今回はフランスの名門ヴァロワ家についてです。

ヴァロワ家はもともとフランスのカペー朝の傍流だったんですが、カペー朝が断絶したためヴァロワ家のフィリップ6世が即位したことから始まったんです。

そこで今回はヨーロッパの歴史に詳しい歴女のまぁこが厳選したヴァロワ家のフランソワ1世、フランソワ2世の妃だったメアリ・ステュアート、悪女として知られるカトリーヌ・ド・メディスの3人の生涯について取り上げていきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にハプスブルク家やブルボン家、イギリスの王家などに興味があり関連書を読み漁っている。今回はフランスのヴァロワ家について解説していく。

1 ヴァロワ家とは?

image by iStockphoto

ヴァロワ家とは、フランスの名門貴族です。ここではヴァロワ家がどのようにして歴史の表舞台に躍り出たのか、また歴代で有名なヴァロワ家の人物たち3人を解説していきます。

1-1そもそもヴァロワ家とは?

そもそもヴァロワ家とは一体どんな一族だったのでしょうか。ヴァロワ家とはフランスの王家。もともとはフランスのカペー朝の傍流だったヴァロワ家。1328年にカペー朝シャルル4世が亡くなったことからヴァロワ家のフィリップ6世がヴァロワ王朝の初代王となることに。しかしフィリップは三部会の推薦により選ばれたため「拾われっ子の王」と揶揄されることに。そこへ王位継承権を主張してイングランドのエドワード3世百年戦争を起こし、戦争は1453年まで続くことに。

1-2 百年戦争後に王権が強化されていくヴァロワ朝

フィリップ6世は三部会の推薦で選ばれた王だったため当初は王権が弱く、百年戦争では王権強化に苦心することに。しかしながらシャルル7世の時に百年戦争に勝利し、そこから王権強化に努めるようになりました。特に16世紀になると、フランソワ1世イタリアの覇権をめぐってカルロス1世と刃を交えることに。そしてヴァロワ朝は1328年から最期の王、アンリ3世が暗殺される1589年までの間に13代の王を輩出しました。それでは、このヴァロワ家から歴女まぁこが厳選した人物3人の生涯に触れながら解説していきますね。

2 フランソワ1世

フランソワ1世は16世紀のフランス王。彼はハプスブルク家のカルロス1世(カール5世でもある)と対立し、度々争ったことでも知られる人物です。また文化の保護も行い、巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスへ招いたことも。それでは彼とカルロス1世の対決を解説していきますね。

2-1 神聖ローマ皇帝に立候補

1519年に前帝が亡くなると、次の皇帝の選挙が始まることに。この時に有力な候補者として名が挙がったのは、イギリス王ヘンリー8世スペイン王カルロス1世、そしてフランス王フランソワ1世でした。この選挙はカルロス1世とフランソワ1世の一騎打ちになることに。ちなみに選定方法はなんと金銭。この争いでは、カルロス1世が豪商として有名なフッガー家などから多額の借金をして帝位を得ることに。

しかしなぜフランソワ1世は神聖ローマ皇帝に立候補することにしたのでしょうか。それは、ハプスブルク家を脅威に感じていたため。ハプスブルク家は、スペインやドイツ、ネーデルラント(現在のベルギーやオランダ、また北フランスの一部などのエリア)など多くの領土を手にしており、フランスはその領土に囲まれたのです。こうしてフランソワとカルロス1世の対決は続くことに。

