今回は東禅寺事件を取り上げるぞ。幕末に起こった外国公使館襲撃事件ですが、色々詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治時代に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治時代には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、東禅寺事件について5分でわかるようにまとめた。

1-1、東禅寺事件(とうぜんじじけん)とは

江戸時代末期、攘夷派志士が高輪の東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件で、文久元年(1861年)、文久2年(1862年)の2回発生し、それぞれ、第一次東禅寺事件、第ニ次東禅寺事件と呼ばれています。

1-2、第一次東禅寺事件

image by PIXTA / 46473530

第一次東禅寺事件は、文久元年(1861年)5月28日、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件。

1-3、事件の発端は

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フェリーチェ・ベアト - http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kyniska/ambush1.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

文久元年(1861年)5月に、イギリス公使オールコックは、長崎港から江戸へ向かう際、幕府側が、警備の問題から海路で江戸へ行くのを勧めたのにも関わらず、条約で定めた国内旅行権を強硬に主張し、陸路で江戸へ。

このオールコック公使の旅行が、「夷狄が神州日本を穢した」と、尊王攘夷派の志士たちの逆鱗に触れたということ。オールコック公使は、長崎から小倉まで陸上を通り、その後は瀬戸内海を船旅で兵庫まで、そして兵庫から大坂へ陸路をとり、京都はパスし、以降は陸路で東海道を下って江戸までの旅を敢行。

1-4、東禅寺事件勃発

オールコック公使は、5月27日にイギリス公使館が置かれた江戸高輪の東禅寺に入ったが、尊攘派の志士である水戸藩脱藩の浪士有賀半弥ら14名は、5月24日に常陸国玉造湊を出航して、東禅寺門前の浜に上陸。品川宿の妓楼「虎屋」で決別の盃を交わし、オールコック公使が東禅寺に入った翌日の5月28日午後10時頃に公使館に侵入。

オールコック公使らを襲撃するつもりが、公使館を警護していた外国奉行配下の旗本や郡山藩士、西尾藩士らが応戦し、内外で攘夷派浪士と戦って双方に死傷者が出たということで、公使館の警備兵2名、襲撃した浪士側3名が死亡したそう。オールコック公使は無事だったが、書記官のローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷し、その後帰国することに。

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1-5、イギリス公使側の体験

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不明 - The Illustrated London News, 1861., パブリック・ドメイン, リンクによる

 オールコック公使と一緒に長崎から旅してきたのは、ローレンス・オリファント書記官(「エルギン卿使節記」の著者)、モリソン領事、そして画家でもあるチャールズ・ワーグマンでした。
「ワーグマンとその周辺」によれば、オリファントは犬を飼っていて、ドアの外で愛犬が激しく吠え、遠くでただならぬ声がしたために起きて(ピストルを入れた箱の鍵をなくしたので)、狩猟用の鞭をもって廊下に出て襲撃者に遭遇、鞭で応戦したが左腕に骨に達する切り傷を負い叫び声をあげたということ。それを聞いたモリソンがかけつけ、襲撃者に向かってピストルを発射したが、別の襲撃者に切りかかられて額に傷を負ったということ。そしてワーグマンはその一部始終を本堂の床下に隠れてみていたということで、後に有名なイラストを描いています。

ということで、オールコックは寺の奥の部屋で寝ていましたが、若い通訳が異変を告げに来たのでピストルを取りあげたところ、オリファント、モリソン両氏が相次いで血まみれとなって倒れ込んできたため、彼らを奥へと誘導して手当てして(オールコック大使は医師でもある)、ピストルを持ってしばらく身構えていたが、日本人護衛が誰一人として自分たちを守りに誰も来なかったことを憤慨したよう。

