今回はエドウィン・ライシャワーを取り上げるぞ。日本生まれの日本研究者で駐日大使にもなったんだって、色々詳しく知りたいよな。

その辺のところを外国人の日本研究者に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。外国人の日本研究者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、エドウィン・ライシャワーについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、エドウィン・ライシャワーは日本の東京生まれ

image by PIXTA / 58900828

エドウィン・オールドファーザー・ライシャワーは、明治43年(1910年)10月15日東京で誕生。父は、キリスト教長老派教会宣教師で、新渡戸稲造や安井てつと共に、東京女子大学創立に関わったオーガスト・カール・ライシャワー、母は日本最初の日本聾話学校を設立したヘレン・シドウェル、きょうだいは3歳上の兄ロバート・カールと妹フェリシア。

ライシャワー家はオーストリア系移民で、祖父は南北戦争で北軍に従軍した人で、父は長老派教会の宣教師として日本に派遣。尚、ライシャワーの生家だった明治学院内宣教師住宅は、東京都東村山市の明治学院東村山高等学校敷地内へ移築されたそう。

1-2、ライシャワーの少年時代

ライシャワーは、兄と共に小学校と中学校をアメリカ人向けの築地のアメリカンスクール・イン・ジャパン で学んだそう。ライシャワーによると、日本生まれのアメリカ人の子供は、「ボーン・イン・ジャパン」と呼ばれたということで、かなり誇らしい、自慢になることだったということ。ライシャワーは、アメリカンスクール・イン・ジャパン在学時、現在まで残る校内新聞の「ランタン」の創刊に関わり、スポーツにも熱心な子供だったと言いうこと。

尚、大正12年(1923年)の関東大震災時、ライシャワーは軽井沢にいて被害を免れたということで、軽井沢に疎開で訪れる被災者を家族や知人らと軽井沢駅で支援したそう。また、カナダ人外交官で日本研究家、後にスパイの疑いをかけられて自殺したエドガートン・ハーバート・ノーマンは、当時軽井沢で一緒にテニスをした知人。

1-3、ライシャワー、アメリカの大学へ

日本在住の欧米人の子弟は、高等教育は母国で受けさせることになっているのですが、ライシャワーも昭和2年(1927年)に家族とともにアメリカに帰国してオバーリン大学に入学、「1860年以前の日米関係」という論文を書いて卒業後、ハーバード大学文理学部の大学院に進学。後にライシャワーはハーバード大学教授となったが、昭和56年(1981年)4月22日の最終講義で、「私がここに初めて来たとき、東アジア研究に興味を持っていた大学院生は私と兄の2人しかいなかった」と回顧したということ。

2-1、ライシャワー、学究生活へ

image by PIXTA / 33819953

ライシャワーは昭和8年(1933年)、ハーバード燕京研究所所長で、数少ない日本文学者であったセルゲイ・エリセーエフに、設立計画中の極東言語学部で日本語の講師にならないかとの依頼を受け、フランスと日本、中国で研修のために、パリにある国立現代東洋語学校へ行き、日本語と中国語を学んだということ。

ライシャワーはヨーロッパ留学中、オランダやオーストリア、ドイツ、チェコ、スロヴァキア等を旅行、ドイツでは、レーム事件の現場に居合わせたそう。ライシャワーは後に、オーストリアのザルツブルクの丘の上の古城からの風景が、日本の城下町に似ていることから日本とヨーロッパの歴史の類似性と日本の近代化と封建時代の重要性を考えるようになったと回想。

レーム事件
1934年6月 30日、ドイツのアドルフ・ヒトラーが (ナチス突撃隊) 隊長 E.レームなどのナチス党内の反ヒトラー分子や左派分子をH.ゲーリング、H.ヒムラーらの協力のもとで粛清、政権を掌握したヒトラーの地位が確立された事件。