\次のページで「2-2 パヴィアの戦いで敗北」を解説!/

2-2 パヴィアの戦いで敗北

スペイン王、カルロス1世と神聖ローマ皇帝の座を争った後に、今度は刃を交えることにしたフランソワ。1525年にイタリアでパヴィアの戦いが起こることに。ちなみにこの時のカルロス1世はスペインで政務を行っており、片やフランソワは現地で自ら指揮を執るほどの熱の入れようでした。こうして両者の激しい戦いの末、なんとフランソワが捕虜として捕えられることに。こうして捕えられたフランソワはスペインでマドリッド条約を結ばされました。この条約の内容はフランソワにとってはかなり屈辱的なもの。カルロスの領有しているブルゴーニュ公国とのフランスの国境エリアを割譲することや和解の証としてフランソワの姉をカルロスに嫁がせるという内容でした。しかしフランソワは条約を結び釈放されると、なんと条約を反故。更に驚くことに教皇クレメンス7世もこれを支持したのでした。

2-3 オスマン帝国とも手を結んだフランソワ

宿敵カルロス1世を倒すためならば手段を選ばなかったフランソワ。なんと異教徒のオスマン帝国と手を結ぶことに。一方オスマン帝国のスレイマン1世にとってもカルロス1世はライバル。こうして敵の敵は味方という理屈で両者は連携しました。この一環としてフランスにカピチュレーションが認められることに。ちなみにこれは、領事裁判権も含む通商上の特権。こうしてカルロス1世にとっては領土がオスマン帝国とフランスという敵から挟まれる形となることに。一説には第一次ウィーン包囲もスレイマンにフランソワがたきつけたとも言われています。

2-4 文化の保護にも努める

フランソワの行ったことは、カルロス1世との対立ばかりではありません。彼は文化の保護にも努め、絵画の巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスへ招いたことでも知られています。他にもアメリゴ・ヴェスプッチの航海の費用を出したことでも有名。

また国内政治では王権強化に努め、更に潤沢な持参金目当てでイタリアの富豪メディチ家のカトリーヌ・ド・メディスと息子アンリ2世の結婚を決めることに。

3 フランスを去った王妃メアリ・ステュアート 

Mary Queen of Scots farewell to France by Robert Herdman.png
Robert Herdman - National Gallery, Edinburgh, パブリック・ドメイン, リンクによる

フランソワ2世はアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディスの嫡男で1559年に即位した人物。彼は生まれつき体が弱く、即位後わずか1年足らずでこの世を去っています。フランソワと言えば、彼の妃だったメアリ・ステュアートが有名ですよね。しかしなぜスコットランド女王のメアリがフランスへ渡ったのでしょうか。それは当時のイングランドとスコットランドの関係によるものでした。ここでは、ヴァロワ家に嫁いだものの、すぐにフランスを去った王妃メアリについて解説していきます。

3-1 生後6日で女王となったメアリ

フランソワの妃はメアリ・ステュアート。彼女はスコットランドで生まれ、生後すぐに女王となった人物でした。しかしなぜスコットランド女王がフランスのフランソワの元に嫁ぐことになったのでしょうか。それはイングランドの王子と結婚させられそうになり、メアリの身を案じた母が実家のギーズ家に助けを求めたため

当時イングランドを支配していたヘンリ8世は、スコットランドのジェームズ5世が急死し、その王位継承が彼の娘メアリとなったことに目を突けます。そしてメアリを自身の嫡男の妃として、生まれたばかりにも関わらずイングランドへ連れ出そうすることに。しかしメアリの母は、1婚姻条件でメアリが結婚式を挙げる前に亡くなればスコットランドの継承はヘンリの嫡男としたこと、2メアリはカトリックであり、イングランドはプロテスタントだったため嫁がせたくないという理由から反対。この時はヘンリが譲歩し、メアリが10歳になるまでは猶予が与えられることに

3-2 メアリの親戚はギーズ家

しかし状況が一変することに。なんとヘンリ8世が死去したのです。この混乱に乗じてスコットランドが約束を破ったため、イングランド軍が攻め込んでくることに。これに対して危機感を募らせた母は実家のギーズ家へ助けを求めました。このような政治情勢によってメアリはフランスのヴァロワ家、フランソワの元に嫁ぐことに。

