されるという政策に。

2-1、事件の発端は、開国後、各地の居留地に教会も作られたことから

ペリー来航後、横浜や箱館、長崎にも外国人居留地が出来、ヨーロッパなどからの居住者が増え宣教師たちもやってきて、外国人限定でキリスト教の教会も建てられることに。それが発端と言えば発端でした。

2-2、プティジャン神父が長崎へ

Mgr Petitjean first Vicar Apostolic of Japan.jpg
PHGCOM - Own work by uploader: circa 1866 photograph, photographed by me at the MEP, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

パリ外国宣教会から日本に布教のためにやってきたベルナール・プティジャン神父は、長崎の26聖人(慶長元年(1597年)、長崎西坂で豊臣秀吉の命令で処刑され殉教したキリシタンの信者たちのことで、宣教師たちの報告により日本よりもヨーロッパでの方が有名)が列聖された年の文久2年(1862年)10月に横浜に着き、翌年7月に長崎へ。

そしてその翌年の元治元年(1864年)1月、横浜在住のカトリック日本布教の総責任者であるジラール神父が長崎に来たときに、プティジャン神父と一緒に26聖人の殉教地を捜して立山と断定。新しい教会を殉教地に建てたかったが、居留地の外だったので、教会を殉教地に向けて建てることにしたそう。

\次のページで「2-3、大浦天主堂が建てられた」を解説!/

列聖とは
カトリック教会の総本山バチカンの教皇庁では、生前、その生き方において、徳と聖性を示していたと思われるカトリック関係者、キリスト教に殉教した人々に関して、死後、申請が行われることで列福、列聖調査が始められ、認定された後に服者、聖者とされるということ。

2-3、大浦天主堂が建てられた

image by PIXTA / 28275789

ということで、元治元年(1864年)、日仏修好通商条約に基づいて長崎に居留するフランス人のため、南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建立。大浦天主堂は当時かなり珍しい洋風建築だったので評判になり、近くに住む日本人は、「フランス寺」「南蛮寺」と呼んで見物に訪れたということ。

プティジャン神父は、本来は居留地のフランス人のために建てられた教会だが、訪れる日本人に教会を開放、自由に見学させたということ。プティジャン神父は、前述のように26聖人の終焉の地を調べたりしていたので、もしかすると隠れキリシタンがいるのでは、教会を訪れる日本人の中に信者がいるのでは、とひそかに期待していたそう

2-4、信徒発見、東洋の奇蹟

image by PIXTA / 29336879

そして約1か月後の元治2年(1865年)2月20日の午後、プティジャン神父が庭の手入れをしたときに、15人ほどの男女がやってきたので、神父は扉を開いて中に招き入れて一行は内部を見学、神父が祭壇の前で祈っていると、一行のひとりの杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「私たちの信仰は、あなたの信仰と同じです。サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいたということ。

彼らは浦上からやってきた、200年以上もキリスト教の信仰を守っていた隠れキリシタンといわれる人々とわかり、神父は歓喜。これは「信徒発見」と言われているそう。

その後大浦天主堂に、秘密裏にキリシタンたちが次々やってきてミサにあずかり、神父の指導を受けるように。当時長崎や五島列島近辺では約5万人の隠れキリシタンがいたそうで、プティジャン神父は密かに浦上や五島などを訪問し、隠れた信者を次々と発見。プティジャン神父はこの出来事の詳細を故国へ書き送り、それがバチカンの教皇庁へも伝わって当時の教皇ピオ9世は涙を流して感激して東洋の奇蹟と呼び、大きなニュースに。ヨーロッパでも(日本在住の欧米人も)、司祭の指導も聖書もなくただただ200年以上も信仰を守り通したキリスト教信者がいたことに驚きと尊敬が集まったということ。

尚、長崎の隠れキリシタンたちの間では、「7代耐え忍べばローマからパードレ(司祭)がやってくる」という江戸時代初期に殉教したというバスチャン伝道士の予言が伝わっていたそう。

3-1、事件の発端はキリシタンたちが活発に活動したから

プティジャン神父に出会って指導を受けるようになった浦上のキリシタンたちは、はじめのうちは密かに活動していましたが、だんだんと喜びのうちに大胆に活動するようになり、長崎奉行所に目を付けられるようになったということ。

キリシタンたちは、今まで一応偽装でお寺に属し、仏式のお葬式の後にお経消しのオラショ(祈り)を唱えていたが、浦上村のキリシタンが身内の葬式を檀那寺に届け出ずに自分たちで行い、檀那寺と縁を切ると宣言、村の庄屋に署名入りの文書を提出し、まだ禁教令が敷かれているのにキリシタンであると公言するようになったため、慶応3年(1867年)7月、浦上のキリシタンのうちのおもな者68名が長崎奉行に一斉に逮捕されるという事件に。

