今回は三浦按針を取り上げるぞ。江戸時代の初めに日本に来た有名なイギリス人だって、色々詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代に興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三浦按針について5分でわかるようにまとめた。

1-1、三浦按針はイギリスの生まれ

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三浦按針は、ウィリアム・アダムスといい、1564年(シェークスピアと同い年)、イングランド南東部の、昔からイギリス海軍と関係の深い造船の街ケント州ジリンガムで誕生。12歳のときに船員の父が亡くなったので、故郷を出てロンドンのテムズ川北岸のライムハウスに移って、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入り。

そして造船よりも航海術に興味を持ったので、1588年、奉公の年限終了と共に24歳で海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下の貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてスペイン無敵艦隊アルマダとの海戦に参加。

翌年の1589年、メアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンが生まれたということ。その後は、軍を離れてバーバリー商会のロンドン会社の航海士、船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙な日々を送ったということ。

1-2、リーフデ号で極東をめざして航海

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「江戸時代を見た英国人」によれば、三浦按針は船長を卒業して水先案内人となったということ。水先案内人とは、船の運航時に乗組員に適切な水路を教え操船を指示する、パイロットのことで、熟練の船乗りの仕事だそう。

三浦按針は、仕事で航海するうちにオランダ人船員たちと交流を深め、オランダのロッテルダムから極東を目指す航海で、ベテラン航海士を探していると聞き、弟のトマスらと共にロッテルダムへ行って志願。この極東への航海はホープ号(希望、旗艦)、リーフデ号(愛)、ヘローフ号(信仰、ロッテルダムに帰還した唯一の船)、トラウ号(忠誠)、フライデ・ボートスハップ号(良い予兆または陽気な使者)の5隻の船団で行われることになっていて、司令官のヤックス・マフは三浦按針をホープ号の航海士として採用し、1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航することに。

しかし航海はひどい有様で、大西洋を南へ下ってマゼラン海峡を通って太平洋に出る西回りのコースをとって東インドを目指したのですが、マゼラン海峡付近で南半球は冬の厳しい寒さと嵐にあい、太平洋に出ると大しけにあい、5隻の船団はバラバラになり、嵐の後に2隻だけが無事な姿を確認したが、1隻は太平洋の島に上陸しようとして乗組員が全員原住民に殺される始末。尚、三浦按針の弟トマスが最初に乗船したトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕されてしまい、1隻だけはぐれたヘローフ号は続行ロッテルダムに引き返したそう。

残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号は沈没、極東に到達したのはリーフデ号だけだったが、航海能力を失い、太平洋を漂流。また食糧補給のために寄港した先々でもらったとおぼしき赤痢や船の長旅につきものだった壊血病が蔓延、インディオの襲撃に晒されたなどで次々と船員を失い、トマスもインディオに殺害されたなど、出航時には110人もいた乗組員は日本漂着までには24人、そのなかで自力で立ち上がれたのは7,8人だったということ。

1-3、リーフデ号、豊後の黒島に漂着

オランダを出てから1年10ヶ月後の慶長5年(1600年)3月16日、リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着したが、乗組員は自力では上陸できず、臼杵城主太田一吉の出した小舟で救助され日本の土を踏むことに。一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報し、三浦按針らを拘束、積み荷の大砲や火縄銃、弾薬といった武器は没収、大坂城の指示を待つ間にイエズス会の宣教師たちが訪れて、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求したということ。

結局、五大老首座の徳川家康の指示で、重体の船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、三浦按針とヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送、リーフデ号も回航。

家康は、リーフデ号の備えつけの大砲を取り外させ砲員とともに半年後の関ケ原合戦で活用、勝利したという説も。

2-1、三浦按針、家康に出会う

慶長5年(1600年)3月30日、家康は初めて大坂城で彼らを引見。家康はイエズス会士のせいで、リーフデ号を海賊船だと思い込んでいたが、三浦按針らが路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争についての説明で誤解を解いたそう。

