幕末日本史歴史江戸時代

朝廷と幕府の協力を示す思想「公武合体運動」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

幕府の本音

幕府が公武合体を思想としたのは、朝廷との関係修復が目的です。天皇に無許可で不平等条約に調印したことで幕府と朝廷の関係は悪化、さらに人々の不満も高めてしまったため、現状打破のためには朝廷の借りるしかないと考えていました。

つまり幕府の場合、朝廷と協力して政治を行う意味ではなく、幕府が中心となって政治を行うために朝廷の力を借りるというのが公武合体をすすめた本音でしょう。次に薩摩藩、薩摩藩は尊王攘夷を否定していないものの、過激かつ急進的な改革を求める尊王攘夷の思想は賛成できませんでした。

しかし、外国への対応から判断して幕府だけでは限界、将来の日本の政治において朝廷と協力することは不可欠としつつも、緩やかな改革を求める薩摩藩は公武合体を思想としたのです。尊王攘夷運動を活発に行う同じ雄藩(力を持つ勢力の強い藩)である長州藩とは真逆の考えでした。

公武合体に向けて動き出す幕府

最後に譜代大名、元々譜代大名は関ヶ原の戦い以前……つまり徳川家が全国統一する以前から徳川家に仕えていたため、外様大名と違って幕府の存在を肯定して公武合体運動をすすめたのはむしろ当然です。代表的な人物としては、越前藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が挙げられます。

幕府・薩摩藩・譜代大名、3つの勢力の中で公武合体に向けて真っ先に動いたのは幕府でした。老中首座の安藤信正は孝明天皇の妹・和宮と将軍・徳川家茂の結婚を考え、これによって朝廷との関係修復を図ります。朝廷もこれには反対しておらず、岩倉具視らが協力して降嫁に成功しました。

しかし、安藤信正はその後起こった坂下門外の変で負傷して失脚。最も、公武合体運動は継続されたため、雄藩の中には朝廷と幕府の間を取り持とうとする勢力も誕生、さらに薩摩藩の島津久光も朝廷から幕府に勅使を送らせるなどして公武合体の実現に向けて尽力しました。

尊王攘夷と公武合体の争い

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公武合体派の危機と反撃

公武合体運動がすすむ中、それ以上に勢いを増していたのが尊王攘夷運動です。過激なまでに尊王攘夷を支持する長州藩は朝廷をも動かし、ついに1863年には14代将軍・徳川家茂に攘夷実行を約束させるまでに至ります。これは、当時の天皇である孝明天皇が攘夷論者だったことが理由でしょう。

日本で最も偉い存在である天皇が攘夷論者なら、公武合体よりも尊王攘夷が有利にすすむのは当然ですからね。実際、公武合体運動は尊王攘夷運動に押されつつあり、島津久光によって実現したせっかくの松平春嶽の政事総裁職への就任も水の泡。多くの公武合体派が排除されていく中、松平春嶽も政事総裁職の辞任に追い込まれてしまいました。

このままでは京都に居場所を失ってしまうと危機感を持った公武合体派。そこで薩摩藩は、会津藩と協力して長州藩のクーデター情報を利用したカウンタークーデターとなる八月十八日の政変を行い、長州藩をはじめとする多くの尊王攘夷派を京都から追い出すことに成功させます。

島津久光が感じた公武合体の限界

こうして尊王攘夷運動を追放して朝廷の政治を掌握した薩摩藩、朝廷の命令によって参与会議の開催が決まります。この参与会議は公武合体運動の先に目指した到達点でもあり、公武合体の政治の形を決める場となるはずでした。しかしこの参与会議が思ったようにいきません

重要な議題は解決の糸口が見えず、それどころか徳川慶喜は何としても島津久光を排除しようとする始末。幕府と雄藩の有力者が集まって開催した悲願の参与会議も、一向にまとまらないため結局わずか数ヶ月にして崩壊してしまったのです。

参与会議が崩壊した瞬間、島津久光は長年抱いてきた自身の考え……すなわち、公武合体の思想に限界を感じたのかもしれません。なぜなら、島津久光にとって薩摩藩の最高責任者として幕府と協力するはずが、参与会議の崩壊によってむしろ対立する関係となってしまったのですからね。

最後の望み・四候会議

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公武合体から倒幕へ

幕府の15代将軍に徳川慶喜が就いた頃、薩摩藩は長州藩と薩長同盟を結びます。最も、薩摩藩と長州藩は両者犬猿の仲でしたが、坂本龍馬の活躍で関係修復、お互い有益になったことで同盟締結に至りました。さて、これまで尊王攘夷運動をすすめてきた長州藩、しかしこの頃の長州藩は既にその思想を諦めていたのです

長州藩は過激な尊王攘夷運動で外国を執拗に攻撃してきましたが、報復を受けたことで外国の軍事力を思い知って尊王攘夷の思想を断念、その思想は倒幕へと変化していました。一方、薩摩藩は公武合体実現の最後の望みとして四候会議を開催、島津久光は徳川慶喜の妨害に対抗しようとします。

しかし、山内豊信・伊達宗城・松平春嶽を呼び出して開催した四候会議でしたが、やはり徳川慶喜に圧倒的な政治力の高さに妨害されて議会は崩壊しました。これで島津久光は公武合体の思想を完全に断念、長州藩同様にその思想を武力行使による討幕へと変えたのです。

小御所会議の結論

こうして日本が倒幕ムードに包まれる中、徳川慶喜は大政奉還を行って政権を天皇へと返上します。これによって倒幕派は戦うことなく天皇の元へと政権を取り戻しますが、ここで一枚上手だったのは徳川慶喜でした。徳川慶喜は明治天皇が政治に不慣れなことを読み、大政奉還後も自身の権威を維持できると考えたのです。

いくら朝廷の天皇による政治が行えても、そこに徳川慶喜が絡んでいてはこれまでと何も変わりません。そこで、公家の岩倉具視らは大政奉還をした徳川慶喜の扱いと、徳川慶喜が所有する領地の返還をキーワードにした話し合いをするための小御所会議を開きます。

最終的には、徳川慶喜が自主的に官位を退いて領地の返納を行うことで会議は決着しました。しかし、公家の岩倉具視や薩摩藩は倒幕の意思表示を明確にしており、武力行使による解決をするため戦争を起こそうと徳川慶喜を散々挑発、ついには戊辰戦争が勃発するのです。

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