今回はドナルド・キーン先生を取り上げるぞ。アメリカ生まれで晩年に日本人に帰化した学者ですが、日本人よりも無茶苦茶日本文学に詳しかったんですね。

その辺のところを外国人の日本研究科に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。日本通の外国人学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ドナルド・キーン先生について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ドナルド・キーンはニューヨークの生まれ

image by PIXTA / 27130525

ドナルド・キーン先生は、1922年6月18日にアメリカはニューヨークのブルックリンで誕生。妹が一人いたが夭折。

日本国籍取得後、本名を出生名のドナルド・ローレンス・キーンから、カタカナ表記の「キーン ドナルド」に。そして雅号として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)と名乗ったりも。ここではキーン先生で統一。

1-2、キーン先生の子供時代

キーン先生は自伝の「日本との出会い」によると、子供の頃はフランスに夢中で商用で年に1,2度ヨーロッパへ行く父にせがんで、9歳のときにヨーロッパを旅行、フランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになったそう。そして両親の離婚で母子家庭に育ち経済的には困難だったが、秀才だったのが幸いし、奨学金を受けて飛び級で昭和13年(1938年)、16歳でコロンビア大学文学部に入学。

小柄なうえに飛び級で他の学生たちが大人なので、キーン先生は友達があまりできず、勉強に打ち込んだが、中国人学生と親しくなり漢字などを教えてもらったのが、アジアに触れた最初の経験。 コロンビア大学では、マーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングにもならったということ。

1-3、キーン先生、日本文学に出会う

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キーン先生は、昭和15年(1940年)、厚さに比して安かったという理由で、タイムズスクエアで2冊49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳「源氏物語」を読んで感動して、漢字についで日本語を学び始めると共に、コロンビア大学では角田柳作(つのだりゅうさく)のもとで日本思想史を学び、日本研究の道へ。

キーン先生は昭和17年(1942年)、コロンビア大学でフランス文学で学士号を取得。同級生だったポール・ブルームから、「フランスに比べて日本は研究者が少ない」という理由で日本を研究することを薦められたということ。

角田柳作先生
群馬県出身の日本文化の研究者で教育者。東京専門学校(現・早稲田大学)文学科卒業後、真言宗京都高校中学林(現・種智院大学)や文中園(現・京都女子大学)の教授を経て、仏教布教のために明治42年(1909年)に渡米。本派本願寺ハワイ中学校長を経て大正6年(1917年)にニューヨークへ移り、コロンビア大学やクラーク大学の講義を聴講。コロラド日本人会書記長やニューヨーク日本人会幹事を経て、昭和1928年、コロンビア大に日本文化研究所を設立。昭和6年(1931年)、コロンビア大学日本歴史講座講師に就任。コロンビア大学に日本文化研究所を設立して、日本思想史の講義を担当。

俳句を「民主主義の詩」と説明するなど、日本文化の真髄を伝える角田先生の講義はユニークなものだったそう。角田先生は著作を残さなかったが、キーン先生が角田先生に出会わなかったら今の自分はなかったと述懐するほどで、アメリカ中国学会の重鎮でもある角田先生の弟子のセオドア・ド・バリー氏は、「この世には無数の先生がいますが、コロンビア大学にはただ一人、角田先生」と語ったということ。

2-1、海軍日本語学校で日本語を学び、より日本に親しみを持つ

昭和16年(1941年)12月、日本軍のハワイの真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争に突入。キーン先生は、カリフォルニア大学バークレー校に海軍日本語学校があることと、日本語のわかる人材が不足していることを聞き、海軍日本語学校に入学希望の手紙を書いて入学許可を得たということ。

キーン先生は、昭和17年(1942年)2月から11カ月間、海軍日本語学校で日系人を教師に集中日本語教育を受けたそう。入門レベルから日本の教養ある成人の読み書きレベルに至るまでの日本語に加え、軍務に必要な手書き文字の読解に備えて草書も学んだそう。

卒業後、キーン先生は以後親友となるオーティス・ケーリ(元同志社大学教授)と海軍情報士官として、ハワイ真珠湾での任務から、アッツ島、キスカ島、アダク島、フィリピン、沖縄、グアムに従軍し、日本軍に関する書類の翻訳、日本兵の残した日記の読解、日本兵捕虜への尋問や通訳などに従事。

キーン先生は、アメリカ軍兵士の家族への手紙の検閲も担当したが、アメリカ人がただ故郷へ帰りたいとばかり書く手紙が多いのに対し、日本人兵士の耐えた困苦を書いた手紙を比較して、日本の軍国主義を受け入れることはできないが、日本の兵士には感動したそう。キーン先生は、日記や手紙、捕虜に尋問したりとで、日本人の気持ちを深く読み取るばかりで、日本に憎しみを持つことはなかったということ。