三浦按針はオランダ語は出来るが、日本には英語やオランダ語が出来る人がおらず、通訳したのは、ポルトガル人のイエズス会宣教師のジュリアン・ロドリゲス(語学に秀でて日本語の辞書を著したそう)。ポルトガル人はカトリックでイギリス、オランダと対立していたので、「江戸時代を見た英国人」著者のイギリス人のロジャメイチン氏は、ロドリゲス宣教師が三浦按針らに好意を持っていたとは思えず、親身な通訳ではなかったのではと疑いの目を向けていますが、家康は三浦按針が正直で、祖国のイギリスが、スペインやポルトガル以外の国とは決して戦争をしないという発言などで初対面から高く評価したということ。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを家康は黙殺し、何度も三浦按針らに引見を繰り返した後に三浦按針らの知識や公平な人柄を気に入り、江戸に招いたということ。

家康は 関ケ原の戦いの勝利後、江戸日本橋に三浦按針の屋敷を用意、家康自身は三浦按針に数学や地理学を学び、重臣たちには砲術や航海術、天文学を指南させ、また、幕府の外交顧問としても重用したそう。

\次のページで「2-2、家康、三浦按針に洋式帆船の建造を命じる」を解説!/

2-2、家康、三浦按針に洋式帆船の建造を命じる

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家康は、島国日本での海上運送の必要性を感じていたということで、江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没した後、慶長9年(1604年)、三浦按針に日本初の洋式帆船の建造を命じたということ。

三浦按針は、海に注ぐ河口があり、用材を切り出せる山が近いところで、有能な船大工が揃っていることから、伊豆の伊東を選び、松川河口で日本初の洋式帆船造りを開始。当時、伊東の松川河口には、厚みのある砂洲があったので、三浦按針はそこをドライドックとして使う、「砂ドック方式」で造船。砂ドック方式とは、砂浜に穴を掘ってその中に丸太を敷き、その上で船を造りあげ、進水時にはそこに水路に堰き止めた水を引き込んで、船を海へと進水させる方式だということ。このとき建造した80トンの帆船には家康も試乗して、大喜びしたそう。

三浦按針は、その翌年にも、外洋に出られる120トンの大型船を建造。慶長10年(1605年)、家康は三浦按針の功績に対して、三浦郡逸見(現在の横須賀市の一部)に領地250石と刀2本、脇差を下賜し、三浦按針という名で名字帯刀を許されたということ。

三浦は領地の名前で按針は水先案内人の意味。三浦按針は家康直参の青い目の侍となり、その後、江戸商人の娘と結婚して2人の子供が生まれたそう。のちに所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフが継承。

ヤン・ヨーステンら他の乗組員は
ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタインは、三浦按針と共にリーフデ号の乗組員だったオランダ人で、同じく家康に信任され、江戸城内堀に屋敷をもらって日本人女性と結婚、日本名を耶楊子(やようす)と呼ばれたが、これがのちに八代洲(やよす)から八重洲(やえす)にり、現在の中央区八重洲のもとになったということ。そして元和9年(1623年)東南アジア方面での朱印船貿易を行った後に、オランダへ帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが帰国交渉がはかどらずにあきらめ、日本へ帰ろうとする途中に船がインドシナで座礁して67歳で溺死。

また船長のクワケルナックは慶長10年(1605年)、家康のオランダ総督マウリッツ宛て親書を携え、オランダ東インド会社の拠点、マレー半島のバタニへ赴き、彼は帰国の途についたが、マラッカ海峡でポルトガル人に殺されたということ。

2-3、三浦按針、東インド会社の船の貿易許可の手助けするも帰国は見送り

慶長5年(1600年)にイギリスの東インド会社が設立、また三浦按針がイギリスの家族に出した手紙が3年ほどかかって到達し、日本で厚遇されている三浦按針の存在がイギリスでも知られたため、日本との交易を求めて、イギリス東インド会社のクローブ号が慶長18年(1613年)日本に来航。

船の船長でもあり貿易の責任者でもあるセーリス司令官は、平戸に入港後、三浦按針に連絡を取ることを望み、家康の元にいた三浦按針は、平戸に向かいセーリス司令官と対面したが、15年ぶりの同国人に対して、熱狂的に歓迎するでもなかったので、セーリス司令官はがっかりしたよう。

しかし三浦按針は駿府まで船を案内し、家康との謁見を実現させ、イギリスは無事に日本と貿易を許可する朱印状を取りつけたということ。慶長19年(1614年)のクローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送ったそう。三浦按針は10数年の間に、祖国のイギリス人の目に奇異に映ったほど、見事に日本人になり切っていたということで、セーリスは何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズはセーリスを生意気で無礼な青二才として嫌ったということ。

