戦乱の世となっていた戦国期では、自国を守るために多くの山城などが築かれていき防衛拠点として活用されていたようです。しかし天下分け目の戦い後に江戸幕府が開かれていき平和な世が作られつつあり江戸初期から中期頃には戦などは国内でほぼ起こらないために城自体を取り壊された城が多かったようです。

今回は城自体は廃城となってしまったが、石垣などの戦国期のものが現存しているうえに標高が高いところに築かれたため雲海が見ることが出来る竹田城を歴史マニアであり歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

雲海として名高い竹田城だが、絶景以外にはあまり知られていないことが多いため今回は風景情報はもちろんのことどのようにして活用されていたかを解説していく。

建城時期

まずは築かれた時期から見ていきましょう。

室町時代に山内氏によって築かれる

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竹田城に関しての情報があまりなく、築城されて時期が書物などには記載がないため不明点が多い城ですが江戸時代末期に作成された日記によると1441年から1443年の間には既に丹波国と播磨国の境目に築城されていることが書かれています。これ以外の日記には竹田城のことが一切残されていないため実際のところ築城時期は伝承でしかありません。

またその時に築城したとされているのが室町幕府から守護職として丹波国を収めていた山内宗全が築いたとされています。初代城主は但馬国で栄えていた日下部氏の一族だった太田垣光景が、宗全の配下だった時に守備を命じられて以降竹田城を守っていきました。

守護職同士で争っていく

光景が竹田城に入城していたころには、隣国だった播磨守護職の赤松氏と争っている状況でした。赤松氏も播磨で一揆が発生し国内情勢があまり良くない中で、本家と宗家の関係が徐々に悪化していきます。その理由としては赤松氏は鎌倉幕府を打倒すると決起した後醍醐天皇に従いいち早く挙兵したことと武功を多く挙げたことで、播磨国の守護に命じられていきました。

しかし新政からはじき出されてしまいましたが、足利尊氏と力を合わせて室町幕府を作るのに貢献していきます。そして幕府の中では四大守護職の一人として幕府政治に参画していき摂津国など四カ国を任されていきました。

十五世紀になると足利幕府将軍の足利義教は赤松宗家を優遇し、本家だった赤松氏を冷遇していきます。これに反発したのが本家筋だった赤松満祐の親子で1441年に将軍を暗殺し宗家が守護していた播磨国に戻っていきましたが、幕府から追討指示を受けた宗全が播磨へ侵攻し城山城を宗家の赤松満政と共に攻め込み落城させ功績のあった宗全は播磨など三ヵ国を収める形となりました。

幕府のお家騒動から全国規模の争いが発生

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六代将軍を暗殺され後継者を嫡男の義勝に務めさせるも就任後わずか一年足らずで亡くなってしまい、同母兄弟だった義政を八代将軍として迎えていきました。この頃の室町幕府は三大管領によって保たれていた状態でその内の畠山氏が赤松氏が引き起こした嘉吉の乱に乗じて家督を取り戻していきます。しかし畠山氏の後継ぎがいなく養子を迎えて畠山氏を存続させていこうとした矢先に実子が生まれたことで養子だった持富は廃嫡されてしまいました。

この決定事項に納得がいかなかつた家臣達は、持富の子を擁立して畠山持国と争っていき内紛が発生。この内紛に幕府の参画として関与していた宗全は連携関係にあった細川勝元と将軍義政から家臣の処刑を命じられたことで反発していきます。

この幕府のお家騒動から細川氏と山内氏の争いへと発展したことで各地の守護職が互いに分かれて戦い発生したものが応仁の乱でした。

\次のページで「細川軍と対峙」を解説!/

細川軍と対峙

応仁の乱が発生し但馬国では山内氏と細川氏の争いが行われていき、応仁の乱が発生しから一年後の1468年3月に細川軍から内藤氏が収めていた丹波の土豪を引き連れて竹田城へ侵攻を始めていきました。手勢が少ないにも係わらず竹田城から出陣していった光景は内藤軍の大将首を二つ挙げる活躍をしたようで、但馬国への侵入を防衛していきます。