3-2、強気の信者たち、迫害される

今までのキリシタン弾圧で起こった浦上一番崩れ、二番崩れ、三番崩れでは、犠牲者を出していましたが、三番崩れ以前は、信仰に対してシラを切って信仰以外では幕府に従順ということで、それほど厳しく追及されなかったが、四番崩れでは、キリシタンたちははっきりとキリスト教信仰を表明したために、幕府は無視できずに厳しい拷問によって改宗をせまったということ。

\次のページで「3-3、諸外国から大批判を受ける」を解説!/

3-3、諸外国から大批判を受ける

St. Peter's Basilica Facade, Rome, June 2004.jpg
Lora Beebe - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

キリシタンたちが一斉逮捕された慶応3年(1867年)7月の翌日には、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使が、長崎奉行に対して人道にはずれが行いだと即座に抗議。8月24日には正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会して、事件について話し合ったそう。しかし根本的な解決の前に江戸幕府は大政奉還を行い、慶応4年(1868年)に明治新政府が発足、キリシタンに対する政策は、江戸幕府を基本的に踏襲してさらに弾圧が。

もちろんプティジャン神父も信者釈放に尽力、各国の公使、領事を通じて幕府に抗議、事件の通報と援助獲得のために横浜を出航し、フランス各地を経て慶応4年(1868年)1月、ローマで教皇ピオ9世に謁見したということ。

3-4、明治新政府が流罪に

江戸幕府瓦解後の慶応4年(1868年)2月14日には、参与の公卿沢宣嘉が長崎裁判所総督兼任となり、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任。沢と井上が浦上信徒を説得したが、改宗の意思がないため、「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を新政府が討議して信徒の流罪が決定、もちろん外国公使たちが激しく抗議したそう(イギリスのパークス公使は6時間も怒りまくったということ)。そして7月に、浦上のおもだった信者114名が津和野に流罪となり、その後、段階的に浦上村のすべての信者3414名が鹿児島、広島、岡山、金沢など21藩に流刑になり、牢に入れられて、キリシタン棄教のための説得や拷問が行われたということ。

津和野の乙女峠では特にひどい扱いを受けたせいで、36名が殉教。配流された者は3394人、うち662人が殉教したと記録が。それ以降も明治3年(1870年)まで、続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処されたそう。彼らが受けた拷問は、水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓、箱詰め、磔、親の前で子供を拷問するなどといったすさまじいまでの残虐さは旧幕時代以上だったそう。

3-5、岩倉使節団、各地で大ブーイングを受けた結果、信徒たちは釈放に

Iwakura mission.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

もちろん列強各国の公使たちは事のこの事件を本国に報告したうえで、明治新政府にも繰り返し抗議。そして翌年の明治4年(1871年)に、岩倉具視以下岩倉使節団一行がアメリカとヨーロッパを歴訪の旅に出たとき、最初の訪問先のアメリカで大ブーイングを受け、ヨーロッパ各国でも新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難、世論も硬化。

アメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリスのヴィクトリア女王、デンマーク王クリスチャン9世らトップたちが、キリスト教禁止政策を激しく非難。明治新政府によるキリスト教弾圧が、いかに不平等条約改正最大のネックとなっているかが思い知らされたそうで、不平等条約廃止交渉のためにも新政府は信教の自由を認めざるを得ず、使節団は慌てて日本へ打電して、明治6年(1873年)2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去、流刑となっていた信徒たちを釈放することに。

生き残った信徒たちは、流罪の苦難を「旅」と呼びさらに強い信仰を持って布教につとめ、明治12年(1879年)浦上に浦上天主堂を建てたということ。しかし明治政府がキリスト教の活動を公式に認めるのは、明治32年(1899年)の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」からに。

最後のキリスト教弾圧事件は外圧で解決

浦上四番崩れは、250年もの間キリスト教が禁止されていた日本で、ひそかにキリスト教信仰を守り続けていた人々が発見され、弾圧された事件。

江戸時代の禁教令はすさまじいもので、古文書で見た限りですが、関西のあるお寺と村人の諍いでお寺の住職があの村はキリシタンだと言いがかりの嘘をついて役所に訴え出たところ、村ではひっくり返るような大騒ぎとなって、直轄領だったため江戸へ早駕籠をたてて、急いで村人全員のお寺の過去帳など証拠を持って寺社奉行へ駆け込んだ話を読んだことがあり、キリシタンの疑いをかけられただけで、全員処刑の憂き目にあうと震え上がるようなおそろしさを講師の先生が解説されたものでした。