2-4、三浦按針、平戸に商館設立も

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三浦按針は、造船の他、オランダ、イギリスの平戸の商館を設立するなど、江戸幕府の海外貿易振興のために尽力。また、家督を息子ジョゼフに譲った後に琉球やシャム(現在のタイ)、中国などへ渡航して貿易も行ったが、残念ながらイギリスは日本で毛織物を売ろうとしたが、気候の差で日本では売れず、リチャード・コックス館長もあまり商売が上手ではなく平戸の商館は閉鎖に。

2-5、家康の死後は不遇に

三浦按針は家康に信頼されましたが、元和2年(1616年)、シャムでの交易を終えて帰国後、家康の死去を知り落胆。跡を継いだ2代将軍秀忠をはじめ江戸幕府の幕臣たちの方針で、貿易を平戸のみに制限し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇なものに。以降の按針は、天文官の役目だけとなり、幕臣や次期将軍の家光らに警戒されながら不遇な晩年を送り、元和6年(1620年)に長崎県平戸で56歳で死去。

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3、明治になって再発見される

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幕末に日本が開国後、イギリス人らが多くやってきて、先人のウィリアム・アダムスこと三浦按針が再発見され注目されました。墓探しも行われて、明治7年(1874年)、横浜に住んでいた実業家ジェームズ・ウォルタースによって、逸見の浄土寺で古い2基の宝筺印塔が発見されたということ。江戸時代300年の間、逸見では、三浦按針に関わるものという伝承が失われたようですが、ウォルタースは「按針塚」周辺の修復を行って、横浜居留地のイギリス人、地元の人々なども支援したということで、明治35年(1902年)に結ばれた日英同盟が契機になり、「按針塚」周辺の大規模な整備が行われ、塚山公園が作られたそう。これに際して発掘調査が行われ、埋葬地ではないことが確認されたが、大正12年(1923年)3月7日、「三浦按針墓」として国の史跡に指定。

昭和29年(1954年)になって平戸港を見渡す高台にある崎方公園に、三浦按針墓が建立。三浦按針がイギリスに残した妻の墓から小石を取り寄せて合葬し、夫婦塚にしたそう。また、平戸市では三浦按針没後400年になるため、2020年に、さまざまなイベントが予定されているそう。

大航海時代のロマンを感じる青い目の侍

三浦按針は、ウィリアム・アダムスとして生まれ、造船や航海術を学び、あのドレイク船長のスペイン無敵艦隊との戦いにも参加したというイギリスが誇る水兵だった人。そして水先案内人としてオランダ船団の極東への航海に志願し、日本までやって来て家康に気に入られ、貿易アドバイザーや造船などでも貢献。

外国人としては異例にも、名字帯刀を許されて日本名を名乗り、知行地ももらって立派な侍となったのでした。このまま江戸幕府が家康の方針で貿易続行していれば、三浦按針も引き続き活躍できたのでしょうが、2代目の秀忠が慎重すぎて外国との交易に消極的だったため、晩年は不遇に終わり、故郷を遠く離れて日本で亡くなることに。

しかし明治になって、日本研究を行う同郷のイギリス人のおかげで三浦按針の存在が再び脚光を浴びることになり、その後は小説や映画に取り上げられるほど有名になったのは、やはりイギリスに生まれ、日本で侍となった三浦按針の生涯が大航海時代のロマンに満ちたものだということかも。

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日本史歴史江戸時代

青い目の侍と言われ家康に仕えたイギリス人「三浦按針」について歴女がわかりやすく解説

今回は三浦按針を取り上げるぞ。江戸時代の初めに日本に来た有名なイギリス人だって、色々詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代に興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、三浦按針について5分でわかるようにまとめた。

1-1、三浦按針はイギリスの生まれ

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PHG – wikipedia:en, パブリック・ドメイン, リンクによる

三浦按針は、ウィリアム・アダムスといい、1564年(シェークスピアと同い年)、イングランド南東部の、昔からイギリス海軍と関係の深い造船の街ケント州ジリンガムで誕生。12歳のときに船員の父が亡くなったので、故郷を出てロンドンのテムズ川北岸のライムハウスに移って、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入り。

そして造船よりも航海術に興味を持ったので、1588年、奉公の年限終了と共に24歳で海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下の貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてスペイン無敵艦隊アルマダとの海戦に参加。

翌年の1589年、メアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンが生まれたということ。その後は、軍を離れてバーバリー商会のロンドン会社の航海士、船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙な日々を送ったということ。

1-2、リーフデ号で極東をめざして航海

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パブリック・ドメイン, リンク

「江戸時代を見た英国人」によれば、三浦按針は船長を卒業して水先案内人となったということ。水先案内人とは、船の運航時に乗組員に適切な水路を教え操船を指示する、パイロットのことで、熟練の船乗りの仕事だそう。

三浦按針は、仕事で航海するうちにオランダ人船員たちと交流を深め、オランダのロッテルダムから極東を目指す航海で、ベテラン航海士を探していると聞き、弟のトマスらと共にロッテルダムへ行って志願。この極東への航海はホープ号(希望、旗艦)、リーフデ号(愛)、ヘローフ号(信仰、ロッテルダムに帰還した唯一の船)、トラウ号(忠誠)、フライデ・ボートスハップ号(良い予兆または陽気な使者)の5隻の船団で行われることになっていて、司令官のヤックス・マフは三浦按針をホープ号の航海士として採用し、1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航することに。

しかし航海はひどい有様で、大西洋を南へ下ってマゼラン海峡を通って太平洋に出る西回りのコースをとって東インドを目指したのですが、マゼラン海峡付近で南半球は冬の厳しい寒さと嵐にあい、太平洋に出ると大しけにあい、5隻の船団はバラバラになり、嵐の後に2隻だけが無事な姿を確認したが、1隻は太平洋の島に上陸しようとして乗組員が全員原住民に殺される始末。尚、三浦按針の弟トマスが最初に乗船したトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕されてしまい、1隻だけはぐれたヘローフ号は続行ロッテルダムに引き返したそう。

残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号は沈没、極東に到達したのはリーフデ号だけだったが、航海能力を失い、太平洋を漂流。また食糧補給のために寄港した先々でもらったとおぼしき赤痢や船の長旅につきものだった壊血病が蔓延、インディオの襲撃に晒されたなどで次々と船員を失い、トマスもインディオに殺害されたなど、出航時には110人もいた乗組員は日本漂着までには24人、そのなかで自力で立ち上がれたのは7,8人だったということ。

1-3、リーフデ号、豊後の黒島に漂着

オランダを出てから1年10ヶ月後の慶長5年(1600年)3月16日、リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着したが、乗組員は自力では上陸できず、臼杵城主太田一吉の出した小舟で救助され日本の土を踏むことに。一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報し、三浦按針らを拘束、積み荷の大砲や火縄銃、弾薬といった武器は没収、大坂城の指示を待つ間にイエズス会の宣教師たちが訪れて、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求したということ。

結局、五大老首座の徳川家康の指示で、重体の船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、三浦按針とヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送、リーフデ号も回航。

家康は、リーフデ号の備えつけの大砲を取り外させ砲員とともに半年後の関ケ原合戦で活用、勝利したという説も。

2-1、三浦按針、家康に出会う

慶長5年(1600年)3月30日、家康は初めて大坂城で彼らを引見。家康はイエズス会士のせいで、リーフデ号を海賊船だと思い込んでいたが、三浦按針らが路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争についての説明で誤解を解いたそう。

三浦按針はオランダ語は出来るが、日本には英語やオランダ語が出来る人がおらず、通訳したのは、ポルトガル人のイエズス会宣教師のジュリアン・ロドリゲス(語学に秀でて日本語の辞書を著したそう)。ポルトガル人はカトリックでイギリス、オランダと対立していたので、「江戸時代を見た英国人」著者のイギリス人のロジャメイチン氏は、ロドリゲス宣教師が三浦按針らに好意を持っていたとは思えず、親身な通訳ではなかったのではと疑いの目を向けていますが、家康は三浦按針が正直で、祖国のイギリスが、スペインやポルトガル以外の国とは決して戦争をしないという発言などで初対面から高く評価したということ。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを家康は黙殺し、何度も三浦按針らに引見を繰り返した後に三浦按針らの知識や公平な人柄を気に入り、江戸に招いたということ。

家康は 関ケ原の戦いの勝利後、江戸日本橋に三浦按針の屋敷を用意、家康自身は三浦按針に数学や地理学を学び、重臣たちには砲術や航海術、天文学を指南させ、また、幕府の外交顧問としても重用したそう。

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