応仁の乱が終結した頃には宗全は亡くなり宗全の孫にあたる山内致豊かが山内家を継いでいきました。応仁の乱が終えていても播磨国を収めていた赤松氏との争いは絶えず発生しておりましたが、一時は播磨を制圧出来そうになっていたものの坂本の戦いで赤松政則に敗れてしまい山内家の権威が弱まっていき家中で内紛が発生していきます。

太田垣氏は山内四天王と呼ばれた存在となっており致豊の弟を擁護し致豊から離反していきました。

戦国乱世

守護職だったもの達が、力をつけていき独立してきた戦国大名に徐々に制圧されていきました。

出雲の戦国大名

本家だった致豊から独立する形で山名誠豊に従い、但馬国を守護していきました。そして出雲国の戦国大名だった尼子晴久の力を借りながら因幡守護で一族の山名誠通を討ち取り晴久から因幡・伯耆・備後を含んだ6か国の国主に任命されていきます。

1560年代になると毛利氏が急速に力を付けてきたことで、守護代だった大内氏を滅ぼし尼子氏も月山富田城で打ち破っていきました。更に勢力を拡大すべく九州地方の大友氏と争いを行っている中で、尼子氏残党だった尼子勝久と重臣の山中鹿ノ介らと尼子氏拠点だった月山富田城を取り戻すために挙兵していきます。誠豊から代が変わり山名祐豊が山内家の家督を継いでいて、以前の同盟を結んでいたことで尼子氏復興の支援をしていきました。

対抗していた毛利元就は、九州地方に兵を割いていることで兵を分散出来ないと思い織田信長に救援を要請し山内氏の背後を脅かしていきます。

猛攻に耐え切れず山内氏は京へ亡命

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毛利氏の応援要請に応じたことで後の豊臣秀吉に二万の大軍を率いて侵攻させていきわずか十日の間に十八の城を陥落させていきました。この攻撃の際に竹田城も攻撃を受けたとされておりますがどのようにして攻められたかは不明ですが、織田軍と交戦した結果として山内氏は敗れ京へ亡命していきます。

この時の竹田城での守備の様子は分かりませんが、二万の大軍と籠城したところで渡り合えるとは到底思えませんので戦わず降伏したと考えられるでしょう。この戦を終えた後もそのまま竹田城の城主として残っていることから処罰もされず国人衆と共に信長へ力を貸していく存在となっていったと思われます。

しかし一国人衆では大名と争う力は無く力を持った戦国大名に付くしかなかったため、毛利氏は脅威的な存在でした。

同盟の尼子氏が押し負けていく

同盟となっていた尼子氏でしたが、1574年頃に織田家の傘下となって毛利氏と対抗するために織田家前線の大名として毛利氏を牽制していました。そして中国征伐遠征にて秀吉が大将となり中国に向けて侵攻を始めていきます。

勝久は宇喜多氏の支城だった播磨上月城の守備を秀吉から任され、毛利氏と宇喜多氏の総勢三万の兵と籠城していきました。援軍に来る予定となっていた秀吉の隊が、別所氏の離反により播磨征伐に急遽向かわなければならない状況となってしまいます。

援軍に行けないことで秀吉は、上月城から撤退する旨の伝書を飛ばし勝久に届けるも勝久は頑なにこれを拒否していきました。その後懸命に籠城して奮戦しましたが、兵力に差があり降伏を余儀なくされ自害していきます。

毛利氏の侵攻は止まらず

尼子氏を滅ぼした直後に但馬国まで侵攻してきており、毛利氏の侵攻の手は緩むことがありませんでした。あまりの兵の多さに竹田城を守る太田垣氏は降伏し祐豊は、自国を守るために毛利家重臣の吉川元春に同盟を結ぶための誓書を送り安芸但馬同盟が結ばれていきます。

しかし毛利家に降っていましたが、織田方の赤井直正が竹田城を攻撃され落城し占領されてしまうといきなり毛利家から織田家を頼るようになっていきました。何度も同盟を破棄された形で織田方から離れていた山名氏でしたが、信長はこれを了承し丹波国を制圧するために山名氏の行いを許していきます。

\次のページで「またも毛利氏に服従する」を解説!/

またも毛利氏に服従する

一旦は信長に降っていた山名氏でしたが、毛利氏と織田氏の関係が悪化していくと再び毛利氏に服従をしていきました。度重なる同盟破棄をされたことで信長は播磨一帯の諸将を制圧するために秀吉を派遣していきます。

竹田城領内には生野銀山があり銀や銅が産出されていて、この領内を掌握することで秀吉の金情勢を豊かにしようとしていました。武功夜話には三日間の攻防が太田垣氏と羽柴秀長によって繰り広げられていて高所を生かして石などを落下させ一時は優位となっていましたが、鉄砲三百丁の攻撃に合い耐え切れないと判断した太田垣氏は降伏していきます。

これにより太田垣氏は没落していき播磨国へ落ち延びました。

関ヶ原の戦い

太田垣氏が没落していったことで、秀長が竹田城主に一時期なっていましたが播磨国の将を降伏させていくために拠点としていき次々と秀吉に降伏していきました。降伏したことにより龍野城主だった斎村政広が竹田城主となり現存している竹田城へと改修していきます。

その後に石田三成と徳川家康により関ヶ原の戦いが行われ西軍が敗北すると東軍に加担し、旧知の仲だった亀井茲矩と共に鳥取城攻めに加わっていきました。しかしこの鳥取城攻めの際に城下に不必要に火を放ったとして責を家康から咎められ自害し果てた後に山名氏に返還されていきます。

そして最後には、幕府の方針により廃城が決まり取り壊されていきました。

天空の城と名付けられていく観光名所

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以前はあまり人気のない城でしたが、日本百名城へとなった際に人気の観光名所となっていきました。

晩秋になると雲海が発生

山城ということもあり山間部に築かれていた城のため、雲海が発生しやすい条件を備えていました。雲海の発生条件には放射冷却により地表が冷やされ地表付近の空気も冷やされていったことなどの条件が合わさり発生します。

必ずしも条件が揃っていたとしても発生するわけではありません。ただ竹田城が築かれている場所は比較的に放射冷却が起こりやすいため雲海が見られる機会は多くあるでしょう。

雲海があまりにも美しい姿から日本のマチュピチュとも呼ばれ更に観光名所として人気となっていきました。また2012年に自然に囲まれた土地として恋人の聖地に認定されたことより一層人気な場所となっていきます。そして雲海だけでなく春は桜が見ることが出来て夏は新緑を冬は白銀の世界で石垣を見ることが出来るでしょう。

\次のページで「竹田城までの移動ルートと観光料」を解説!/

竹田城までの移動ルートと観光料

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春夏秋冬の全て時間が異なっており、一番早い時間が朝の4時から見学が可能で雲海を見ることができますが近くに駐車場がないため見学の時間よりも早めに移動していくといいでしょう。

移動はバスと車で途中まで行けるようになっておりますが、最後は徒歩でしか行くことが出来ないためしっかりと登山が出来る格好で行くといいと思います。徒歩でかかる時間は二十分から四十分かかるため雲海を見る時期ですと防寒対策をしっかりとしていきましょう。

観光料金に関しましては、中学生以下はなんと無料となっており高校生以上が五百円で設定されていて年間を通して金額は変わることがありません。

山城だったものの堅城ではなかった

一見山城といえば防御に徹した城のように思え、中々攻めることが出来ない城のような気がしますが意外にも攻め落とされていることが多いように思えます。斜面を利用した防衛策が取られていいように思えますが、そのような措置が取られていたこともあまりなかったようです。

天守自体も存在していたようで、どのような構造になっていたかまでは不明ですが一国人が築城していたのでそれほど大きい作りではなかったことでしょう。また雲海以外にも見どころがあり現存している石垣の数は全国規模でも屈指で残された石垣を見ると戦国時代の風景が何となく見えてくるようにも思えました。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

雲海にそびえ立つ「竹田城」を戦国通のサラリーマンが5分で徹底わかりやすく解説

戦乱の世となっていた戦国期では、自国を守るために多くの山城などが築かれていき防衛拠点として活用されていたようです。しかし天下分け目の戦い後に江戸幕府が開かれていき平和な世が作られつつあり江戸初期から中期頃には戦などは国内でほぼ起こらないために城自体を取り壊された城が多かったようです。

今回は城自体は廃城となってしまったが、石垣などの戦国期のものが現存しているうえに標高が高いところに築かれたため雲海が見ることが出来る竹田城を歴史マニアであり歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

雲海として名高い竹田城だが、絶景以外にはあまり知られていないことが多いため今回は風景情報はもちろんのことどのようにして活用されていたかを解説していく。

建城時期

まずは築かれた時期から見ていきましょう。

室町時代に山内氏によって築かれる

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竹田城に関しての情報があまりなく、築城されて時期が書物などには記載がないため不明点が多い城ですが江戸時代末期に作成された日記によると1441年から1443年の間には既に丹波国と播磨国の境目に築城されていることが書かれています。これ以外の日記には竹田城のことが一切残されていないため実際のところ築城時期は伝承でしかありません。

またその時に築城したとされているのが室町幕府から守護職として丹波国を収めていた山内宗全が築いたとされています。初代城主は但馬国で栄えていた日下部氏の一族だった太田垣光景が、宗全の配下だった時に守備を命じられて以降竹田城を守っていきました。

守護職同士で争っていく

光景が竹田城に入城していたころには、隣国だった播磨守護職の赤松氏と争っている状況でした。赤松氏も播磨で一揆が発生し国内情勢があまり良くない中で、本家と宗家の関係が徐々に悪化していきます。その理由としては赤松氏は鎌倉幕府を打倒すると決起した後醍醐天皇に従いいち早く挙兵したことと武功を多く挙げたことで、播磨国の守護に命じられていきました。

しかし新政からはじき出されてしまいましたが、足利尊氏と力を合わせて室町幕府を作るのに貢献していきます。そして幕府の中では四大守護職の一人として幕府政治に参画していき摂津国など四カ国を任されていきました。

十五世紀になると足利幕府将軍の足利義教は赤松宗家を優遇し、本家だった赤松氏を冷遇していきます。これに反発したのが本家筋だった赤松満祐の親子で1441年に将軍を暗殺し宗家が守護していた播磨国に戻っていきましたが、幕府から追討指示を受けた宗全が播磨へ侵攻し城山城を宗家の赤松満政と共に攻め込み落城させ功績のあった宗全は播磨など三ヵ国を収める形となりました。

幕府のお家騒動から全国規模の争いが発生

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六代将軍を暗殺され後継者を嫡男の義勝に務めさせるも就任後わずか一年足らずで亡くなってしまい、同母兄弟だった義政を八代将軍として迎えていきました。この頃の室町幕府は三大管領によって保たれていた状態でその内の畠山氏が赤松氏が引き起こした嘉吉の乱に乗じて家督を取り戻していきます。しかし畠山氏の後継ぎがいなく養子を迎えて畠山氏を存続させていこうとした矢先に実子が生まれたことで養子だった持富は廃嫡されてしまいました。

この決定事項に納得がいかなかつた家臣達は、持富の子を擁立して畠山持国と争っていき内紛が発生。この内紛に幕府の参画として関与していた宗全は連携関係にあった細川勝元と将軍義政から家臣の処刑を命じられたことで反発していきます。

この幕府のお家騒動から細川氏と山内氏の争いへと発展したことで各地の守護職が互いに分かれて戦い発生したものが応仁の乱でした。

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