\次のページで「2-2、ライシャワー、太平洋戦争前の不穏な状況の極東で研究を」を解説!/

2-2、ライシャワー、太平洋戦争前の不穏な状況の極東で研究を

Harvard-Yenching Institute, Harvard University.jpg
Daderot - 自ら撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

昭和10年(1935年)ライシャワーは再来日し、東京帝国大学文学部初の外国人特別研究生に。そして翌年の2.26事件を体験、急進派若手将校はすぐ鎮圧されたせいか、ヨーロッパの暴動に較べると規模が小さいと感じたそう。同年7月、パリ大学の学生だった中国生まれのアドリエンと東京で結婚。その後、京都帝国大学文学部国史学科の特別研究生となり、平安時代初期に最後の遣唐使で唐に留学した最澄の弟子である延暦寺座主の円仁の日記を翻訳、また古都京都の歴史を海外へ紹介しつつ、生花や茶の湯を専門的に習い、日本の古典を勉強、「大鏡」「平治物語」「十六夜日記」などを英訳し出版。

昭和13年(1938年)、ライシャワーは京城に3ヶ月滞在、平壌生まれのアメリカ人言語学者ジョージ・M・マッキューンと、朝鮮語ローマ字の表記として「マッキューン=ライシャワー式」を考案。 日中戦争最中の昭和12年(1937年)11月に北京の燕京大学で研究活動を行い、中国文化院で中国語を学んだということ。そして昭和13年(1938年)にはハーバード大学に戻って日本語と中国語の講師となり、1939年(昭和14年)に円仁の「入唐求法巡礼行記」の研究で博士号を授与。

尚、この頃、プリンストン大学教授で実兄ロバート・カール・ライシャワー博士 が、訪問中の上海で国民党国民党軍機による上海空爆で亡くなるという悲劇も。

2-3、ライシャワー、第二次世界大戦で日本通として関わる

当時はアメリカで日本語の分かる人が少なく、ライシャワーは日本語がペラペラなだけでなく研究者でもあるので貴重な存在に。ということで、ライシャワーは昭和16年(1941年)に、国務省の依頼で極東課に数か月間勤務してハーバード大学に戻ったが、同年12月の日本の真珠湾攻撃でアメリカが第二次世界大戦に参戦後、昭和17年(1942年)、アメリカ陸軍通信隊の依頼で日本語の翻訳と暗号解読のための学校設立に尽力、情報仕官を育成することに。ライシャワーは言語だけでなく日本の歴史、文化も基礎知識として教えたので、日本への興味が深まり後に研究者となるドナルド・キーンのような人が多く出たということ。

そして昭和18年(1943年)、アメリカ陸軍の参謀部情報からの要請で少佐として陸軍に入隊、ワシントンD.C.で対日情報戦として、日本軍の暗号解読や分析、心理戦などに関わることに。

2-4、太平洋戦争後のライシャワー

ライシャワーは、昭和20年(1945年)8月、第二次世界大戦終結後、11月に中佐として陸軍を除隊、国務省の外交諮問委員会の極東小委員会の委員となって、アメリカの日本占領軍の政策に関わり、天皇制の将来、朝鮮半島に対する政策についてを担当したということ。

2-5、ハーバード大学極東学会会長

昭和21年(1946年)、ライシャワーは、ハーバード大学に戻って極東学会の副会長、会長を歴任し、昭和23年(1948年)人文科学顧問団の一員として連合国の占領下の日本へ来て、ダグラス・マッカーサーと会談。1950年代前半のアメリカでの赤狩り旋風では、ライシャワーはイデオロギー的に偏りがなく、中国史研究者ではあっても国務省で関わったのは日本や朝鮮の政策だけだったせいもあって、難を逃れたそう。 この頃のライシャワーのハーバード大学での教え子には、ジミー・カーター政権で国家安全保障問題担当補佐官だったズビグネフ・ブレジンスキーなどがいたということ。

2-6、ライシャワー、松方ハルと再婚

Edwin Oldfather Reischauer and his wife.jpg
不明 - 朝日新聞社「アルバム戦後25年」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