\次のページで「3-3 フランス宮廷で洗練された女性へ」を解説!/

3-3 フランス宮廷で洗練された女性へ

5歳となったメアリ・ステュアートはスコットランドから洗練されたフランス宮廷へ移ることに。宮廷での生活で数多くの言語を習得し、詩や刺繍をしたり馬術にも目を引くものがあったそう。才色兼備とはまさにメアリのためにあるようですね。

彼女はそこで婚約者のフランソワと初めて会いました。フランソワとメアリは1歳差でメアリの方が年上。フランソワは生まれつき体が弱く、医師からは長くは生きられないと言われていました。この2人はまるで姉弟のように仲良くなったそう。

3-4 フランスを去る王妃

それは突然の事故でした。なんとフランス王、アンリ2世が槍試合の事故で死去したのです。アンリ2世の事故死によってフランソワが2世として即位することに。しかしフランソワ2世は即位からわずか1年足らずで病死。メアリとフランソワの間にはとうとう子どもが生まれませんでした。当時子どもがいない王妃は帰されるのが普通。こうしてメアリはフランスを離れ、生まれ故郷のスコットランドへ帰ることに。

ちなみにその後のメアリですが、結婚しジェームズ6世が誕生。ところが自身のスキャンダルから自国にいられなくなりました。そして驚くべきことに、あろうことかエリザベスが治めるイングランドへ亡命。当初は幽閉していたエリザベスでしたが、メアリが反エリザベス派と結んだ証拠が見つかったため、彼女は処刑されました。

歴史にもしもというのは無意味かもしれませんが、もしもフランスであのままフランソワとずっと暮らせていたらきっと違う人生を送っていたのではないかと思いますよね。

4カトリーヌ・ド・メディス

さて最後の人物は、世界史上で悪女の1人とされるカトリーヌ・ド・メディス。アンリ2世が事故死した後、息子たちを次々に王位に就け、自分は彼らの摂政を行った人物で、サンバルテルミの虐殺の首謀者だったとも。それでは詳しく解説していこうと思います。

4-1 悪女カトリーヌ

名門メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスは1519年に生まれました。彼女の結婚は先にも出ましたが舅であるフランソワが決めた政略結婚。これは一方は権力欲しさ、もう一方は金目当ての結婚だったと言われています。そんなアンリとの結婚は彼女にとって不幸だったのかもしれません。なぜならアンリはカトリーヌを軽んじ、かなり年上の未亡人、ディアーヌを寵愛していたため。なんだかかわいそうですね。

4-2 夫の亡き後は摂政に

夫であるアンリに軽んじられたカトリーヌでしたが、転機が訪れます。それは夫の槍試合での事故死。この夫の死によってカトリーヌの人生が一変することに。

まずカトリーヌが真っ先に行ったのは寵姫ディアーヌからアンリが贈った宝石や城などを取り戻すことでした。こうしてディアーヌは宮廷を追放されることに。その後はフランソワ2世の摂政としてフランスを牛耳ることになりました。ちなみに病弱だったフランソワが即位してわずか1年で亡くなると、次にシャルルをシャルル9世として即位させることに。

\次のページで「4-3 当時はユグノー戦争の最中」を解説!/

4-3 当時はユグノー戦争の最中

Debat-Ponsan-matin-Louvre.jpg
エドワール・ドゥバ・ポンサン - Mairie de Clermont-Ferrand https://www.clermontmetropole.eu/bouger-se-divertir/le-dynamisme-culturel/les-musees-de-clermont-auvergne-metropole/marq-musee-dart-roger-quilliot/, パブリック・ドメイン, リンクによる

しかしカトリーヌとシャルルにとって深刻だったのが、フランス国内の宗教対立問題カルヴァン派と呼ばれるユグノー(新教)とカトリック(旧教)との対立が国内でくすぶることに。この対立はユグノー戦争と呼ばれています。この戦争の解決のために、カトリック信者の娘マルグリットとプロテスタントのアンリを結婚させ事態の収束を図ろうとしたカトリーヌ。ちなみにこのアンリが宙返りのアンリという異名を持つ、アンリ4世。