イギリスでも同様に必要に駆られてエリート学生をヘッドハンティングし、戦争中に日本語を学ばせた学校が存在しましたが、キーン先生と同様に学べば学ぶほど日本文化に興味と親しみをもち、戦後は日本研究者や外交官として活躍した話がありますが、日本人にとっては悲惨で無謀な太平洋戦争の裏で米英で親日家が育っていたなんて、不思議な話ですよね。

\次のページで「2-2、キーン先生、ハワイで捕虜に尋問を担当」を解説!/

2-2、キーン先生、ハワイで捕虜に尋問を担当

キーン先生は、ハワイで捕虜の尋問をしたが、日本人捕虜に対して型通りの質問の他に、自分の関心のある文学について聞き、「いま日本でどんな小説が流行ってますか」とかばかり聞くので、日本人捕虜が気を使って、「あの、地雷についてとか知りたくないですか」と、聞かれたということ。また終戦後、占領軍として東京へ行ったキーン先生は、捕虜となった日本兵の実家を回って彼らの無事を伝え喜ばれたそう。

3-1、キーン先生、ハーバード大学へ

キーン先生は、戦後、コロンビア大学大学院へ戻り、その後は奨学金を得てハーバード大学やイギリスのケンブリッジ大学に留学、その頃は日本文学といえば、中国の亜流と思われていたので、日本文学が専門とはいえず、聞かれると中国文学と答えていたそう。

キーン先生は、名門コロンビア大学、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、京都大学への留学も、すべて奨学金で行かれたというのは、キーン先生がよほどに優秀だったということと、アメリカは優秀な学生にはきちんとお金を出して勉強させる先進的な国だったということでは。尚、キーン先生は、1951年に近松門左衛門の浄瑠璃研究でコロンビア大学士号を取得。

3-2、キーン先生、京都大学に留学

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Stephane D'Alu - Stephane D'Alu's photo, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

キーン先生の自叙伝によれば、1953年に京都大学に留学し、東福寺のあたりの下宿に住んだということ。もうひとりの下宿人はアメリカ帰りと聞かされたので、日本文化を否定するような話をするのを予測して会わないようにしていたが、それが永井道雄氏だったということ。会ってみると永井氏も同じように思ってキーン先生を避けていたらしく、のちに彼らは親友に。そして大蔵流狂言の茂山家に通い、茂山千之丞氏に狂言を教えてもらい舞台で演じて話題になったそう。

キーン先生が下宿されていた頃は東海道新幹線の開通前だったのですが、この下宿のあたりが素晴らしい景色だったのに新幹線の線路が通ってなくなってしまったと残念がったが、京都に住んだせいで苦も無く日本の歴史についてわかるようになったということ。

また、満月の明かりが素晴らしかったので、枯山水で有名な龍安寺の庭へ行って縁側で月明かりの庭を眺めていたとき、ふと気が付くと側にお茶が置いてあったという話は有名。キーン先生の観月を邪魔せずにお茶だけ置いていく心使いに感動されたそう。

3-3、キーン先生、日本人に受け入れてもらおうと努力したことも

キーン先生の自叙伝によれば、一生懸命日本の文学を研究して日本人の心を知ろうと努力し、日本人に受け入れてもらおうと、納豆とかの日本ならではの食べ物を食べて見せたり、ちょっと自分には熱すぎるお風呂に入ったりしたこともあったそう。またキーン先生はオペラなどクラシック音楽の趣味もあり、浄瑠璃や狂言などにも精通。

後年になってキーン先生は、自分が日本研究を始めた頃は、日本について何でも知っていなければいけなかったが、現在はアニメやゲームなども含めて、日本関連の文化が多岐にわたるせいで日本研究の専門分野も細分化しているとコメントされていたことも。

3-4、キーン先生、文豪と知り合う

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不明 - http://mhsteger.tumblr.com/post/697607461/yasunari-kawabata-born-14-june-1899-died-16, パブリック・ドメイン, リンクによる

キーン先生は、谷崎潤一郎、川端康成など、歴史に残る文豪に直接会って話を聞かれた経験が語れる人でした。三島由紀夫とは友達だったということ。またケンブリッジ大学に留学時には、「源氏物語」の翻訳者のアーサー・ウエイリ―や、バートランド・ラッセルに気に入られたとか、「日本人と日本文化」の対談後、司馬遼太郎とも友人関係になるなど、キーン先生の交友関係はおそろしいばかりの歴史的文学的色合いがこってりと濃厚。