尚、 公使館側の死亡者は日本人護衛が1名と馬丁が1名、重傷者が公使館員1名と公使館の従僕2名、日本人護衛2名と人足2名、そして11名の負傷者と、犯人も含めた現場の死傷者は合わせて23名に。またオールコック公使は著書「大君の都」のなかで、150名の警備兵が全員寝ていて浪士たちと戦わなかったと記したが、実際は警備兵は立派に戦ったということで、後日、浪士らを撃退した警備の武士ら48名に褒賞があったそう。オールコック公使は、この事件が起こる以前は幕府が警備を口実として自分達を監視していると考えていたということですが、この事件で攘夷運動の熾烈さを強く認識したということ。

1-6、浪士たちのその後

 攘夷派浪士のうち、有賀半弥、小堀寅吉、古川主馬之介の3名がその場で討ち取られ、榊鉞三郎が現場で捕縛されて旗本生駒親敬に預けられた後、12月に斬首、逃げた浪士も、品川宿の「虎屋」で包囲されて、中村貞吉、山崎信之介の2名は切腹、石井金四郎は捕えられて、旗本山名義済に預けられた後、処刑されたということ。前木新八郎も逃げ切れず切腹に。

襲撃した浪士は全員、尊攘の大義のために実行した旨をしるし、全員で血判した趣意書(しゅいしょ)を携帯していて、逃走した黒沢五郎と高畑総次郎は、その後、老中安藤信正を襲撃した坂下門外の変に参加して闘死、岡見留次郎は西国に逃走後、天誅組の変に参加して敗走後捕えられ斬首。木村幸之助、森半蔵ら、その他の浪士たちも、逃亡の末に切腹、獄死または斬首と、明治時代まで生き延びたのは、渡辺剛蔵、矢沢金之助と、襲撃には参加せずに逃走して捕縛後、明治維新で特赦された堀江芳之助だけということに。

1-7、事件後の対応は

 第一次東禅寺事件後、オールコック公使は江戸幕府に対し厳重に抗議、イギリス海軍の水兵を公使館に駐屯させるための承認、日本側警備兵の増強、死亡した警備兵へなどへの賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決。この交渉にもとづいて品川御殿山に建設中だったイギリス公使館は、翌年12月、長州の高杉晋作らが焼き討ちして全焼に。

2-1、攘夷論(じょういろん)とは

ペリー来航後の幕末期に広まった、外国との通商に反対し、外国人を撃退して鎖国支持する、いわば保守的な排外思想のこと。元は中国の春秋時代の言葉ですが、幕末に開国後、西欧諸外国が日本に進出してきたため、外国人を夷人とみなして排撃しようという考え方。

2-2、なぜ水戸なのか

これは、水戸藩の2代目藩主徳川光圀が手掛け、光圀の死後も水戸藩の事業として200年以上継続して大日本史を編纂(明治39年(1906年)に完成)していたので、水戸藩ではこの事業に携わる学者が必然的に多くいて、朱子学や国学が盛んとなり、水戸学と称せられるようになったということ。

その水戸学大成の端緒となったのは、藤田幽谷の国体論と攘夷思想、そして9代藩主斉昭の天保改革を推進した藤田派の会沢正志斎、藤田東湖らが継承発展、斉昭の名で公表された「弘道館記」で結集したものが、幕末の尊王攘夷論の中核と考えられていて、国学の発展で、日本は神国であるというナショナリズムの台頭と、勤皇思想とあいまって、現実の外国勢力の脅威下で攘夷論と結びつき尊皇攘夷論が形作られたということ。

しかしかんじんの水戸藩は、内紛の天狗党の乱で多くの有能な逸材が全滅状態となり、明治維新に参加できず。

2-3、思想だが政策でもある攘夷

例えば、生麦事件で島津久光が大名行列を横切ったイギリス人を殺傷した事件は、江戸の庶民が、「薩摩の殿様が攘夷をなされた」とよくやった的に騒いだということ。当時は地震やコレラが流行、物価も高騰と不安な世の中で、蘭学や英語を習っただけ、また開国を容認する考えを表明しただけで、攘夷志士に襲われる可能性があったのはたしか。

