日本史昭和歴史

日本人となった「ドナルド・キーン」日本文学と日本文化研究の第一人者について歴女がわかりやすく解説

2-2、キーン先生、ハワイで捕虜に尋問を担当

キーン先生は、ハワイで捕虜の尋問をしたが、日本人捕虜に対して型通りの質問の他に、自分の関心のある文学について聞き、「いま日本でどんな小説が流行ってますか」とかばかり聞くので、日本人捕虜が気を使って、「あの、地雷についてとか知りたくないですか」と、聞かれたということ。また終戦後、占領軍として東京へ行ったキーン先生は、捕虜となった日本兵の実家を回って彼らの無事を伝え喜ばれたそう。

3-1、キーン先生、ハーバード大学へ

キーン先生は、戦後、コロンビア大学大学院へ戻り、その後は奨学金を得てハーバード大学やイギリスのケンブリッジ大学に留学、その頃は日本文学といえば、中国の亜流と思われていたので、日本文学が専門とはいえず、聞かれると中国文学と答えていたそう。

キーン先生は、名門コロンビア大学、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、京都大学への留学も、すべて奨学金で行かれたというのは、キーン先生がよほどに優秀だったということと、アメリカは優秀な学生にはきちんとお金を出して勉強させる先進的な国だったということでは。尚、キーン先生は、1951年に近松門左衛門の浄瑠璃研究でコロンビア大学士号を取得。

3-2、キーン先生、京都大学に留学

キーン先生の自叙伝によれば、1953年に京都大学に留学し、東福寺のあたりの下宿に住んだということ。もうひとりの下宿人はアメリカ帰りと聞かされたので、日本文化を否定するような話をするのを予測して会わないようにしていたが、それが永井道雄氏だったということ。会ってみると永井氏も同じように思ってキーン先生を避けていたらしく、のちに彼らは親友に。そして大蔵流狂言の茂山家に通い、茂山千之丞氏に狂言を教えてもらい舞台で演じて話題になったそう。

キーン先生が下宿されていた頃は東海道新幹線の開通前だったのですが、この下宿のあたりが素晴らしい景色だったのに新幹線の線路が通ってなくなってしまったと残念がったが、京都に住んだせいで苦も無く日本の歴史についてわかるようになったということ。

また、満月の明かりが素晴らしかったので、枯山水で有名な龍安寺の庭へ行って縁側で月明かりの庭を眺めていたとき、ふと気が付くと側にお茶が置いてあったという話は有名。キーン先生の観月を邪魔せずにお茶だけ置いていく心使いに感動されたそう。

3-3、キーン先生、日本人に受け入れてもらおうと努力したことも

キーン先生の自叙伝によれば、一生懸命日本の文学を研究して日本人の心を知ろうと努力し、日本人に受け入れてもらおうと、納豆とかの日本ならではの食べ物を食べて見せたり、ちょっと自分には熱すぎるお風呂に入ったりしたこともあったそう。またキーン先生はオペラなどクラシック音楽の趣味もあり、浄瑠璃や狂言などにも精通。

後年になってキーン先生は、自分が日本研究を始めた頃は、日本について何でも知っていなければいけなかったが、現在はアニメやゲームなども含めて、日本関連の文化が多岐にわたるせいで日本研究の専門分野も細分化しているとコメントされていたことも。

3-4、キーン先生、文豪と知り合う

キーン先生は、谷崎潤一郎、川端康成など、歴史に残る文豪に直接会って話を聞かれた経験が語れる人でした。三島由紀夫とは友達だったということ。またケンブリッジ大学に留学時には、「源氏物語」の翻訳者のアーサー・ウエイリ―や、バートランド・ラッセルに気に入られたとか、「日本人と日本文化」の対談後、司馬遼太郎とも友人関係になるなど、キーン先生の交友関係はおそろしいばかりの歴史的文学的色合いがこってりと濃厚。

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