浦上の人々はそんなおそろしい禁令を犯してまで250年もキリスト教の信仰を守り続けたことは、日本よりも欧米のキリスト教信者の方が感動、ローマ教皇が涙を流して感激した出来事だったということと、幕府から明治新政府に代わってもキリシタンを弾圧し棄教を迫って流刑に処し拷問にかけたが、信徒たちはがんとして棄教せず、そして外圧のおかげで晴れてキリスト教が解禁となったということは、とても興味深いことでは。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末に起こったキリスト教弾圧事件「浦上四番崩れ」について歴女がわかりやすく解説

今回は浦上四番崩れを取り上げるぞ。幕末に起こったキリスト教弾圧事件ですが、あまり知られていないけどどんなことだったのかな。

その辺のところを幕末、明治時代に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治時代には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、浦上四番崩れについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、浦上崩れとは

浦上崩れは、幕府直轄領の肥前国彼杵郡浦上村(浦上山里村:現在の長崎県長崎市)で、江戸時代中期から明治時代初期に4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件のことで、崩れというのは検挙事件の意味。

浦上には隠れキリシタンが存在し、禁教令に鎖国令下の江戸時代でもひそかに組織を作って信仰を守り続けてきたが、江戸幕府、続いて明治新政府が隠れキリシタンの検挙と弾圧ということ。寛政2年(1790年)に起きた弾圧を、浦上一番崩れといい、天保13年(1842年)浦上二番崩れ、安政3年(1856年)浦上三番崩れ、そして慶応3年(1867年)が浦上四番崩れ、別名が浦上教徒事件。

また昭和20年(1945年)8月9日の長崎への原爆投下についても、特に長崎市内浦上地区在住のキリスト教徒に多くの犠牲者を出したために、キリスト教徒の受難事件として、浦上五番崩れと称することもあるそう。

1-2、浦上四番崩れとは

浦上四番崩れは、最初は江戸幕府が、そして事件の最中に明治新政府が発足して、慶応4年(明治元年/1868年)の御前会議で全住民の配流が決定されたということが日本駐在の公使たちに知られて抗議を受け、欧米のキリスト教国の反感を買うことに。

明治新政府はその対応にかなり苦慮し、明治6年(1873年)、キリシタン禁制の高札の撤去と浦上のキリシタンの釈放と帰還を実施し、250年近くの日本のキリスト教禁止政策に終止符を打ったということで、重要な事件に。

1-3、日本でのキリスト教禁教の背景

1549年に日本にキリスト教を伝えたのは、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエル、その後、諸大名などにも洗礼を受けるものが増えたのですが、スペインが領土を拡大するために宣教師を送るという話で豊臣秀吉がキリスト教を警戒したなどで伴天連追放令やキリスト教禁止の方向に進みだし、対日本の貿易でのイギリスとポルトガル、スペインのライバル争いがカトリックとプロテスタントの対立にもちこまれたりなどもあったようで、江戸幕府は慶長17年(1612年)に江戸、京都、駿府などの直轄地での教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告。

この後、諸大名に対しても「国々御法度」として同様に行い、そして鎖国政策、島原の乱後はキリスト教禁止を国策とし、全国でキリスト教宣教師、信徒を徹底的に捕縛、仏教へ強制改宗させ、問答無用で全国民が寺請制度でどこかの寺に属さなければいけない決まりとなり、キリシタンから改宗しないものは一族郎党が処刑されるという政策に。

2-1、事件の発端は、開国後、各地の居留地に教会も作られたことから

ペリー来航後、横浜や箱館、長崎にも外国人居留地が出来、ヨーロッパなどからの居住者が増え宣教師たちもやってきて、外国人限定でキリスト教の教会も建てられることに。それが発端と言えば発端でした。

2-2、プティジャン神父が長崎へ

Mgr Petitjean first Vicar Apostolic of Japan.jpg
PHGCOM – Own work by uploader: circa 1866 photograph, photographed by me at the MEP, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

パリ外国宣教会から日本に布教のためにやってきたベルナール・プティジャン神父は、長崎の26聖人(慶長元年(1597年)、長崎西坂で豊臣秀吉の命令で処刑され殉教したキリシタンの信者たちのことで、宣教師たちの報告により日本よりもヨーロッパでの方が有名)が列聖された年の文久2年(1862年)10月に横浜に着き、翌年7月に長崎へ。

そしてその翌年の元治元年(1864年)1月、横浜在住のカトリック日本布教の総責任者であるジラール神父が長崎に来たときに、プティジャン神父と一緒に26聖人の殉教地を捜して立山と断定。新しい教会を殉教地に建てたかったが、居留地の外だったので、教会を殉教地に向けて建てることにしたそう。

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