安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

雲海にそびえ立つ「竹田城」を戦国通のサラリーマンが5分で徹底わかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。戦乱の世となっていた戦国期では、自国を守るために多くの山城などが築かれていき防衛拠点として活用されていたようだな。しかし天下分け目の戦い後に江戸幕府が開かれていき平和な世が作られつつあり江戸初期から中期頃には戦などは国内でほぼ起こらないために城自体を取り壊された城が多かったようだな。

今回は城自体は廃城となってしまったが、石垣などの戦国期のものが現存しているうえに標高が高いところに築かれたため雲海が見ることが出来る竹田城を歴史マニアであり歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/what

雲海として名高い竹田城だが、絶景以外にはあまり知られていないことが多いため今回は風景情報はもちろんのことどのようにして活用されていたかを解説していく。

建城時期

まずは築かれた時期から見ていきましょう。

室町時代に山内氏によって築かれる

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竹田城に関しての情報があまりなく、築城されて時期が書物などには記載がないため不明点が多い城ですが江戸時代末期に作成された日記によると1441年から1443年の間には既に丹波国と播磨国の境目に築城されていることが書かれています。これ以外の日記には竹田城のことが一切残されていないため実際のところ築城時期は伝承でしかありません。

またその時に築城したとされているのが室町幕府から守護職として丹波国を収めていた山内宗全が築いたとされています。初代城主は但馬国で栄えていた日下部氏の一族だった太田垣光景が、宗全の配下だった時に守備を命じられて以降竹田城を守っていきました。

守護職同士で争っていく

光景が竹田城に入城していたころには、隣国だった播磨守護職の赤松氏と争っている状況でした。赤松氏も播磨で一揆が発生し国内情勢があまり良くない中で、本家と宗家の関係が徐々に悪化していきます。その理由としては赤松氏は鎌倉幕府を打倒すると決起した後醍醐天皇に従いいち早く挙兵したことと武功を多く挙げたことで、播磨国の守護に命じられていきました。

しかし新政からはじき出されてしまいましたが、足利尊氏と力を合わせて室町幕府を作るのに貢献していきます。そして幕府の中では四大守護職の一人として幕府政治に参画していき摂津国など四カ国を任されていきました。

十五世紀になると足利幕府将軍の足利義教は赤松宗家を優遇し、本家だった赤松氏を冷遇していきます。これに反発したのが本家筋だった赤松満祐の親子で1441年に将軍を暗殺し宗家が守護していた播磨国に戻っていきましたが、幕府から追討指示を受けた宗全が播磨へ侵攻し城山城を宗家の赤松満政と共に攻め込み落城させ功績のあった宗全は播磨など三ヵ国を収める形となりました。

幕府のお家騒動から全国規模の争いが発生

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六代将軍を暗殺され後継者を嫡男の義勝に務めさせるも就任後わずか一年足らずで亡くなってしまい、同母兄弟だった義政を八代将軍として迎えていきました。この頃の室町幕府は三大管領によって保たれていた状態でその内の畠山氏が赤松氏が引き起こした嘉吉の乱に乗じて家督を取り戻していきます。しかし畠山氏の後継ぎがいなく養子を迎えて畠山氏を存続させていこうとした矢先に実子が生まれたことで養子だった持富は廃嫡されてしまいました。

この決定事項に納得がいかなかつた家臣達は、持富の子を擁立して畠山持国と争っていき内紛が発生。この内紛に幕府の参画として関与していた宗全は連携関係にあった細川勝元と将軍義政から家臣の処刑を命じられたことで反発していきます。

この幕府のお家騒動から細川氏と山内氏の争いへと発展したことで各地の守護職が互いに分かれて戦い発生したものが応仁の乱でした。

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