今回はバジル・ホール・チェンバレンを取り上げるぞ。明治時代の著名なイギリス人の日本研究者のひとりなんだって、色々詳しく知りたいよな。

その辺のところを外国人の日本研究者に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。外国人の日本研究者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、バジル・ホール・チェンバレン(について5分でわかるようにまとめた。

1-1、バジル・ホール・チェンバレンはポーツマスの生まれ

バジル・ホール・チェンバレンは1850年10月18日、ポーツマス近郊サウスシーで誕生。父はブラジルで生まれ育ったイギリス海軍少将のウィリアム・チェンバレン、母エリザベス・ジェインはスコットランド低地地方の旧家の出身で、「朝鮮・琉球航海記」の著者のイギリス軍人バジル・ホールの娘。

「日本事物誌」の解説によれば、母はチェンバレンを妊娠中に、胎教のためにギリシャ語とラテン語を学習したということで、そのかいあってチェンバレンは10か国語をこなす天才言語学者となったということ。尚、バジルはギリシャ語のバジリウスから来ていて王という意味があり、日本では王堂と号したそう。

1-2、名門、チェンバレン家

チェンバレンの父方の曾祖父は、第8代ウェストモーランド伯爵の子ヘンリー・フェイン、祖父はその庶子だったので、チェンバレン家初代となったブラジル臨時代理大使などを務めたヘンリー・チェンバレン準男爵という上流階級。

母方の祖父のバジル・ホールは前述のように1816年に軍艦ライラ号の艦長として東洋を探検し、その帰途セントヘレナ島のナポレオンを訪問したという人で、チェンバレンの名はこの祖父にちなんで付けられたということ。チェンバレンが後に来日することになったのも祖父のゆかりの地であったからでしょう。

また、チェンバレンは弟が2人で、ひとりは海軍将校になったが、末弟のヒューストンは後に有名な哲学者となり、有名な作曲家リヒャルト・ワーグナーの娘と結婚してドイツに帰化したので、チェンバレンもワーグナー家と付き合いがあったということ。

1-3、チェンバレンの幼少時代

image by PIXTA / 36067024

チェンバレンは、1856年、8歳の時に母が亡くなったので、弟たちとともにフランスのヴェルサイユに住む父方の祖母アン・ユージニアの元へ送られ、祖母と叔母らに育てられたそう。チェンバレンはそれ以前から、英語とフランス語の両方で教育を受けていたが、フランスではドイツ語も学んだということ。

祖母はリスボン生まれでイギリス人の父とドイツ出身のデンマーク人の母を持ち、夫の赴任地ブラジルで子供たちを生んで育て、帰国後、ヨーロッパ各地で暮らしたという大変国際的な人で、チェンバレンも祖母や叔母らに多大な影響を受けたそう。

チェンバレンはヴェルサイユのリセ(フランスの中学校)に通ったが、健康のために17歳のときに暖かいスペインへ行き、1年滞在、イギリスへ帰国してオックスフォード大学進学を希望するも病弱のため断念し、ベアリングス銀行へ就職。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなった、または働き過ぎたために眼病と咽喉の慢性疾患にかかり、18歳のとき、親戚が長官を務める地中海のマルタ島へ行き3年保養につとめ、気候が良くなるとギリシャ、チュニス、モロッコやドイツ、オランダその他のヨーロッパ各地を旅行するなどして見聞を広めたということ。

2-1、チェンバレン、遠洋航海後に来日

マルタ島での療養でも健康は良くならず、チェンバレンは医師のすすめで遠洋航海に出ることになり、喜望峰を超えてオーストラリアへ、さらに上海から横浜へとたどり着いたのは、明治6年(1873年)5月、23歳の時。

2-2、チェンバレン、日本語を学習する

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Original source: http://www.auelib.aichi-edu.ac.jp/lib/cs/collection.html cs.wikipedia からコモンズに sevela.p が移動されました。, パブリック・ドメイン, リンクによる

チェンバレンは東京芝の清竜寺に住み、日本語の勉強を開始。まず日本語の古典を学ぶために元浜松藩士の荒木蕃(しげる)という老武士に英語を教え,荒木からは日本語と古今集を学び,能を鑑賞するように。荒木は当時の駐日イギリス公使館の通訳をしていた日本人の知り合いということ。

