今回は、16世紀のフランス国王アンリ4世が出したナントの勅令(ちょくれい)についてです。これは当時フランス国内で起こった宗教戦争であるユグノー戦争が終結するきっかけになったんです。

今日はナントの勅令が出されるきっかけとなったユグノー戦争、ナントの勅令後の国王アンリについて歴女のまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女のまぁこ。特にヨーロッパの王室に興味があり、関連書を愛読している。今回はブルボン朝アンリ4世が出したナントの勅令が出された経緯、その後について詳しく解説する。

1 ユグノー戦争

image by iStockphoto

ナントの勅令を出したことで知られるアンリ4世。彼は1589年にブルボン朝を開き、ブルボン朝の初代王となることに。ここではナントの勅令を出すきっかけとなったユグノー戦争について解説していきます。

1-1 ヴァロワ朝が君臨していたフランス

アンリ4世がブルボン朝を開く前には、フランスはヴァロワ朝という王朝でした。1328年から1589年まで続いた王朝で、アンリ2世が槍試合の事故死によって息子のフランソワ、シャルル、アンリが次々に王を継承していくことに。その時に側で支えたのが、アンリの妃であり王たちの母であったカトリーヌ・ド・メディシス。カトリーヌは摂政として政治に介入することに。ちなみに彼女はフェレンツェの大富豪、メディチ家出身。そしてフランス王アンリ2世のもとへ嫁いだ際に、ナイフやフォークなどの食器や香水を持ち込んだ人物として知られています。

1-2 サンバルテルミの虐殺

16世紀のフランス国内では、カトリック教徒(旧教徒)と新教徒と呼ばれるプロテスンタントの宗教対立が起こることに。この対立は1562年の流血事件によってユグノー戦争へと発展。

カトリーヌはこの戦争を終結させるために、カトリック教徒の自身の娘マルグリットと新教徒で有力者のブルボン家アンリを結婚させることに。こうして2人の結婚式に起こった凄惨な事件がサンバルテルミの虐殺。この虐殺ではパリだけで4000人もの人々が犠牲となり、その中にプロテスタントの有力者コリニー提督らもいたそう。更にこの虐殺はパリのみでなく、国内全土に波及し更に犠牲者は数万人とも言われています。このサンバルテルミの虐殺の黒幕には、なんとカトリーヌだったという説も。

1-3 3アンリの戦いへ

サンバルテルミの虐殺の際に、結婚式を挙げたブルボン家のアンリ。彼はその後カトリックに改宗させられ、宮廷に4年も軟禁されることに。その後は脱出し、再びプロテスンタントへ。ちなみにアンリが4世として国王を名乗った後も改宗したため、宙返りのアンリというあだ名がつけられました。

サンバルテルミの虐殺から2年後、シャルル9世は死去。このため次の国王としてポーランド王に選出されていたカトリーヌの3男、アンリが即位しました。こうしてユグノー戦争の行方は、新たに国王となったアンリ3世、有力なカトリックのギーズ公アンリ、そして新教のブルボン家アンリという3人のアンリの争いとなることに。3人のアンリが争ったことから、この戦いは3アンリの戦いと呼ばれます。

1-4 ギーズ公の暗殺

3アンリの戦いは、カトリックの国王アンリとギーズ公アンリの2人が協力してブルボン家のアンリを攻めました。そして実戦で名声を得たギーズ公アンリが野心を隠そうとしませんでした。これに国王アンリが激怒。国王はギーズ公を呼び寄せ、待機させていた親衛隊たちに暗殺されることに。ところがアンリ3世もまた暗殺者の手によって命を落とすことに。カトリーヌがこの世を去って7か月後に、アンリの元にドミニコ会修道士クレマンが訪れます。しかし彼は親書を取り出すフリをして、懐から短剣を取り出して国王に襲い掛かりました。こうしてアンリ3世も暗殺され、約260年間続いたヴァロワ朝が幕を下ろすことに。

1-5 ブルボン家アンリが即位

HenriIV.jpg
http://www.tudorplace.com.ar/images/French/HenriIV.JPG, パブリック・ドメイン, リンクによる

