

そこで今回は正確な場所が把握されていない国だった邪馬台国について歴史マニアである歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/what
日本の歴史の始まりとされる国造りが行われていた邪馬台国について国の様子から他国との交流などを解説していき自分なりの邪馬台国の位置についても紹介していく。
邪馬台国の成り立ち
邪馬台国の登場は、三国志で有名な魏によって書かれた魏志倭人伝で日本にあったことが確認されております。
魏志倭人伝での邪馬台国

邪馬台国の名前が登場するのが、230魏年代に魏を収めていた曹氏によって書かれたとする魏志倭人伝に邪馬台国の名前が記載されていました。日本では一世紀から二世紀にかけて全国各地で争いが行われていて男性が王を務めていたと書かれています。
あまりに争いが収束しなかったため女性だった卑弥呼を王として即位させていくと、国の争乱が静まっていきました。倭国は卑弥呼だけでなく弟も卑弥呼に力を貸していたようで、国を収める補佐役として活躍していたようでうす。
倭国自体は三十国が集まり形成されていた国だったようで倭国を中心とした国作りが為されていました。
魏王へ使者を派遣
倭国を収めてはいましたが、同様な国があり狗奴国と対立関係にあったようで卑弥呼だけで日本国を統治してはおりませんでした。当然ながら対立している狗奴国とは争いが行われていたとされています。
狗奴国よりも優位となるために、魏王に使者を送り貢ぎ物を行った結果として親魏倭王に認めらる形となり金印と書状が送られていました。倭国からすると魏国は巨大な国だったことにくわえて卑弥呼が女王となる以前は交流があり魏を後ろ盾にして狗奴国を圧迫する狙いがあったとされています。
しかし魏国からすると倭国はそこまで重要な国ではないと判断されていて書状も上位書式が用いられていなかったようで倭国よりも西方の方を重要視していました。
国の政治
魏志倭人伝では卑弥呼を親魏倭王と認めていた他に、倭国の位置を示す記述もあり倭国を中心として収めていた国や対立していた狗奴国の位置も書かれていました。邪馬台国の位置に関しましては後程、詳しく解説していきます。
国政は農作物を管理し税を徴収する形が取られていて、食料やお金専用の倉を作りそこで保管していました。また作られた食料などは市場で売買されていて大倭という役割者が交易を監視監督をしていたようです。
現代の方法に近い形が既に作られていたようで、今の様にお金が用いられていたことは驚いていますが中国から̠貨銭を真似て製造されて流用していたのでしょう。そして一大率という役割の方々が統治していた国々を視察しており一大率が国を視察しにきた場合は贈り物を披露し忠誠誓っておりました。
魏そして晋との交流
238年に送られた魏志倭人伝以降も魏国とは交流があり倭国の状況についても報告をしていました。何度も貢ぎ物を送っていたことで魏国からも兵を派遣され卑弥呼の手助けを度々しておりましたが、卑弥呼が亡くなった以降も狗奴国との争いは続いていたとされています。
この時の使者として魏国へ派遣されていた者は、朝鮮半島とも交流したとされていて意見交換が行われていたとの記載もありました。266年に魏が滅び晋国が作られていきましたが、魏国同様の交流をしていたようで貢ぎ物があったことが晋書に書かれているので邪馬台国が存在していたとされる三世紀半ばまで行われております。
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