その後は、幕臣だった鈴木庸正(建築家三橋四郎の父)に、「万葉集」「枕草子」について教えを受けて、日本語への学問的な関心を深め,狂言や謡曲と研究を広げたうえ、荒木の紹介で天璋院に仕えていた女流歌人で国学者だった橘冬照の未亡人でもある橘東世子(とせこ)から和歌を学んで,東世子の義理の舅にあたる江戸時代後期の国学者橘守部の遺稿も見せてもらったそう。

チェンバレンはその研究成果を,ヴィクトリア朝時代の代表的な教養雑誌である「コーンヒル・マガジン」や,発足間もない日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)発行の「アジア協会紀要(Transactions of the Asiatic Society of Japan)」に、いくつかの日本の古語に関する論文として発表。

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2-3、チェンバレン、お雇い外国人として海軍兵学校の教師に

チェンバレンは、来日した翌年の明治7年(1874年)に、東京築地の海軍兵学寮(明治9年に海軍兵学校と改称)の英語教師に就任。海軍兵学校は明治15年(1882年)まで教えたということ。

2-4、チェンバレン、ネルソン提督について教える

「日本事物誌」の解説によれば、後の海軍少将木村浩吉はチェンバレンについて講演し、チェンバレンには4,5年教わったが、イギリス式の海軍を取り入れていた日本海軍の候補生にイギリス式の規律を教えるために、あれをすべき、これをすべきでないということでなく、トラファルガー海戦でナポレオンを破ったホレイショ・ネルソン提督の伝記を教えることで、異文化の日本人にもすんなりとイギリス紳士たる規律、職責、敬礼や秩序、誠実の大切さや部下に対しての慈愛や忍耐などが頭にしみ込んだということ。

2-5、チェンバレン、色々な論文が認められて帝大に招聘される

その頃、明治5年(1872年)に設立された、東京、横浜を中心としたイギリスやアメリカ人などの学術研究団体である日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)では、駐日イギリス公使館のアーネスト・サトウやウィリアム・ジョージ・アストンらの錚々たる日本研究者が中心となり、日本研究が盛んに行われていたということで、チェンバレンも明治10年(1877年)に「枕詞、および言いかけ考」から始まって、「日本古代の詩歌」「英訳古事記」などを発表し、出版されることに。

来日して10年にもならないうちに、古い日本の研究論文を続々と発表するチェンバレンの研究が認められ、なんと明治19年(1886年)に,森有礼の推薦で帝国大学日本語学および博言学(後の言語学)の初代教授に就任

2-6、チェンバレン、アイヌ語の研究も

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望月小太郎 - Japan to-day, パブリック・ドメイン, リンクによる

チェンバレンの講義は、おもにマックス・ミュラーの比較言語学理論を用いていて、日本語を客観的な学問の対象とし、日本での言語学の礎を築くのに多大な貢献となったということ。外国人が日本語を教えるという異例の抜擢だったが、チェンバレン門下からは、上田万年、岡倉由三郎、佐佐木信綱、三上参次、芳賀矢一などの大家が輩出することに。

またチェンバレンはアイヌ語の研究も開始し、「アイヌ語の研究より見たる日本の言語・神話および地名」を発表、北海道へ行ってアイヌの風俗や言語の調査も行ったそう。

チェンバレンは、病身のためにわずか4年ほどで明治22年(1890年)に帝国大学を退職したが、あまりの功績の大きさに名誉教師の称号が与えられたということ。

\次のページで「2-7、チェンバレン、小泉八雲と交流」を解説!/

2-7、チェンバレン、小泉八雲と交流

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Frederick Gutekunst - http://www.cincinnatilibrary.org/main/hearn/Hearn_PhotoFull.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、女性ジャーナリストに日本が夢のような国だったという話に心を動かされ、また英訳された古事記を読んで日本に興味をもって来日したのですが、ハーンは明治23年(1890年)に来日してすぐ、古事記を英訳したチェンバレンに会いに行き、ふたりの交流が始まったということ。

当初はとても親しい関係で、ハーンは松江や熊本での教師の職、そして東京帝国大学もチェンバレンに推薦してもらったということで、ふたりの往復書簡集も残されているということ。後に疎遠になったというのは残念。