カトリックのライバルの2人が次々暗殺によって亡くなり、ブルボン家のアンリに王冠が回ってくることに。1589年にアンリはアンリ4世として王位宣言。しかし彼の即位はフランス国内の2割ほどのプロテスタントしか承認しませんでした。このため、アンリ4世は国王にも関わらずパリへ入城することができず。更にカトリック勢力がアンリの叔父がカトリック教徒だったことから、叔父を新王としたため国王が2人いる状態に。そこでアンリは武力行使で制圧していくことに。

2 再び改宗することになったアンリ4世

ライバルだったギーズ公アンリは国王アンリ3世によって暗殺。更にその後アンリ3世は修道士によって暗殺されたため、ブルボン家のアンリは冠を被ることになりました。こうして彼は1589年にブルボン朝を開いて初代国王を名乗りますが、これを承認したのは国内で2割ほどのプロテスンタントのみ。その後彼はナントの勅令を出すまでにどんな軌跡を辿ったのか見ていきましょう。

\次のページで「2-1 フェリペの妨害」を解説!/

2-1 フェリペの妨害

国王と宣言してから順風満帆とは言えないスタートを切ったアンリは、ようやく国内を平定することに成功しました。しかし次は国外からの干渉に苦しめられることに。スペインのフェリペ2世の登場です。フェリペはカトリックの守護者を自負しており、隣の国であるフランスの国王がプロテスタントとなったことに危機感を感じました。そこで彼は3番目の妃だったエリザベートがアンリ2世とカトリーヌの娘だったことから、自身の娘をフランス女王にと干渉することに。これに対してアンリはイングランドからの援助を受けて退けました。しかしアンリ自身がプロテスンタントのままだと国内が安定しないことから、アンリは改宗を決意。こうして彼はカトリック宣言しました。

2-2 ナントの勅令を公布

Edit de nantes.jpg
Henry IV of France. - This picture from the French Assemblée Nationale website. Archives nationales, musée de l'Histoire de France, AEII 763, supplément du Trésor des Chartes., パブリック・ドメイン, リンクによる

1598年にアンリ4世はナントの勅令を出すことに。ではこの勅令の内容はどのようなものだったのでしょうか。この勅令では、プロテスタントらの信仰の自由が保障されて公職に就けるなどの権利が認められることに。しかしカトリックの祝日の尊守すること、礼拝についてはパリ及び宮廷所在地ではできず定められた場所でしかできないという制限がつきました。

このナントの勅令によってプロテスタント側には信仰の自由をもたらし、一方カトリック側からみればプロテスンタントに対して一部の制限を付けたことで両者が納得する形を取ることに成功。こうしてアンリはユグノー戦争を終結させました。

2-3 マリー・ド・メディシスとの再婚

国内を安定させ、初代王となったアンリ4世。ちなみに彼には宙返りの他に色事師というあだ名が。これは多くの愛人を囲っていたことから。そして特に寵愛していたのが、ガブリエル・デストレ。アンリはサンバルテルミの虐殺で、カトリック教徒のマルグリットと結婚していましたが夫婦仲は冷え切っていました。そのため、自身の子を3人も生んだガブリエルと再婚するためマルゴに離婚を提案。ところがガブリエルが突然死してしまうことに。彼女の死後にマルゴは多額の年金をもらうことで離婚に合意。独身となったアンリは持参金目当てで、メディチ家出身のマリー・ド・メディシスを妃として迎えることに。

2-4 暗殺されたアンリ

マリーと結婚して10年目のことでした。アンリはドイツ遠征のため、留守にしている間を妃マリーに任せるためサン・ドニ聖堂で彼女の戴冠式を行うことに。そしてその翌日、臣下との会見のため、ルーブル宮殿を馬車で離れることに。しかしなぜか衛兵隊の護衛はついてこず、それどころか従者らは騎馬だったのにアンリの馬車から次第に離れていくことに。そして馬車は細い通りを通ろうとした際に、2台の荷馬車が行く手を阻みました。これを馬車の従者がどかそうとした時に悲劇が。なんと突然現れた男が短剣でアンリを暗殺したのです。56歳でした。こうしてナントの勅令を出し、ユグノー戦争を終結させた国王は帰らぬ人となることに。