ところが2人の結婚式では、祝福に訪れていたプロテスタント達をカトリック勢が襲撃。このサンバルテルミの虐殺によってプロテスンタントの犠牲者は4000人とも言われています。またこの虐殺をきっかけにフランス全土に戦争が波及していく事態に。

4-4 最愛の息子、アンリ3世が即位

サンバルテルミの虐殺から数年で、シャルルが病死。次に冠を被ったのは、カトリーヌが最も溺愛していたアンリでした。ちなみにどれほどの溺愛ぶりかというと、カトリーヌはアンリのことを「愛しい目」と呼んでいたそう。そしてフランソワとシャルルの死は実は溺愛していたアンリに王冠を被せるためにカトリーヌが毒殺したのではないかという噂もあったそう。彼女の実家が薬を売っていたことから、どこか信憑性を感じますね。

さて即位したアンリですが、彼は女性に興味を示さなかった人物でした。そのためカトリーヌは世継ぎのため宮廷に美女を送り込みますが、子どもは生まれず。こうしてゆっくりとヴァロワ家の断絶が現実味を帯びてくることに。

4-5 3アンリの戦い

Jacques Clément.jpg
Frans Hogenberg - This image comes from Gallica Digital Library and is available under the digital ID btv1b8400864r/f1, パブリック・ドメイン, リンクによる

フランス国内の宗教戦争はいつしか有力者である3人のアンリの戦いとなることに。1人はヴァロワ家でカトリックの国王アンリ3世。アンリ3世と同様カトリックの有力貴族、ギーズ公アンリ。そしてプロテスタントのブルボン家アンリ。この三人の戦いは予想外の展開となることに。同じカトリック教徒のアンリ3世とギーズ公アンリが手を組み、ブルボン家のアンリを圧倒しました。ところがギーズ公アンリの活躍し、彼自身が王となることの野望を隠さなかったため、激怒したアンリ3世がギーズ公を暗殺。しかしギーズ公を亡き者にしたアンリ3世でしたが、彼もまたドミニコ会修道士による暗殺で命を落とすことに。ちなみにアンリ3世が暗殺される7か月前に悪女カトリーヌは亡くなりました。最愛の息子が亡くなるのを目にしなかったことはきっと彼女にとって良かったのかもしれませんね。

4-6 アンリが暗殺されヴァロワ家が断絶

アンリ3世の死によって断絶したヴァロワ朝。ではその後のフランスはどうなったのでしょうか。2人のアンリが亡くなったことで冠が回ってきたのは、プロテスタントのアンリ4世。アンリは国内を平定し、1598年にナントの王令を出しユグノー戦争を終結させました。余談ですが、アンリ4世の即位に難色を示したスペインのフェリペ2世の圧力によってアンリはプロテスタントからカトリックへ改宗してから即位したそう。その後またプロテスタントへ改宗したため、宙返りのアンリと呼ばれることに。

260年間フランスに君臨した王家

およそ260年もの間フランスに君臨し続けた名門ヴァロワ家。当時の覇者でヨーロッパの多くを支配下に治めたハプスブルク家のカルロス1世に挑んだフランソワ1世。またそのフランソワによって嫁ぐことが決まったカトリーヌ・ド・メディシス。そして夫アンリ2世が事故で亡くなると、息子たちを次々に王とし実権を掌握。しかし国内で起こる宗教問題でサンバルテルミの虐殺を引き起こし、最愛の息子がその後起こった3アンリの戦いで命を落とすことに。こうしてヴァロワ家は260年続いた歴史に幕を下ろしたのです。

また夫フランソワが早くに亡くなったため、フランスを去ったメアリ・ステュアート。そして自身のスキャンダルからイングランドで逃げ込み、最終的にはエリザベス1世によって処刑されることに。ヴァロワ家を紐解いていくと、当時のヨーロッパ情勢が見えてきますね。

" /> フランスの名門「ヴァロワ家」の有名な人物たちを歴女が5分でわかりやすく解説! – Study-Z
フランスヨーロッパの歴史世界史歴史

フランスの名門「ヴァロワ家」の有名な人物たちを歴女が5分でわかりやすく解説!