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3-5、キーン先生、母校コロンビア大学の教授に

キーン先生は、昭和30年(1955年)からコロンビア大学助教授、のちに教授となり、以後、一年を半分ずつアメリカと日本で過ごすように。そして18巻の「日本文学史」を1976年から1997年にかけて執筆、完成。また、古典の「徒然草」、芭蕉の「奥の細道」、近松門左衛門、現代作家の三島由紀夫、安部公房などの著作も多数英訳されたそう。また、日本人の日記を取り上げた「百代の過客」やエッセイなども多数出版し、「明治天皇史」も執筆するなど、精力的に活動を続け、菊池寛賞受賞など数々の賞も受賞したということ。

3-6、コロンビア大学日本文化センターにキーン先生の名前が付けられる

1986年、コロンビア大学にドナルド・キーン日本文化センターが設立され、2006年に、コロンビア大学50周年祝賀会が開かれたときは、世界各地で日本文学の教育、研究、翻訳などに従事している人が集まり、自分が最初に日本文学に出会ったのはキーン先生の「日本文学史」だと口々に言ったということで、キーン先生は大変喜ばれたそう。

3-7、キーン先生、日本に帰化

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Aurelio Asiain from Hirakata-shi, Osaka, Japan - Flickr photo Donald Keene at his Tokyo home, CC 表示-継承 2.0, リンクによる

キーン先生は2011年の東日本大震災で、外国人が多く日本を脱出するのを見て、日本人の心に寄り添いたいと日本に帰化することを決意。また、2012年の日本国籍取得と同時に、古浄瑠璃の再発見が縁で浄瑠璃三味線奏者の誠己(せいき)を養子に迎え、家族が出来たということ。

2019年2月24日、心不全のため東京都の病院で96歳で死去。

キーン先生のユニークさ
日本人ほど日記を好む民族はないと、古今の日記を集めて取り上げた代表作のひとつ「百代の過客 日記にみる日本人」では、キーン先生は最初にばしっと「日記は読者を想定して書いたもの」と断定、読者は有名無名の他人の日記を見る後ろめたさから解放され、同時に日記に対しての新しい見方の発見に目を見張らされるわけで、これは日本人にない客観的な見方ではないかと。

また、「日本人と日本文化」司馬遼太郎氏との対談集では、あの有名なオランダ語辞書ズーフ・ハルマを津和野で見たということで、「例文の豊富さにびっくりしました。よく出来ている。あれほど例文の多い辞書は少ないし、手書きの字がきれいで今はあんなきれいな洋文字に書ける人はいない」と感想を(キーン先生はオランダ語を学び、江戸時代の蘭学についての著書もあるそう)。

そして司馬遼太郎氏によれば、キーン先生は「日本には英雄がいない」と断言、英雄というのはナポレオンやアレクサンダー大王のように大虐殺とかも行った人のことを意味するが、日本にはそこまでのすごいことをする専制君主がいなかったということ。

こう言った具合に、キーン先生は世界の文学に精通したうえに日本文学や歴史、文化を熟知しているので、日本人が及ばない客観的な見方が出来るユニークさが魅力では。

客観的に日本文学について評論が出来た不世出の文学研究者

ドナルド・キーン先生は、アメリカ生まれでフランス文学で学士号を取得、そして中国文学から日本文学へと興味を広げて研究されました。太平洋戦争時も日本を嫌うどころか日本語を勉強してますます親しみと興味を持ったくらいで、戦後は京都に留学し、歴史に残る文豪たちと実際に知り合うなどかなり貴重な体験も。

そして英語で日本文学についての著書をあらわし、翻訳もされて、世界に日本文学を紹介し、また外国文学と比較した評論でわれわれ日本人にも日本文学を客観的に解説するという相互作用をもたらされたというのは大変な偉業。

しかし以前は日本人が同じようなことを書いてもだめだが、外国人だから取り上げられる、所詮外国人に日本の情緒はわからないという見方をした人がいたし、キーン先生は大好きな日本で外国人だからと嫌な対応をされたりもあったはずですが、もういまや日本文化が特別で外国人には理解できないなどというのはたわごととなっていて、普通の日本人が知らないことを熱心に外国人が学んでいることは数えきれないほど。今後もキーン先生の著書を読んで日本文学、日本文化に興味を持つ人が世界中からあらわれることは確実でしょう。

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日本史昭和歴史

日本人となった「ドナルド・キーン」日本文学と日本文化研究の第一人者について歴女がわかりやすく解説

今回はドナルド・キーン先生を取り上げるぞ。アメリカ生まれで晩年に日本人に帰化した学者ですが、日本人よりも無茶苦茶日本文学に詳しかったんですね。

その辺のところを外国人の日本研究科に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。日本通の外国人学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ドナルド・キーン先生について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ドナルド・キーンはニューヨークの生まれ

image by PIXTA / 27130525

ドナルド・キーン先生は、1922年6月18日にアメリカはニューヨークのブルックリンで誕生。妹が一人いたが夭折。

日本国籍取得後、本名を出生名のドナルド・ローレンス・キーンから、カタカナ表記の「キーン ドナルド」に。そして雅号として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)と名乗ったりも。ここではキーン先生で統一。