\次のページで「2-5 ルーベンスによる「マリーのマルセイユ上陸」」を解説!/

2-5 ルーベンスによる「マリーのマルセイユ上陸」

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ピーテル・パウル・ルーベンス - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる

さて、余談ですがアンリ4世の再婚相手となったマリーについて。マリーは3男3女に恵まれることに。彼女は27歳の時にアンリのもとへ嫁いできました。その時の様子をマリーは巨匠ルーベンスに依頼して描かせ、更にマリー・ド・メディシスの生涯というタイトルで20もの作品を描かせることに。

この画像は「マリーのマルセイユ上陸」。マリーがガレー船から多くの従者と共にマルセイユへ到着した様子が描かれていますね。しかしここでひときわ目を引くのが、ヒロインではなく画面下で海の中で船を引く裸体のニンフたち。更にニンフだけではなく、ポセイドンやほら貝を吹いているトリトンもいます。またマリーを出迎えているのは人ではなく擬人像。フランスの紋章である百合が描かれた青いマントから彼はフランスの擬人で、その隣の女性はマルセイユの擬人。とてもドラマティックな仕上がりとなっていますね。

2-5 ルイ14世、ナントの勅令を廃止

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Henri-Paul Motte - Musée d'Orbigny Bernon, パブリック・ドメイン, リンクによる

アンリ4世が56歳でこの世を去った後もナントの勅令はそのまま廃止になることなく続いていました。フランスはカトリック国でしたが、ナントの勅令によって国内で2つの宗教が認められる状態に。しかしプロテスンタント側にとってカトリックよりも勅令は不平等な内容だったため、一部では新教からの抵抗が続くことに。これに対してルイ13世リシュリューはプロテスンタントらを弾圧。またその次の王、ルイ14世の時代になると1685年にナントの勅令は廃止されることに。この廃止によって多くのプロテスンタントらは、フランスから世界(英国、米国、オランダ、スイス、ドイツ)へと亡命することに。

ナントの勅令によってユグノー戦争が終結

ユグノー戦争の終結を図るため、アンリ4世によって公布されたナントの勅令。これによって制約はありましたが、プロテスンタントの信仰の自由が認めれれることに。そのため、アンリ4世は歴代のフランス王の中でも善王と呼ばれ、人気のある国王の1人として数えられています。しかしそんなアンリ4世も、改宗した後、狂信的なカトリック教徒に暗殺されることに。その後のフランスは、国家統一を進めるためにプロテスタントを弾圧しました。特にルイ14世の時には、フォンテーヌブロー勅令を発布し、ナントの勅令は廃されることに。こうしてフランス国内のプロテスンタントらは国外へ亡命ししたため、国内の産業は衰退することになりました。

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フランスブルボン朝ヨーロッパの歴史世界史歴史

アンリ4世はなぜ「ナントの勅令」を出したのか?その経緯やその後のフランスについて歴女がわかりやすく解説!

今回は、16世紀のフランス国王アンリ4世が出したナントの勅令(ちょくれい)についてです。これは当時フランス国内で起こった宗教戦争であるユグノー戦争が終結するきっかけになったんです。

今日はナントの勅令が出されるきっかけとなったユグノー戦争、ナントの勅令後の国王アンリについて歴女のまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女のまぁこ。特にヨーロッパの王室に興味があり、関連書を愛読している。今回はブルボン朝アンリ4世が出したナントの勅令が出された経緯、その後について詳しく解説する。

1 ユグノー戦争

image by iStockphoto

ナントの勅令を出したことで知られるアンリ4世。彼は1589年にブルボン朝を開き、ブルボン朝の初代王となることに。ここではナントの勅令を出すきっかけとなったユグノー戦争について解説していきます。

1-1 ヴァロワ朝が君臨していたフランス

アンリ4世がブルボン朝を開く前には、フランスはヴァロワ朝という王朝でした。1328年から1589年まで続いた王朝で、アンリ2世が槍試合の事故死によって息子のフランソワ、シャルル、アンリが次々に王を継承していくことに。その時に側で支えたのが、アンリの妃であり王たちの母であったカトリーヌ・ド・メディシス。カトリーヌは摂政として政治に介入することに。ちなみに彼女はフェレンツェの大富豪、メディチ家出身。そしてフランス王アンリ2世のもとへ嫁いだ際に、ナイフやフォークなどの食器や香水を持ち込んだ人物として知られています。

1-2 サンバルテルミの虐殺

16世紀のフランス国内では、カトリック教徒(旧教徒)と新教徒と呼ばれるプロテスンタントの宗教対立が起こることに。この対立は1562年の流血事件によってユグノー戦争へと発展。

カトリーヌはこの戦争を終結させるために、カトリック教徒の自身の娘マルグリットと新教徒で有力者のブルボン家アンリを結婚させることに。こうして2人の結婚式に起こった凄惨な事件がサンバルテルミの虐殺。この虐殺ではパリだけで4000人もの人々が犠牲となり、その中にプロテスタントの有力者コリニー提督らもいたそう。更にこの虐殺はパリのみでなく、国内全土に波及し更に犠牲者は数万人とも言われています。このサンバルテルミの虐殺の黒幕には、なんとカトリーヌだったという説も。

1-3 3アンリの戦いへ

サンバルテルミの虐殺の際に、結婚式を挙げたブルボン家のアンリ。彼はその後カトリックに改宗させられ、宮廷に4年も軟禁されることに。その後は脱出し、再びプロテスンタントへ。ちなみにアンリが4世として国王を名乗った後も改宗したため、宙返りのアンリというあだ名がつけられました。

サンバルテルミの虐殺から2年後、シャルル9世は死去。このため次の国王としてポーランド王に選出されていたカトリーヌの3男、アンリが即位しました。こうしてユグノー戦争の行方は、新たに国王となったアンリ3世、有力なカトリックのギーズ公アンリ、そして新教のブルボン家アンリという3人のアンリの争いとなることに。3人のアンリが争ったことから、この戦いは3アンリの戦いと呼ばれます。

1-4 ギーズ公の暗殺

3アンリの戦いは、カトリックの国王アンリとギーズ公アンリの2人が協力してブルボン家のアンリを攻めました。そして実戦で名声を得たギーズ公アンリが野心を隠そうとしませんでした。これに国王アンリが激怒。国王はギーズ公を呼び寄せ、待機させていた親衛隊たちに暗殺されることに。ところがアンリ3世もまた暗殺者の手によって命を落とすことに。カトリーヌがこの世を去って7か月後に、アンリの元にドミニコ会修道士クレマンが訪れます。しかし彼は親書を取り出すフリをして、懐から短剣を取り出して国王に襲い掛かりました。こうしてアンリ3世も暗殺され、約260年間続いたヴァロワ朝が幕を下ろすことに。

1-5 ブルボン家アンリが即位

HenriIV.jpg
http://www.tudorplace.com.ar/images/French/HenriIV.JPG, パブリック・ドメイン, リンクによる

カトリックのライバルの2人が次々暗殺によって亡くなり、ブルボン家のアンリに王冠が回ってくることに。1589年にアンリはアンリ4世として王位宣言。しかし彼の即位はフランス国内の2割ほどのプロテスタントしか承認しませんでした。このため、アンリ4世は国王にも関わらずパリへ入城することができず。更にカトリック勢力がアンリの叔父がカトリック教徒だったことから、叔父を新王としたため国王が2人いる状態に。そこでアンリは武力行使で制圧していくことに。

2 再び改宗することになったアンリ4世

ライバルだったギーズ公アンリは国王アンリ3世によって暗殺。更にその後アンリ3世は修道士によって暗殺されたため、ブルボン家のアンリは冠を被ることになりました。こうして彼は1589年にブルボン朝を開いて初代国王を名乗りますが、これを承認したのは国内で2割ほどのプロテスンタントのみ。その後彼はナントの勅令を出すまでにどんな軌跡を辿ったのか見ていきましょう。

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