昭和30年(1955年)、最初の夫人アドリエンが3人の子供を残して急逝。昭和31年(1956年)にライシャワーは明治の元勲の松方正義の孫で、アメリカンスクール・イン・ジャパンの後輩の松方ハルと日本で再婚。結婚披露はライシャワーの両親がが創設に尽力し、一時住んでいたこともある東京女子大学で行われたということ。
ライシャワーは昭和31年(1956年)からに昭和38年(1963年)までハーバード燕京研究所所長に就任。

また昭和33年(1958年)、ノーベル文学賞候補として谷崎潤一郎を推薦していたということが、ノーベル財団の資料公開で明らかになったという2009年に朝日新聞の報道があったが、これはライシャワーが文字通り日本通の学者として世界に認められていたということでは。

\次のページで「3-1、ライシャワーの論文が政治家に注目され、駐日アメリカ大使に」を解説!/

3-1、ライシャワーの論文が政治家に注目され、駐日アメリカ大使に

Edwin Oldfather Reischauer 01.jpg
不明 - 時事画報社「フォト(1961年5月15日号)」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

昭和30年代(1960年代)の日本は、日米安保闘争などで揺れ動いていた時代ですが、ライシャワーは安保闘争直後の昭和35年(1960年)夏、ハーバード燕京研究所所長として来日し、外交専門雑誌「フォーリン・アフェアーズ」1960年10月号に「損なわれた対話 」という論文を発表、「アメリカをはじめとする西側諸国は、日本政府の閣僚や与党議員、財界の指導者だけでなく、野党や、右翼、左翼活動家、知識人に至るまで異端視せずに対話を重ねて、日本の主流から外れた人々の実態、不満を把握するべき」と主張。

この論文が、当時就任間もない民主党大統領のジョン・F・ケネディ政権の国務次官チェスター・ボールズの補佐官だったジェームス・C・トムソン・ジュニアに注目されて、駐日特命全権大使への就任要請につながったということ。
ライシャワーは、ジョン・F・ケネディ大統領からの大使就任要請を受諾し、昭和36年(1961年)4月、駐日アメリカ特命全権大使として東京に赴任、「日本生まれのアメリカ大使」として日本国民から人気に

アメリカの大使というのは、大統領選挙のときに多大な献金とか支持してくれた大物に対して、見返り的にその人が希望するヨーロッパの先祖の地とかに派遣されることが多く、駐日大使はそういう意味での希望者がなくて代々学者的な人物が就任するということですが、ライシャワー大使はその最たるものでしょう。

3-2、ライシャワー、積極的に日本国民と交流

ライシャワーは日本生まれで言葉も流暢で、日本文化への理解も深い人ですが、前述の論文で主張したとおりに、日本の様々な層との対話を実行、ハル夫人と共に積極的に日本全国に行って市民との対話を演出、また昭和天皇などの皇族、池田勇人、佐藤栄作といった現職の首相、吉田茂、岸信介などの元首相ら、社会党などの左派、野党議員、石坂泰三などの経済人、池田大作などの宗教関係者、左派を含めた労働組合関係者とも積極的に会談を行ったということ。

そしてアメリカ本国のケネディ政権と協調し、日米政府間の対等をアピール、「日米パートナーシップ」、「ケネディ、ライシャワー路線」といわれた日米蜜月時代を演出。また、冷戦下で大使館とは微妙な関係だった在日アメリカ軍との関係改善にも尽力し、在日アメリカ軍司令官や太平洋軍司令官、沖縄の琉球列島高等弁務官などと緊密な関係を。そしてアヴェレル・ハリマン、リチャード・ニクソン、ロバート・ケネディなどの政界関係者の来日時に日本の政財界人との間を取り持ち、同盟国日本との関係の重要性の理解に努めたということ。

ライシャワーは駐日大使在任中、ほぼすべての都道府県を訪問、ハル夫人も女性団体やその他各種団体などとの会合に積極的に出席して日本の市民との接触を積極的に行い、その活動はマスコミで大きく報道されたそう。しかし、昭和38年(1963年)11月、ケネディ大統領暗殺後、リンドン・ジョンソン政権以降には、アメリカのベトナム戦争政策がもとになり日本での反米感情の高まりに悩まされることに。

3-3、ライシャワー事件勃発

昭和39年(1964年)3月、ライシャワーはアメリカ大使館門前で当時19歳の統合失調症患者にナイフで大腿を刺され重傷。そしてこの時の輸血で、「私の体の中に日本人の血が流れることになった」と発言して、多くの日本人から賞賛を浴びたが、この輸血が元で肝炎に罹り、生涯悩まされることになったのは本当に気の毒。

その後日本では、この事件がきっかけになって売血問題がクローズアップされ、輸血用血液は献血で調達されることになったということで、当時の精神衛生法改正など、日本の医療制度に大きな影響を与えたそう。

ライシャワーは、3ヶ月後に回復して退院、一時は辞任も考えたが、「今退任して帰国すれば日本人は事件の責任を感じてしまう」と留任を決め、その後も駐日大使として活躍。 しかし、昭和41年(1966年)7月、ベトナム戦争が拡大して日本人の対米感情が悪化の一途になり、ライシャワー自身もベトナム情勢のアメリカ本国の政策に違和感を覚えていたせいで辞任することに。ジョンソン大統領は、ライシャワーに極東問題担当の国務次官就任を依頼されたがことわったということ。

3-4、ライシャワー、ハーバード大学へ帰任

大使辞任後のライシャワーは、ハーバード大学教授に帰任して学究生活を続けつつ、南ベトナムへの干渉、中華人民共和国の承認、沖縄返還、対韓国政策の再考などに関し精力的に発言するようになり、日本を始めとする極東問題の専門家として、歴代のアメリカの政権、ヘンリー・キッシンジャーや教え子でもあるズビグネフ・ブレジンスキーなどのアメリカの外交関係者、さらに中曽根康弘首相、韓国の野党指導者の金大中(その後大統領)に対しても様々な助言を行うように。また、昭和49年(1974年)の佐藤栄作のノーベル平和賞受賞の際、推薦文を記述したということ。

ライシャワーは、昭和48年(1973年)、ハーバード大学日本研究所所長に就任したほかにも、ハーバード大学東アジア研究評議会理事、OECD理事やアジア基金理事など数多くの役職を務め、日本及びアジア研究者として日米間を緊密に往復して活躍。

3-5、ライシャワーの晩年

ライシャワーは、襲撃事件後の輸血で肝炎が持病となり、昭和50年(1975年)には脳卒中に見舞われた後、脳内出血などと病気がちとなったが回復し、昭和55年(1980年)10月に定年退職するまで研究活動を続け、多数の著書も出版。

ハーバード大学日本研究所は、ライシャワー退職後の昭和60年(1985年)、ライシャワーの業績をたたえて「ハーバード大学ライシャワー日本研究所 」と改称されたということ。また昭和62年(1987年)、アメリカを公式訪米された当時の皇太子明仁親王(現上皇)と美智子妃(現上皇妃)がライシャワー邸に滞在するなどの話題も提供。

しかし平成2年(1990年)の夏、持病となった肝炎が悪化、延命治療を拒否して9月1日に79歳で死去。遺灰は遺言で「日本とアメリカの架け橋になりたい」と、太平洋に散骨されたということ。

