
その辺のところを外国人の日本研究科に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、ドナルド・キーンはニューヨークの生まれ
- 1-2、キーン先生の子供時代
- 1-3、キーン先生、日本文学に出会う
- 2-1、海軍日本語学校で日本語を学び、より日本に親しみを持つ
- 2-2、キーン先生、ハワイで捕虜に尋問を担当
- 3-1、キーン先生、ハーバード大学へ
- 3-2、キーン先生、京都大学に留学
- 3-3、キーン先生、日本人に受け入れてもらおうと努力したことも
- 3-4、キーン先生、文豪と知り合う
- 3-5、キーン先生、母校コロンビア大学の教授に
- 3-6、コロンビア大学日本文化センターにキーン先生の名前が付けられる
- 3-7、キーン先生、日本に帰化
- 客観的に日本文学について評論が出来た不世出の文学研究者
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。日本通の外国人学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ドナルド・キーン先生について5分でわかるようにまとめた。
1-1、ドナルド・キーンはニューヨークの生まれ

ドナルド・キーン先生は、1922年6月18日にアメリカはニューヨークのブルックリンで誕生。妹が一人いたが夭折。
日本国籍取得後、本名を出生名のドナルド・ローレンス・キーンから、カタカナ表記の「キーン ドナルド」に。そして雅号として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)と名乗ったりも。ここではキーン先生で統一。
1-2、キーン先生の子供時代
キーン先生は自伝の「日本との出会い」によると、子供の頃はフランスに夢中で商用で年に1,2度ヨーロッパへ行く父にせがんで、9歳のときにヨーロッパを旅行、フランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになったそう。そして両親の離婚で母子家庭に育ち経済的には困難だったが、秀才だったのが幸いし、奨学金を受けて飛び級で昭和13年(1938年)、16歳でコロンビア大学文学部に入学。
小柄なうえに飛び級で他の学生たちが大人なので、キーン先生は友達があまりできず、勉強に打ち込んだが、中国人学生と親しくなり漢字などを教えてもらったのが、アジアに触れた最初の経験。 コロンビア大学では、マーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングにもならったということ。
1-3、キーン先生、日本文学に出会う

キーン先生は、昭和15年(1940年)、厚さに比して安かったという理由で、タイムズスクエアで2冊49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳「源氏物語」を読んで感動して、漢字についで日本語を学び始めると共に、コロンビア大学では角田柳作(つのだりゅうさく)のもとで日本思想史を学び、日本研究の道へ。
キーン先生は昭和17年(1942年)、コロンビア大学でフランス文学で学士号を取得。同級生だったポール・ブルームから、「フランスに比べて日本は研究者が少ない」という理由で日本を研究することを薦められたということ。
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角田柳作先生
群馬県出身の日本文化の研究者で教育者。東京専門学校(現・早稲田大学)文学科卒業後、真言宗京都高校中学林(現・種智院大学)や文中園(現・京都女子大学)の教授を経て、仏教布教のために明治42年(1909年)に渡米。本派本願寺ハワイ中学校長を経て大正6年(1917年)にニューヨークへ移り、コロンビア大学やクラーク大学の講義を聴講。コロラド日本人会書記長やニューヨーク日本人会幹事を経て、昭和1928年、コロンビア大に日本文化研究所を設立。昭和6年(1931年)、コロンビア大学日本歴史講座講師に就任。コロンビア大学に日本文化研究所を設立して、日本思想史の講義を担当。
俳句を「民主主義の詩」と説明するなど、日本文化の真髄を伝える角田先生の講義はユニークなものだったそう。角田先生は著作を残さなかったが、キーン先生が角田先生に出会わなかったら今の自分はなかったと述懐するほどで、アメリカ中国学会の重鎮でもある角田先生の弟子のセオドア・ド・バリー氏は、「この世には無数の先生がいますが、コロンビア大学にはただ一人、角田先生」と語ったということ。
2-1、海軍日本語学校で日本語を学び、より日本に親しみを持つ
昭和16年(1941年)12月、日本軍のハワイの真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争に突入。キーン先生は、カリフォルニア大学バークレー校に海軍日本語学校があることと、日本語のわかる人材が不足していることを聞き、海軍日本語学校に入学希望の手紙を書いて入学許可を得たということ。
キーン先生は、昭和17年(1942年)2月から11カ月間、海軍日本語学校で日系人を教師に集中日本語教育を受けたそう。入門レベルから日本の教養ある成人の読み書きレベルに至るまでの日本語に加え、軍務に必要な手書き文字の読解に備えて草書も学んだそう。
卒業後、キーン先生は以後親友となるオーティス・ケーリ(元同志社大学教授)と海軍情報士官として、ハワイ真珠湾での任務から、アッツ島、キスカ島、アダク島、フィリピン、沖縄、グアムに従軍し、日本軍に関する書類の翻訳、日本兵の残した日記の読解、日本兵捕虜への尋問や通訳などに従事。
キーン先生は、アメリカ軍兵士の家族への手紙の検閲も担当したが、アメリカ人がただ故郷へ帰りたいとばかり書く手紙が多いのに対し、日本人兵士の耐えた困苦を書いた手紙を比較して、日本の軍国主義を受け入れることはできないが、日本の兵士には感動したそう。キーン先生は、日記や手紙、捕虜に尋問したりとで、日本人の気持ちを深く読み取るばかりで、日本に憎しみを持つことはなかったということ。
イギリスでも同様に必要に駆られてエリート学生をヘッドハンティングし、戦争中に日本語を学ばせた学校が存在しましたが、キーン先生と同様に学べば学ぶほど日本文化に興味と親しみをもち、戦後は日本研究者や外交官として活躍した話がありますが、日本人にとっては悲惨で無謀な太平洋戦争の裏で米英で親日家が育っていたなんて、不思議な話ですよね。
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