今日は日露戦争について勉強していきます。明治時代になると日本は外国と対等に渡り合えるよう近代化を目指し、1894年に起こった清国との日清戦争では圧勝という形で見事勝利した。

そしてそれから10年後の1904年、今度はあのロシアと戦争することになるのです。そこで今回、日露戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日露戦争をわかりやすくまとめた。

日清戦争後のロシアの圧力

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遼東半島を巡る三国干渉

朝鮮半島の支配権を巡って1894年に行われた日清戦争、その戦いに勝利した日本は翌1895年に清国と下関条約を締結して台湾・澎湖諸島・遼東半島を手に入れました。しかし、日本の領土が拡大されたと思われた矢先に圧力をかけてきたのがロシア、なぜならロシアもまた遼東半島を領土にしようとしていたからです。

そこでロシアは日本に対して遼東半島を清国に返還するよう要求、さらなる日本への圧力としてドイツ・フランスも加えた三国で日本に対して遼東半島の返還を求めたのでした。これを三国干渉と呼び、ロシアのみならずドイツ・フランスまで加わった圧力に屈した日本は仕方なく要求に応じます。

遼東半島の返還後、待ってましたとばかりにすかさず動いたのがロシア。遼東半島を租借地(そしゃくち)として手に入れ、さらにその近くに鉄道を建設する権利まで得たのです。そこまでしてロシアが遼東半島を欲しがったのは、凍ることなく年中貿易ができる不凍港を手に入れるためでした。

日本のロシアへの怒りと清国の異変

日清戦争はもちろんロシアとは無関係、それにも関わらず下関条約による遼東半島の日本への譲渡に横やりを入れ、挙句の果てに日本が返還した遼東半島を半ば自らの領土にしています。さらにロシアは南下政策を行って朝鮮・清国のある南へと進出していき、日本をなお威圧して見せたのでした。

さて、日本からすればそんなロシアの行動は身勝手極まりなく、当然激しい敵対感情が芽生えていきます。日本の中では「ロシアを倒せ!」の声が高まり、そこで日本は日清戦争で清国から得た多額賠償金を軍事力強化に費やし、来たるべきロシアとの対決の日に備えていたのです。

そんな矢先となる1900年のこと、中国の清国にて義和団と名乗る宗教団体が外国人を退ける運動を行い始めます。そして内乱の末、清国はイギリス・フランス・オーストリア・ロシア・日本・英領インド・アメリカ・イタリアらに宣戦布告するというとんでもない行動に出るのでした。

義和団事件の影響

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義和団の誕生

1900年の義和団事件、日清戦争で敗北した清国の中で急速に広まったのがキリスト教です。キリスト教の布教の自由が認められた宣教師は清国の各地で布教活動を行いますが、清国の人々からすればその活動は侵略に等しく、そのため各地ではキリスト教の宣教師を排除する運動が多発するようになります。

こうして清国がキリスト教と対立する中、徐々に広まって支持されるようになったのが義和拳です。そしてその果てに誕生した義和団、義和団はキリスト教の宣教師だけでなく外国人の外交官を次々と殺害していきました。このため、日本を始めとしたヨーロッパの主要国は清国に兵を送って義和団による内乱鎮圧を図ります。

しかし一向に鎮まらない清国での内乱、そこで清国は敢えてイギリス・フランス・オーストリア・ロシア・日本・英領インド・アメリカ・イタリアらに宣戦布告。清国は大胆にも、義和団の力を借りて主要国を倒してしまえるならそれもまた良しと目論んだのでした。

日本とロシア、それぞれの利益

清国の目論みはさすがに無謀、いくら義和団が国内で暴れても所詮は農民による素人集団、主要国の陸軍に勝利できるはずなくあっさりと清国は敗北してしまいます。こうして義和団事件は収まったものの、この戦いによって日本とロシアはそれぞれ利益を得ることになり、それが日露戦争勃発の引き金になるのでした。

日本の利益、それはイギリスと日英同盟を結べたことです。当時イギリスは世界一領土を持つ大国でしたが、あまりにも領土が広いためアジアまで領土を広げるのに苦労しており、そのためロシアへの対抗として近代化しつつある日本との同盟締結を望みます。日英同盟締結によって、日本はイギリスという頼もしい味方ができました。

一方ロシアの利益、それは満州を占領できたことです。朝鮮に対しても鉱山を運営する権利を得たロシア、日本にとって喉から手が出るほど欲しかった朝鮮の領土、それをロシアに取られたことは朝鮮への日本の影響力の妨げとなってしまい日露関係は悪化します。日本とロシアの戦争はもはや避けられない運命となりました。

