日本史

雲海にそびえ立つ「竹田城」を戦国通のサラリーマンが5分で徹底解説

細川軍と対峙

応仁の乱が発生し但馬国では山内氏と細川氏の争いが行われていき、応仁の乱が発生しから一年後の1468年3月に細川軍から内藤氏が収めていた丹波の土豪を引き連れて竹田城へ侵攻を始めていきました。手勢が少ないにも係わらず竹田城から出陣していった光景は内藤軍の大将首を二つ挙げる活躍をしたようで、但馬国への侵入を防衛していきます。

応仁の乱が終結した頃には宗全は亡くなり宗全の孫にあたる山内致豊かが山内家を継いでいきました。応仁の乱が終えていても播磨国を収めていた赤松氏との争いは絶えず発生しておりましたが、一時は播磨を制圧出来そうになっていたものの坂本の戦いで赤松政則に敗れてしまい山内家の権威が弱まっていき家中で内紛が発生していきます。

太田垣氏は山内四天王と呼ばれた存在となっており致豊の弟を擁護し致豊から離反していきました。

戦国乱世

守護職だったもの達が、力をつけていき独立してきた戦国大名に徐々に制圧されていきました。

出雲の戦国大名

本家だった致豊から独立する形で山名誠豊に従い、但馬国を守護していきました。そして出雲国の戦国大名だった尼子晴久の力を借りながら因幡守護で一族の山名誠通を討ち取り晴久から因幡・伯耆・備後を含んだ6か国の国主に任命されていきます。

1560年代になると毛利氏が急速に力を付けてきたことで、守護代だった大内氏を滅ぼし尼子氏も月山富田城で打ち破っていきました。更に勢力を拡大すべく九州地方の大友氏と争いを行っている中で、尼子氏残党だった尼子勝久と重臣の山中鹿ノ介らと尼子氏拠点だった月山富田城を取り戻すために挙兵していきます。誠豊から代が変わり山名祐豊が山内家の家督を継いでいて、以前の同盟を結んでいたことで尼子氏復興の支援をしていきました。

対抗していた毛利元就は、九州地方に兵を割いていることで兵を分散出来ないと思い織田信長に救援を要請し山内氏の背後を脅かしていきます。

猛攻に耐え切れず山内氏は京へ亡命

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毛利氏の応援要請に応じたことで後の豊臣秀吉に二万の大軍を率いて侵攻させていきわずか十日の間に十八の城を陥落させていきました。この攻撃の際に竹田城も攻撃を受けたとされておりますがどのようにして攻められたかは不明ですが、織田軍と交戦した結果として山内氏は敗れ京へ亡命していきます。

この時の竹田城での守備の様子は分かりませんが、二万の大軍と籠城したところで渡り合えるとは到底思えませんので戦わず降伏したと考えられるでしょう。この戦を終えた後もそのまま竹田城の城主として残っていることから処罰もされず国人衆と共に信長へ力を貸していく存在となっていったと思われます。

しかし一国人衆では大名と争う力は無く力を持った戦国大名に付くしかなかったため、毛利氏は脅威的な存在でした。

同盟の尼子氏が押し負けていく

同盟となっていた尼子氏でしたが、1574年頃に織田家の傘下となって毛利氏と対抗するために織田家前線の大名として毛利氏を牽制していました。そして中国征伐遠征にて秀吉が大将となり中国に向けて侵攻を始めていきます。

勝久は宇喜多氏の支城だった播磨上月城の守備を秀吉から任され、毛利氏と宇喜多氏の総勢三万の兵と籠城していきました。援軍に来る予定となっていた秀吉の隊が、別所氏の離反により播磨征伐に急遽向かわなければならない状況となってしまいます。

援軍に行けないことで秀吉は、上月城から撤退する旨の伝書を飛ばし勝久に届けるも勝久は頑なにこれを拒否していきました。その後懸命に籠城して奮戦しましたが、兵力に差があり降伏を余儀なくされ自害していきます。

毛利氏の侵攻は止まらず

尼子氏を滅ぼした直後に但馬国まで侵攻してきており、毛利氏の侵攻の手は緩むことがありませんでした。あまりの兵の多さに竹田城を守る太田垣氏は降伏し祐豊は、自国を守るために毛利家重臣の吉川元春に同盟を結ぶための誓書を送り安芸但馬同盟が結ばれていきます。

しかし毛利家に降っていましたが、織田方の赤井直正が竹田城を攻撃され落城し占領されてしまうといきなり毛利家から織田家を頼るようになっていきました。何度も同盟を破棄された形で織田方から離れていた山名氏でしたが、信長はこれを了承し丹波国を制圧するために山名氏の行いを許していきます。

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