3-1、チェンバレンの主な門下生

チェンバレンは、現在ではアストン、サトウとともに日本学の3大巨人とも言われていますが、彼の薫陶を受けて有名な学者となった門下生が何人もいて、また彼らの教え子にも有名な学者が輩出しているということ。

3-2、上田 万年( かずとし)

国語学者、言語学者。東京帝国大学国語研究室の初代主任教授、文科大学長や文学部長を務め、標準語、言文一致や仮名使いの統一に尽力したということ。

3-3、佐佐木信綱(ささきのぶつな)

歌人で国文学者。父と共編で「日本歌学全書」を刊行し、森鴎外の「めざまし草」に歌を発表、歌誌「いささ川」創刊、新体詩集「この花」刊行なども行い、短歌結社「竹柏会」を主宰して、九条武子、柳原白蓮、木下利玄、川田順、前川佐美雄、相馬御風など多くの歌人を育成。また国語学者の新村出、国文学者の久松潜一も佐佐木に和歌を学び、歌会始の選者として貞明皇后らにも指導したそう。

3-4、三上参次

歴史学者、文学博士。東京帝国大学史料編纂掛の史料編纂官を経て、東京帝国大学教授として史学科から国史学科が分離するのに尽力。「明治天皇紀」などを編纂。

\次のページで「3-5、芳賀矢一」を解説!/

3-5、芳賀矢一

上田万年に続く東京帝大国語国文学教授、国学とドイツ文献学をあわせた日本国文学の基礎を作って国語教育に携わり国定教科書を編纂。

3-6、岡倉由三郎

兄は美術指導者の岡倉天心で、東京高等師範学校教授として英語の教育と普及に尽力。「新英和大辞典」「発音学講話」などを編纂。

4-1、チェンバレンへの批判

チェンバレンが日本語文法書を書いたことを国辱的と感じる谷千生(ちなり)や歴史、国語学者の山田孝雄(よしお)のような人もいたということで、チェンバレンがヨーロッパ人であることでヨーロッパからみた西洋中心主義も、こういう人たちには批判的に受け取られたということ。

チェンバレンは日本文学に対してかなり低い評価をしていて、「才能とオリジナリティ、思想、倫理的把握、奥深さ、幅広さが欠けており、詩歌も知性に欠けて可憐なだけ」と評したことについて、日本研究者のリチャード・バウリングは、「チェンバレンによる和歌の翻訳は、古色蒼然とした詩的表現のまわりに沢山のつぎはぎ」なので、チェンバレンが日本の詩歌に対して下した評価は、いわゆる英語で詩的なものが日本の詩歌には欠けているという意味だと解説。

また、「源氏物語」翻訳者のアーサー・ウェイリーもチェンバレンの翻訳に不満を持ち日本文学論に反論したり、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も、チェンバレンの「日本事物誌」の音楽、神道、文学などの項目について批判したという話もあるそう。

4-2、その後のチェンバレン

image by PIXTA / 33860705

チェンバレンは明治26年(186年)琉球へ渡り、琉球研究を論文にまとめたり、日本語文法書の決定版「日本語口語文典」日本全国を旅行してまとめた「日本旅行記」や各方面にわたる日本研究の日本についての小百科事典「日本事物誌」をまとめたということ。また40年にわたる滞日中、6度ヨーロッパへ帰ったが、そのたびに日本に心を惹かれてまた日本に戻らずにいられなかったということ。明治37年(1904年)ごろからは、箱根の藤屋(富士屋)に逗留し、近くに王堂文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、明治42年(1911年)隠居のためにヨーロッパへ帰国。

スイスのジュネーヴ湖畔で余生を送ったが、週に一度は若い学生とまじわり、歴史や文学の講義を聴いたが、晩年は体に障るので訪問客にも滅多に会わなかったということ。そしてフランス語で「フランス名詩選」を著述したり、イギリスの新聞記事で名前に故付きで報道されたと聞き、昭和7年(1933年)に「鼠はまだ生きている」を著述したりしたが、昭和10年(1935年)2月に85歳で死去。