1904年 日露戦争の勃発

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旅順攻略のための作戦

三国干渉後に高めた軍事力、そして日英同盟によるイギリスのバックアップ、もはや日本はロシアと戦う準備は万全です。そして1904年にロシアに対してついに宣戦布告、旅順港を攻撃したことで日露戦争が勃発しました。まず日本はソウル近くの仁川へと上陸、そこで日韓議定書を結んで韓国を影響下に置きます。

続いて仁川沖にてロシア艦隊と戦闘、仁川沖海戦と呼ばれるこの戦いで日本は勝利して、ひとまず朝鮮は確保できました。しかし日本にとって本当の戦いはここから……勝利するためには、ロシア軍の重要補給地点である旅順を占領しなければなりません。

そこで日本が取った作戦は旅順港の封鎖、要するに港を封鎖してロシア軍の補給を切らしてしまおうという考えです。その作戦は失敗に終わりますが、ロシア軍最強のバルチック艦隊が旅順に向かっていると知った日本軍の軍人・乃木希典は旅順への総攻撃を行いました。

203高地の攻防

旅順へ総攻撃をかける日本軍、しかし要塞のごとく守りの固い旅順はそう簡単に落とせません。そのため総攻撃は失敗、日本軍の兵士から多くの死傷者が出る事態となりました。そして、こうして激しい戦いの火ぶたが切って落とされていたその頃、日本では与謝野晶子が詩を残しています。

「君死にたまふことなかれ」、ああ弟よ君を泣く……そう始まるこの詩は、今まさに旅順で戦っている弟に向けたものでした。さて、再び舞台は戦場へ。軍人・乃木希典は旅順攻略のために新たな作戦を立てます。その作戦とは、旅順の近くにある丘である203高地の確保でした。

203高地を確保すれば旅順に対して丘の上から攻撃が可能となり、旅順制圧の戦いにおいて戦場の高低差で有利になります。この作戦が見事的中した日本軍、再び多くの犠牲者を出しながらも203高地の確保に成功、一変して戦況が有利となった日本軍は旅順の制圧に成功したのです

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奉天会戦と日本海海戦

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両軍60万人の兵が戦闘・奉天会戦

日本軍は満州を確保するために24万もの兵力で奉天に攻め入ります。これに抵抗するロシア軍、この奉天会戦では両軍60万人に及ぶ兵士が戦いを繰り広げており、激戦の末日本軍が勝利して奉天の占領に成功、ロシアは満州北部まで撤退していきました。

旅順も制圧したことで日本有利かと思われましたが、ここで戦況を一変させかねない情報が入ります。旅順港に入港すると思っていたロシアのバルチック艦隊がウラジオストクに入港するというのです。そうなってしまえば満州で戦闘中のロシア軍に補給体制が整うため、日本は一変して不利になってしまうでしょう。

ロシア軍に補給させてはならない、バルチック艦隊のウラジオストク入港だけは絶対に食い止めたい日本軍、そこで日本の連合艦隊は日本海沖でバルチック艦隊を迎撃しようと考えます。最強と謳われるバルチック艦隊、しかし日本の連合艦隊の艦長・東郷平八郎には確かな勝算がありました。

最強バルチック艦隊との決戦・日本海海戦

北極海が凍結している今、バルチック艦隊が日本海に進むとすれば大西洋・インド洋の経由が必須です。しかしその航路にある沿岸の大半はイギリス領土であり、日英同盟が成立している以上、イギリスがロシアの艦隊に対して補給を許すことはあり得ません。

つまり日本海沖で戦えば、最強のバルチック艦隊も万全の状態で戦えないのです。艦長・東郷平八郎はそこに勝機を見出したのでした。そしてバルチック艦隊を発見した日本の連合艦隊、こうして始まったのがロシア軍の主力艦船であるバルチック艦隊との戦いです。

日本海海戦と呼ばれるこの戦いは、荒天の天候をも利用した日本の連合艦隊の勝利。バルチック艦隊がほぼ壊滅した中、日本の連合艦隊はほぼ無傷であり、文字とおり圧勝の結果となったのです。ロシアにとっては、日露戦争勝利のための最後の切り札を失う形となりました。

日露戦争の結末

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ポーツマス条約の締結

日露戦争の中で起きたいくつもの戦い、そしてバルチック艦隊まで敗北したロシアは、もはやこれ以上戦争を継続することが困難になりました。一方、勝利を重ねた日本も戦争の継続は正直難しく、なぜなら日露戦争で既に当時の国家予算30年分に相当する費用がかかっていたからです。