しかし、長州藩などは尊王攘夷を唱えつつ、本気で外国人を嫌ってけがれた夷人と思っていたわけではなく、政策としてだったということ。長州藩の執政周布政之助は、攘夷の次に開国になったときのために、イギリスに5人の留学生を密航させたし、留学生の長州ファイブのふたりはイギリス公使館焼き討ちをした伊藤と井上だったことは有名。

また、攘夷志士が外国人を襲うと幕府が莫大な賠償金を払うはめになるため、幕府を経済面から倒すためにイギリス公使館焼き討ちをした高杉晋作、久坂玄瑞らのような人もいたということ。

もうひとつは、ヨーロッパ列強が海軍をもって日本を攻めても陸に上がって地上戦となった場合、攘夷志士たちが狂ったように最後のひとりまでが刀を振り回していては勝てそうにない、植民地にするのは無理、と考えさせるのに充分だったのが攘夷運動だったという見方も。

3-1、第二次東禅寺事件

image by PIXTA / 28154477

第二次東禅寺事件は、文久2年(1862年)5月29日、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件。

第一次東禅寺事件の後、オールコック公使は幕府による警護が期待できないとして公使館を横浜に移したが、オールコック公使が賜暇で帰国した後、代理公使となったジョン・ニール中佐が東禅寺に公使館を戻して、大垣藩、岸和田藩、松本藩が警護にあたることに。

そして東禅寺警備兵のひとりで、22歳の松本藩士伊藤軍兵衛が、東禅寺の警備によって自藩が多くの出費を強いられていること、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、いっそのことイギリス人公使を殺害すれば、自藩の東禅寺警備の任が解かれると考えてたったひとりでイギリス公使殺害を決意、凶行に及んだのですね。

この日は第一次東禅寺事件の1周年で、再び水戸浪士が襲撃するのではとの噂があったということ。そして伊藤軍兵衛は、深夜、ニール代理公使の寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見されて戦闘になり、彼らを倒したが自分も負傷して宿舎に逃れ自刃したそう。伊藤軍兵衛の単独犯行は、藩邸に残された遺書で判明したということ。

3-2、ウィリアム・ウィリスの目撃談

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パブリック・ドメイン, リンク

「ある英人医師の幕末維新」によれば、第二次東禅寺事件の直前に日本に赴任したばかりの公使館員兼医師のウィリアム・ウィリスが事件に遭遇、イギリスの家族に当てた手紙が残っていて、当時公使館には公使館付きの騎馬護衛兵12名、レナード号から上陸した30名の水兵、幕府から派遣された全部で535名もいた警備兵で守られていたということ。

事件当夜、ウィリスは本堂よりやや離れた部屋で寝ていたが、夜中に異様なけたたましい物音(日本の太鼓の響きや猛り狂った野獣のような叫び声)で目を覚まし、部屋の外に出るとクリンプ伍長が見回りのために立っていたので、何事か聞いても不明だったということ。その後、クリンプ伍長は犯人に遭遇、拳銃を発射し戦った音とウィリスを呼ぶ声がしたので、回廊の手すりから身を乗り出してみたあと、自分の部屋の前の回廊にわずかに身を乗り出して待っていたが、誰も来ないので身を潜め、思い切って報告のためにニール中佐の部屋へ行き、みんなが集まっていたということ。ウィリスは重傷の番兵の応急処置をしたりしたが、このときは大勢の浪人の襲撃かと思っていたらしい(クリンプ伍長は犯人に斬殺された)。

そして自分たちの護衛のひとりが犯人だと知ると、外国人に友好的だと思っていた大名の家来に襲われたならば、この国にはいたるところに敵がいると言わねばならない、これだけの警備兵がいるのに、犯人が公使館を出られるはずがないので、警備兵が反逆的な行動をとった(犯人の計画を知りつつ野放しにし、また逃亡させたという意味)のは明らか、犯人は自分の藩邸に帰って切腹したということで、警備兵の信用もすっかり失われた様子。

\次のページで「3-3、事件の後始末」を解説!/

3-3、事件の後始末

 事件後、6月1日にニール代理公使が幕府に抗議、犯人の処分を強く迫り、オランダやフランスも幕府に抗議。幕府は警備責任者を処罰、松本藩主松平光則に差控(謹慎)を命じ、翌日に松本藩は警護を解雇になり田中藩と交代に。そして町奉行の石谷穆清が、幕府の命で松本藩士番頭の友成覚右衛門など14人を尋問したということ。幕府はイギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行うも、なかなかまとまらず紛糾するうちに生麦事件が発生し、翌文久3年(1863年)4月、生麦事件の賠償金とあわせて1万ポンドを支払うことで事件は解決。

攘夷を叫ぶ志士の凶行に、外国人たちと幕府が振り回された事件

東禅寺事件は江戸に置いたイギリス公使館が攘夷志士に襲撃され死傷者が出た事件で、最初は複数の水戸浪士が、次は護衛をしていた松本藩士の単独犯行という2つの別の事件となっています。

両事件ともに、外国人を嫌い排除しようとしての犯行という意味では根っこは同じで、イギリス公使の怒りを爆発させ、公使館員たちを震え上がらせ、警備担当の幕府の信用を無くし頭を抱えさえたのは間違いないよう。しかし、この頃に蔓延していた攘夷をけっして憎悪の感情とだけでとらえてはいけない、これは幕末の革命を起こすエネルギーとして考えるべき。

それはこの後の文久2年(1852年)に御殿山に完成間近だったイギリス公使館を焼き討ちした高杉晋作ら長州の攘夷志士に加わっていた後の井上馨が、明治後鹿鳴館時代に「あのときはああでないといかんかった」と言ったという、わかったようなわからないような答えが物語っているような気がします。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末に起こったイギリス公使館襲撃事件「東禅寺事件」について歴女がわかりやすく解説

今回は東禅寺事件を取り上げるぞ。幕末に起こった外国公使館襲撃事件ですが、色々詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治時代に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治時代には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、東禅寺事件について5分でわかるようにまとめた。

1-1、東禅寺事件(とうぜんじじけん)とは

江戸時代末期、攘夷派志士が高輪の東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件で、文久元年(1861年)、文久2年(1862年)の2回発生し、それぞれ、第一次東禅寺事件、第ニ次東禅寺事件と呼ばれています。

1-2、第一次東禅寺事件

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第一次東禅寺事件は、文久元年(1861年)5月28日、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件。

1-3、事件の発端は

文久元年(1861年)5月に、イギリス公使オールコックは、長崎港から江戸へ向かう際、幕府側が、警備の問題から海路で江戸へ行くのを勧めたのにも関わらず、条約で定めた国内旅行権を強硬に主張し、陸路で江戸へ。

このオールコック公使の旅行が、「夷狄が神州日本を穢した」と、尊王攘夷派の志士たちの逆鱗に触れたということ。オールコック公使は、長崎から小倉まで陸上を通り、その後は瀬戸内海を船旅で兵庫まで、そして兵庫から大坂へ陸路をとり、京都はパスし、以降は陸路で東海道を下って江戸までの旅を敢行。

1-4、東禅寺事件勃発

オールコック公使は、5月27日にイギリス公使館が置かれた江戸高輪の東禅寺に入ったが、尊攘派の志士である水戸藩脱藩の浪士有賀半弥ら14名は、5月24日に常陸国玉造湊を出航して、東禅寺門前の浜に上陸。品川宿の妓楼「虎屋」で決別の盃を交わし、オールコック公使が東禅寺に入った翌日の5月28日午後10時頃に公使館に侵入。

オールコック公使らを襲撃するつもりが、公使館を警護していた外国奉行配下の旗本や郡山藩士、西尾藩士らが応戦し、内外で攘夷派浪士と戦って双方に死傷者が出たということで、公使館の警備兵2名、襲撃した浪士側3名が死亡したそう。オールコック公使は無事だったが、書記官のローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷し、その後帰国することに。

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