
2-3、チェンバレン、お雇い外国人として海軍兵学校の教師に
チェンバレンは、来日した翌年の明治7年(1874年)に、東京築地の海軍兵学寮(明治9年に海軍兵学校と改称)の英語教師に就任。海軍兵学校は明治15年(1882年)まで教えたということ。
2-4、チェンバレン、ネルソン提督について教える
「日本事物誌」の解説によれば、後の海軍少将木村浩吉はチェンバレンについて講演し、チェンバレンには4,5年教わったが、イギリス式の海軍を取り入れていた日本海軍の候補生にイギリス式の規律を教えるために、あれをすべき、これをすべきでないということでなく、トラファルガー海戦でナポレオンを破ったホレイショ・ネルソン提督の伝記を教えることで、異文化の日本人にもすんなりとイギリス紳士たる規律、職責、敬礼や秩序、誠実の大切さや部下に対しての慈愛や忍耐などが頭にしみ込んだということ。
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2-5、チェンバレン、色々な論文が認められて帝大に招聘される
その頃、明治5年(1872年)に設立された、東京、横浜を中心としたイギリスやアメリカ人などの学術研究団体である日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)では、駐日イギリス公使館のアーネスト・サトウやウィリアム・ジョージ・アストンらの錚々たる日本研究者が中心となり、日本研究が盛んに行われていたということで、チェンバレンも明治10年(1877年)に「枕詞、および言いかけ考」から始まって、「日本古代の詩歌」「英訳古事記」などを発表し、出版されることに。
来日して10年にもならないうちに、古い日本の研究論文を続々と発表するチェンバレンの研究が認められ、なんと明治19年(1886年)に,森有礼の推薦で帝国大学日本語学および博言学(後の言語学)の初代教授に就任。
2-6、チェンバレン、アイヌ語の研究も
望月小太郎 – Japan to-day, パブリック・ドメイン, リンクによる
チェンバレンの講義は、おもにマックス・ミュラーの比較言語学理論を用いていて、日本語を客観的な学問の対象とし、日本での言語学の礎を築くのに多大な貢献となったということ。外国人が日本語を教えるという異例の抜擢だったが、チェンバレン門下からは、上田万年、岡倉由三郎、佐佐木信綱、三上参次、芳賀矢一などの大家が輩出することに。
またチェンバレンはアイヌ語の研究も開始し、「アイヌ語の研究より見たる日本の言語・神話および地名」を発表、北海道へ行ってアイヌの風俗や言語の調査も行ったそう。
チェンバレンは、病身のためにわずか4年ほどで明治22年(1890年)に帝国大学を退職したが、あまりの功績の大きさに名誉教師の称号が与えられたということ。
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