そんな両国の状況を知ったアメリカのルーズベルト大統領は講和の仲介に入ります。それは1905年のこと、アメリカのポーツマスと呼ばれる場所で日本とロシアとの間にポーツマス条約を結び、両国は講和に至ったのでした。条約に調印したのは日本側が外務大臣の小村寿太郎、ロシア側はセルゲイ・ヴィッテです。

条約の内容は「韓国を日本の影響下にすることをロシアは認める」、「旅順港を日本の租借地とする」、「南樺太を日本の領土として、オホーツク海における漁業権を認める」など、いずれも日本側に有利なものでした。それもそのはず、仲介が入ったことで戦争の結果としては引き分けなものの、戦い自体は完全に日本が勝っていたからです。

日露戦争後の日本とロシア

日露戦争で実質ロシアに勝利した日本、その実力は世界で認められ、アジア唯一の列強国として位置付けられるようになります。そして、1911年にはアメリカとの間で関税自主権が回復、さらには将来の国際連盟にて常任理事国の一つとなるほど成長しました。

戦争にかかった莫大な費用の賠償金がロシアから支払われなかったことに国民は怒りを見せますが、それは政府に責任があるわけではなく、ポーツマス条約に従ってのことです。とは言え、日本ではポーツマス条約に反対する人々が日比谷焼打事件と呼ばれる暴動を起こす事態となってしまいました。

アジア唯一の列強と呼ばれるようになった日本。ヨーロッパの植民地となっていたアジアの国々の中で日本が輝きを見せるようになる一方で、日露戦争で実質敗北したロシアは国内で大混乱を招いてしまい、やがてそれがロシア革命へとつながっていくことになるのでした。

ポーツマス条約を結んだ場所はアメリカだ!

原因、経過、結末、影響、覚えることの多い日露戦争ですが、その中で敢えてポイントを挙げるならポーツマス条約を結んだ場所です。これは本当に間違える人が多いので要注意ですよ。

ポーツマス条約を結んだ場所はアメリカで、ちなみにポーツマスとはアメリカの地名になります。ただ、アメリカは日露戦争とは直接無関係のため、条約締結の場所を日本やロシアと回答してしまう人が多いのです。

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日本史明治歴史

強国・ロシアへの宣戦布告「日露戦争」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は日露戦争について勉強していきます。明治時代になると日本は外国と対等に渡り合えるよう近代化を目指し、1894年に起こった清国との日清戦争では圧勝という形で見事勝利した。

そしてそれから10年後の1904年、今度はあのロシアと戦争することになるのです。そこで今回、日露戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日露戦争をわかりやすくまとめた。

日清戦争後のロシアの圧力

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遼東半島を巡る三国干渉

朝鮮半島の支配権を巡って1894年に行われた日清戦争、その戦いに勝利した日本は翌1895年に清国と下関条約を締結して台湾・澎湖諸島・遼東半島を手に入れました。しかし、日本の領土が拡大されたと思われた矢先に圧力をかけてきたのがロシア、なぜならロシアもまた遼東半島を領土にしようとしていたからです。

そこでロシアは日本に対して遼東半島を清国に返還するよう要求、さらなる日本への圧力としてドイツ・フランスも加えた三国で日本に対して遼東半島の返還を求めたのでした。これを三国干渉と呼び、ロシアのみならずドイツ・フランスまで加わった圧力に屈した日本は仕方なく要求に応じます。

遼東半島の返還後、待ってましたとばかりにすかさず動いたのがロシア。遼東半島を租借地(そしゃくち)として手に入れ、さらにその近くに鉄道を建設する権利まで得たのです。そこまでしてロシアが遼東半島を欲しがったのは、凍ることなく年中貿易ができる不凍港を手に入れるためでした。

日本のロシアへの怒りと清国の異変

日清戦争はもちろんロシアとは無関係、それにも関わらず下関条約による遼東半島の日本への譲渡に横やりを入れ、挙句の果てに日本が返還した遼東半島を半ば自らの領土にしています。さらにロシアは南下政策を行って朝鮮・清国のある南へと進出していき、日本をなお威圧して見せたのでした。

さて、日本からすればそんなロシアの行動は身勝手極まりなく、当然激しい敵対感情が芽生えていきます。日本の中では「ロシアを倒せ!」の声が高まり、そこで日本は日清戦争で清国から得た多額賠償金を軍事力強化に費やし、来たるべきロシアとの対決の日に備えていたのです。

そんな矢先となる1900年のこと、中国の清国にて義和団と名乗る宗教団体が外国人を退ける運動を行い始めます。そして内乱の末、清国はイギリス・フランス・オーストリア・ロシア・日本・英領インド・アメリカ・イタリアらに宣戦布告するというとんでもない行動に出るのでした。

義和団事件の影響

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