1-2、キーン先生の子供時代

キーン先生は自伝の「日本との出会い」によると、子供の頃はフランスに夢中で商用で年に1,2度ヨーロッパへ行く父にせがんで、9歳のときにヨーロッパを旅行、フランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになったそう。そして両親の離婚で母子家庭に育ち経済的には困難だったが、秀才だったのが幸いし、奨学金を受けて飛び級で昭和13年(1938年)、16歳でコロンビア大学文学部に入学。

小柄なうえに飛び級で他の学生たちが大人なので、キーン先生は友達があまりできず、勉強に打ち込んだが、中国人学生と親しくなり漢字などを教えてもらったのが、アジアに触れた最初の経験。 コロンビア大学では、マーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングにもならったということ。

1-3、キーン先生、日本文学に出会う

image by PIXTA / 5536875

キーン先生は、昭和15年(1940年)、厚さに比して安かったという理由で、タイムズスクエアで2冊49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳「源氏物語」を読んで感動して、漢字についで日本語を学び始めると共に、コロンビア大学では角田柳作(つのだりゅうさく)のもとで日本思想史を学び、日本研究の道へ。

キーン先生は昭和17年(1942年)、コロンビア大学でフランス文学で学士号を取得。同級生だったポール・ブルームから、「フランスに比べて日本は研究者が少ない」という理由で日本を研究することを薦められたということ。

角田柳作先生
群馬県出身の日本文化の研究者で教育者。東京専門学校(現・早稲田大学)文学科卒業後、真言宗京都高校中学林(現・種智院大学)や文中園(現・京都女子大学)の教授を経て、仏教布教のために明治42年(1909年)に渡米。本派本願寺ハワイ中学校長を経て大正6年(1917年)にニューヨークへ移り、コロンビア大学やクラーク大学の講義を聴講。コロラド日本人会書記長やニューヨーク日本人会幹事を経て、昭和1928年、コロンビア大に日本文化研究所を設立。昭和6年(1931年)、コロンビア大学日本歴史講座講師に就任。コロンビア大学に日本文化研究所を設立して、日本思想史の講義を担当。

俳句を「民主主義の詩」と説明するなど、日本文化の真髄を伝える角田先生の講義はユニークなものだったそう。角田先生は著作を残さなかったが、キーン先生が角田先生に出会わなかったら今の自分はなかったと述懐するほどで、アメリカ中国学会の重鎮でもある角田先生の弟子のセオドア・ド・バリー氏は、「この世には無数の先生がいますが、コロンビア大学にはただ一人、角田先生」と語ったということ。

2-1、海軍日本語学校で日本語を学び、より日本に親しみを持つ

昭和16年(1941年)12月、日本軍のハワイの真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争に突入。キーン先生は、カリフォルニア大学バークレー校に海軍日本語学校があることと、日本語のわかる人材が不足していることを聞き、海軍日本語学校に入学希望の手紙を書いて入学許可を得たということ。

キーン先生は、昭和17年(1942年)2月から11カ月間、海軍日本語学校で日系人を教師に集中日本語教育を受けたそう。入門レベルから日本の教養ある成人の読み書きレベルに至るまでの日本語に加え、軍務に必要な手書き文字の読解に備えて草書も学んだそう。

卒業後、キーン先生は以後親友となるオーティス・ケーリ(元同志社大学教授)と海軍情報士官として、ハワイ真珠湾での任務から、アッツ島、キスカ島、アダク島、フィリピン、沖縄、グアムに従軍し、日本軍に関する書類の翻訳、日本兵の残した日記の読解、日本兵捕虜への尋問や通訳などに従事。

キーン先生は、アメリカ軍兵士の家族への手紙の検閲も担当したが、アメリカ人がただ故郷へ帰りたいとばかり書く手紙が多いのに対し、日本人兵士の耐えた困苦を書いた手紙を比較して、日本の軍国主義を受け入れることはできないが、日本の兵士には感動したそう。キーン先生は、日記や手紙、捕虜に尋問したりとで、日本人の気持ちを深く読み取るばかりで、日本に憎しみを持つことはなかったということ。

イギリスでも同様に必要に駆られてエリート学生をヘッドハンティングし、戦争中に日本語を学ばせた学校が存在しましたが、キーン先生と同様に学べば学ぶほど日本文化に興味と親しみをもち、戦後は日本研究者や外交官として活躍した話がありますが、日本人にとっては悲惨で無謀な太平洋戦争の裏で米英で親日家が育っていたなんて、不思議な話ですよね。

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