\次のページで「4-1、ライシャワーの逸話」を解説!/

4-1、ライシャワーの逸話

色々な逸話があります。

4-2、京都の爆撃回避について

戦後に西ドイツで書かれた「千の太陽よりも明るく 原爆を造った科学者たち」の中に、太平洋戦争中、ライシャワーがアメリカ陸軍航空隊の日本の主要都市の爆撃リストを受け取り、その中に京都の名前があったために、自分の上司のオフィスに駆け込んで涙を流して上司に京都を爆撃リストから外す事を必死に頼み込み、ライシャワーの必死の説得に心を打たれた上司は、陸軍長官ヘンリー・スティムソンに事情を説明、スティムソンもハネムーンで京都を訪れて以来日本に感銘を受け、京都をリストから除外する事に尽力、かくて日本の文化遺産満載の古都の京都はアメリカ軍機による爆撃を免れたという逸話が載っているということだが、ライシャワーはこの逸話について「ライシャワー自伝」で完全に否定したということ。

京都はまったく空襲を受けなかったというわけではないそうですが、なんと広島、長崎に次いで第3の原爆投下予定地であったということ。ライシャワーはまたNHKの番組で、日本への原爆投下は、当時明らかに人種差別的な意味合いもあり、ヨーロッパの都市には原爆投下しなかったであろう、たいへん恥ずべきこととしてコメントしたそう。

それと、元駐日イギリス大使サー・ヒュー・コータッツィ著「続東の島国 西の島国」には、イギリスが「太平洋戦争末期にイギリスが日本の皇室の存続を支持し、京都と奈良を爆撃しないようにワシントンに影響力を行使したこと及び「天皇による降伏文書署名」に反対し、その案を放棄させた」とあり、京都、奈良を守りたいと考えて行動した欧米人は他にも多くいたということでしょう。

4-3、ライシャワー発言

昭和56年(1981年)5月18日付の毎日新聞に、古森義久記者の取材に対してライシャワーが、「非核三原則の規定する持ち込みとは陸揚げを指し、核兵器を搭載した艦船の寄港は含まない」「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」「これについては日米安保条約の規定する"事前協議"の対象とならないことを日本側も了解していた」と発言したことが大きな話題になったそう。

非核三原則違反を元アメリカ大使が認めたと、日本政府は野党などの追及を受け、ライシャワーさんもお年を召したのではと失礼なことを言ってすっとぼけたりしたそうだが、日本政府は当時の園田直外相がマイケル・マンスフィールドアメリカ大使から、「日本政府の核政策に背かない、したがって核持ち込みはない」と再確認をとりつけ、更に対米交渉を行うつもりはないと押し切ったということ。

しかし後の平成11年(1999年)、日本の大学教授がアメリカの外交文書から「1963年にライシャワー大使と当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内のアメリカ軍基地への核兵器の持ち込みを了承」という国務省と大使館との通信記録を発見し、この発言を裏付けることに。

4-4、日本語が達者

ライシャワーは大使時代、日本語の会話能力は高かったが、公の場では必ず通訳の西山千を通じて会話したそう。しかし天皇や皇后、皇太子らとは日本語で会話し、大学などでの公演では通訳が英語で話すと日本語で答えて喝采されることもあったということ。

日本生まれを誇りにした日本学者で大使となって両国の架け橋になった

エドウィン・ライシャワーは、明治期の日本にキリスト教を布教しにやってきた宣教師の息子として日本で生まれ、日本で育ち、日本や朝鮮半島、中国文化を研究して学者となった人。

しかし日本がやらかした太平洋戦争のおかげでアメリカでは数少ない日本通として注目され、戦中戦後と政治的にも関りを持ち駐日アメリカ大使となって活躍することに。歴史的には駐日アメリカ大使として有名で、著書やインタビューなどのひとつひとつの発言が、明治期からの日本を体験し、歴史などにも通じ、ワシントンの情報にも通じたアメリカ人として大変貴重なもの。

またハーバード大学のライシャワー日本研究所は大学の内外で、学術的にも一般的な日本への関心を深めるためにも世界的な拠点のひとつとなっているそうで、両国の架け橋になりたいと望んだライシャワーの功績は計り知れないものがあるはず。

" /> 駐日アメリカ大使となった「エドウィン・ライシャワー」著名な日本研究者について歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
日本史明治歴史