尚、チェンバレン死去の知らせを受けて東京で催された会で、当時の外務大臣廣田弘毅、駐日イギリス大使ロバート・クライブや、イギリスの外交官で日本の歴史や文化の研究者ジョージ・サンソム、日本の言語学者、文献学者「広辞苑」の編纂、著者新村出、日本の言語学者、民俗学者、日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる金田一京助、佐佐木信綱という錚々たる学者が追悼の講演を行ったということ。

日本の言語学の基礎を築いたイギリス人研究者

バジル・ホール・チェンバレンは、イギリスのかなり国際色豊かな家庭に生まれ、フランスやスペインで育ち、10か国語を話せる人でしたが、病弱なために遠洋航海で体に合う土地を探していたのか、日本にたどり着き、なぜか古典にのめり込み、アーネスト・サトウやウィリアム・ジョージ・アストンらとともに、明治時代以降の最も有名な日本研究家のひとりとなった人。

チェンバレンは俳句を英訳した最初の人物であり、「古事記」も英訳、アイヌや琉球の研究でも先取的役割を果たし、文明開化で他の分野と同様に揺れ動いていた日本語の言語学に、ヨーロッパの科学的研究を取り入れて国語学として成立させた業績の持ち主。友人だったラフカディオ・ハーンは日本の物語を世界に紹介したが、チェンバレンは、学者として日本の言語や文化を研究し世界に紹介した先駆者として歴史に残る存在に。

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日本史明治歴史

日本言語学の父と言われる「バジル・ホール・チェンバレン」イギリス人日本研究家について歴女がわかりやすく解説

2-3、チェンバレン、お雇い外国人として海軍兵学校の教師に

チェンバレンは、来日した翌年の明治7年(1874年)に、東京築地の海軍兵学寮(明治9年に海軍兵学校と改称)の英語教師に就任。海軍兵学校は明治15年(1882年)まで教えたということ。

2-4、チェンバレン、ネルソン提督について教える

「日本事物誌」の解説によれば、後の海軍少将木村浩吉はチェンバレンについて講演し、チェンバレンには4,5年教わったが、イギリス式の海軍を取り入れていた日本海軍の候補生にイギリス式の規律を教えるために、あれをすべき、これをすべきでないということでなく、トラファルガー海戦でナポレオンを破ったホレイショ・ネルソン提督の伝記を教えることで、異文化の日本人にもすんなりとイギリス紳士たる規律、職責、敬礼や秩序、誠実の大切さや部下に対しての慈愛や忍耐などが頭にしみ込んだということ。

2-5、チェンバレン、色々な論文が認められて帝大に招聘される

その頃、明治5年(1872年)に設立された、東京、横浜を中心としたイギリスやアメリカ人などの学術研究団体である日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)では、駐日イギリス公使館のアーネスト・サトウやウィリアム・ジョージ・アストンらの錚々たる日本研究者が中心となり、日本研究が盛んに行われていたということで、チェンバレンも明治10年(1877年)に「枕詞、および言いかけ考」から始まって、「日本古代の詩歌」「英訳古事記」などを発表し、出版されることに。

来日して10年にもならないうちに、古い日本の研究論文を続々と発表するチェンバレンの研究が認められ、なんと明治19年(1886年)に,森有礼の推薦で帝国大学日本語学および博言学(後の言語学)の初代教授に就任

2-6、チェンバレン、アイヌ語の研究も

Imperial University of Tokyo.jpg
望月小太郎 – Japan to-day, パブリック・ドメイン, リンクによる

チェンバレンの講義は、おもにマックス・ミュラーの比較言語学理論を用いていて、日本語を客観的な学問の対象とし、日本での言語学の礎を築くのに多大な貢献となったということ。外国人が日本語を教えるという異例の抜擢だったが、チェンバレン門下からは、上田万年、岡倉由三郎、佐佐木信綱、三上参次、芳賀矢一などの大家が輩出することに。

またチェンバレンはアイヌ語の研究も開始し、「アイヌ語の研究より見たる日本の言語・神話および地名」を発表、北海道へ行ってアイヌの風俗や言語の調査も行ったそう。

チェンバレンは、病身のためにわずか4年ほどで明治22年(1890年)に帝国大学を退職したが、あまりの功績の大きさに名誉教師の称号が与えられたということ。

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