今回はフランスの名門ヴァロワ家についてです。

ヴァロワ家はもともとフランスのカペー朝の傍流だったんですが、カペー朝が断絶したためヴァロワ家のフィリップ6世が即位したことから始まったんです。

そこで今回はヨーロッパの歴史に詳しい歴女のまぁこが厳選したヴァロワ家のフランソワ1世、フランソワ2世の妃だったメアリ・ステュアート、悪女として知られるカトリーヌ・ド・メディスの3人の生涯について取り上げていきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にハプスブルク家やブルボン家、イギリスの王家などに興味があり関連書を読み漁っている。今回はフランスのヴァロワ家について解説していく。

1 ヴァロワ家とは?

image by iStockphoto

ヴァロワ家とは、フランスの名門貴族です。ここではヴァロワ家がどのようにして歴史の表舞台に躍り出たのか、また歴代で有名なヴァロワ家の人物たち3人を解説していきます。

1-1そもそもヴァロワ家とは?

そもそもヴァロワ家とは一体どんな一族だったのでしょうか。ヴァロワ家とはフランスの王家。もともとはフランスのカペー朝の傍流だったヴァロワ家。1328年にカペー朝シャルル4世が亡くなったことからヴァロワ家のフィリップ6世がヴァロワ王朝の初代王となることに。しかしフィリップは三部会の推薦により選ばれたため「拾われっ子の王」と揶揄されることに。そこへ王位継承権を主張してイングランドのエドワード3世百年戦争を起こし、戦争は1453年まで続くことに。

1-2 百年戦争後に王権が強化されていくヴァロワ朝

フィリップ6世は三部会の推薦で選ばれた王だったため当初は王権が弱く、百年戦争では王権強化に苦心することに。しかしながらシャルル7世の時に百年戦争に勝利し、そこから王権強化に努めるようになりました。特に16世紀になると、フランソワ1世イタリアの覇権をめぐってカルロス1世と刃を交えることに。そしてヴァロワ朝は1328年から最期の王、アンリ3世が暗殺される1589年までの間に13代の王を輩出しました。それでは、このヴァロワ家から歴女まぁこが厳選した人物3人の生涯に触れながら解説していきますね。

2 フランソワ1世

フランソワ1世は16世紀のフランス王。彼はハプスブルク家のカルロス1世(カール5世でもある)と対立し、度々争ったことでも知られる人物です。また文化の保護も行い、巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスへ招いたことも。それでは彼とカルロス1世の対決を解説していきますね。

2-1 神聖ローマ皇帝に立候補

1519年に前帝が亡くなると、次の皇帝の選挙が始まることに。この時に有力な候補者として名が挙がったのは、イギリス王ヘンリー8世スペイン王カルロス1世、そしてフランス王フランソワ1世でした。この選挙はカルロス1世とフランソワ1世の一騎打ちになることに。ちなみに選定方法はなんと金銭。この争いでは、カルロス1世が豪商として有名なフッガー家などから多額の借金をして帝位を得ることに。

しかしなぜフランソワ1世は神聖ローマ皇帝に立候補することにしたのでしょうか。それは、ハプスブルク家を脅威に感じていたため。ハプスブルク家は、スペインやドイツ、ネーデルラント(現在のベルギーやオランダ、また北フランスの一部などのエリア)など多くの領土を手にしており、フランスはその領土に囲まれたのです。こうしてフランソワとカルロス1世の対決は続くことに。

\次のページで「2-2 パヴィアの戦いで敗北」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: