幕末日本史歴史江戸時代

幕末に活躍した多くの人材を輩出した「適塾」緒方洪庵の蘭学塾について歴女がわかりやすく解説

3-6、洪庵先生が可愛がった福沢諭吉

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福沢諭吉は、後に慶應義塾を創設する、適塾では塾頭にもなった優秀な人。洪庵先生は特に可愛がっていたが、諭吉は適塾時代に腸チフスにかかったとき、洪庵先生は自分が診ると気持ちが入るからと別のお医者さんに頼んで診てもらい、看病だけしたということ。医者といえども身内の診察は苦手なものなのですが、情に篤い洪庵先生がいかに諭吉を可愛がっていたかということがわかりますよね。もちろん諭吉は洪庵先生に看病してもらったことを終生感謝していたということ。

また福沢が横浜へ行き、英語とフランス語の看板も読めずショックを受けたときも、洪庵先生はこれからは英語だと言い、福沢が咸臨丸でアメリカへ行き、ウェブスターの辞書を買って帰るのを楽しみに待っていたということで、オランダ語に固執せず、最新の知識を得ようと考える洪庵先生の柔軟な考え方がしのばれる逸話かも。

3-7、曾孫が有名になった手塚良仙

適塾で学ぶよりも遊郭通いばかりしているので、塾頭の福沢諭吉にいじられるという「福翁自伝」の「遊女の贋手紙」での話で有名な人だが、曾孫の手塚治虫の方が有名に。曽孫は手塚良仙が主人公のひとりの歴史漫画「陽だまりの樹」も執筆したそう。

4、その後の適塾

明治2年(1869年)、現在の大阪市天王寺区上本町4丁目に大阪仮病院、医学校が設立され、洪庵の次男惟準(これよし)を院長に娘婿の拙斎、洪庵の義弟郁蔵、塾生らが従事することになり、その後、幾多の変遷を経て、大阪帝国大学医学部、大阪大学へと発展し引き継がれているということ。

適塾の遺構は、保存顕彰のために大阪大学に寄贈されたが、奇跡的に太平洋戦争の戦災も免れ、昭和39年(1964年)に国の重要文化財に指定。そして老朽化に伴い5年に及ぶ解体修復工事が行われた後、大阪大学の管理、運営で昭和55年(1980年)から一般公開され内部も参観可能に。

色々な分野に多くの人材を輩出したユニークでレベルの高い塾

適塾は蘭学医の緒方洪庵先生が、診療所と共に門下生に蘭学を教えるために始めた塾ですが、天保9年に開塾以来25年間で3000人が学んだという大変な盛況となり、歴史に名を残す人が続々と輩出しました。

それも蘭学医を育てるはずが、時代の求めに応じて、越前福井藩の英才橋本左内をはじめ、兵学者から官軍の総司令官になった大村益次郎、慶應義塾の創設や「学問のすすめ」などの啓発本の著者福沢諭吉、日本赤十字社初代総裁の佐野常民、五稜郭まで戦い明治政府でも大鳥圭介など多種多彩な人材が育ったというのも、適塾のユニークで厳しい切磋琢磨した勉学の日々と、洪庵先生の柔軟な考え方の影響では。明治維新という革命期において、洪庵先生と適塾の果たした役割は決して忘れられないでしょう。

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