駐日アメリカ大使となった「エドウィン・ライシャワー」著名な日本研究者について歴女がわかりやすく解説

今回はエドウィン・ライシャワーを取り上げるぞ。日本生まれの日本研究者で駐日大使にもなったんだって、色々詳しく知りたいよな。

その辺のところを外国人の日本研究者に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。外国人の日本研究者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、エドウィン・ライシャワーについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、エドウィン・ライシャワーは日本の東京生まれ

image by PIXTA / 58900828

エドウィン・オールドファーザー・ライシャワーは、明治43年(1910年)10月15日東京で誕生。父は、キリスト教長老派教会宣教師で、新渡戸稲造や安井てつと共に、東京女子大学創立に関わったオーガスト・カール・ライシャワー、母は日本最初の日本聾話学校を設立したヘレン・シドウェル、きょうだいは3歳上の兄ロバート・カールと妹フェリシア。

ライシャワー家はオーストリア系移民で、祖父は南北戦争で北軍に従軍した人で、父は長老派教会の宣教師として日本に派遣。尚、ライシャワーの生家だった明治学院内宣教師住宅は、東京都東村山市の明治学院東村山高等学校敷地内へ移築されたそう。

1-2、ライシャワーの少年時代

ライシャワーは、兄と共に小学校と中学校をアメリカ人向けの築地のアメリカンスクール・イン・ジャパン で学んだそう。ライシャワーによると、日本生まれのアメリカ人の子供は、「ボーン・イン・ジャパン」と呼ばれたということで、かなり誇らしい、自慢になることだったということ。ライシャワーは、アメリカンスクール・イン・ジャパン在学時、現在まで残る校内新聞の「ランタン」の創刊に関わり、スポーツにも熱心な子供だったと言いうこと。

尚、大正12年(1923年)の関東大震災時、ライシャワーは軽井沢にいて被害を免れたということで、軽井沢に疎開で訪れる被災者を家族や知人らと軽井沢駅で支援したそう。また、カナダ人外交官で日本研究家、後にスパイの疑いをかけられて自殺したエドガートン・ハーバート・ノーマンは、当時軽井沢で一緒にテニスをした知人。

1-3、ライシャワー、アメリカの大学へ

日本在住の欧米人の子弟は、高等教育は母国で受けさせることになっているのですが、ライシャワーも昭和2年(1927年)に家族とともにアメリカに帰国してオバーリン大学に入学、「1860年以前の日米関係」という論文を書いて卒業後、ハーバード大学文理学部の大学院に進学。後にライシャワーはハーバード大学教授となったが、昭和56年(1981年)4月22日の最終講義で、「私がここに初めて来たとき、東アジア研究に興味を持っていた大学院生は私と兄の2人しかいなかった」と回顧したということ。

2-1、ライシャワー、学究生活へ

image by PIXTA / 33819953

ライシャワーは昭和8年(1933年)、ハーバード燕京研究所所長で、数少ない日本文学者であったセルゲイ・エリセーエフに、設立計画中の極東言語学部で日本語の講師にならないかとの依頼を受け、フランスと日本、中国で研修のために、パリにある国立現代東洋語学校へ行き、日本語と中国語を学んだということ。

ライシャワーはヨーロッパ留学中、オランダやオーストリア、ドイツ、チェコ、スロヴァキア等を旅行、ドイツでは、レーム事件の現場に居合わせたそう。ライシャワーは後に、オーストリアのザルツブルクの丘の上の古城からの風景が、日本の城下町に似ていることから日本とヨーロッパの歴史の類似性と日本の近代化と封建時代の重要性を考えるようになったと回想。

レーム事件
1934年6月 30日、ドイツのアドルフ・ヒトラーが (ナチス突撃隊) 隊長 E.レームなどのナチス党内の反ヒトラー分子や左派分子をH.ゲーリング、H.ヒムラーらの協力のもとで粛清、政権を掌握したヒトラーの地位が確立された事件。

\次のページで「2-2、ライシャワー、太平洋戦争前の不穏な状況の極東で研究を」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: