幕末日本史歴史江戸時代

幕末に活躍した多くの人材を輩出した「適塾」緒方洪庵の蘭学塾について歴女がわかりやすく解説

3-2、洪庵先生も及ばないと感心した橋本左内

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

越前福井藩の藩医の息子で、藩の命令で適塾に入塾したのですが、医者は賤業と公言して嫌っていたということ。これは要するに家業を継ぐのが当たり前という風潮に反発していたと思うのですが、左内は適塾門下生の頃、洪庵先生の教えに感化されたのか、夜中にこっそり抜け出して、ホームレスの人たちのところへ行き無料診療活動をし、出産にも立ち会ったそう。洪庵先生はこのことを聞き、左内は今は友人だが、将来は手の届かない偉い人になると感心したということ。

左内はその後、越前福井藩主松平春嶽のアドバイザーとなり藩政改革などを成功させ、将軍継嗣問題なども積極的にプッシュしたせいで、安政の大獄で井伊直弼に睨まれて逮捕され、藩主の命令でやったと正直に言ったのが、主君をかばわないのかと井伊の気に触り、遠島のはずが処刑されたということ。左内は25歳だったし、ある意味正直すぎで世渡りを誤ったような気が。

3-3、弟より秀才の呼び声もある久坂玄機

長州藩医きっての俊英で、20歳年少の弟の玄瑞にも大きな影響を与えた人。
弘化4年(1847年)6月に、適塾に客分の処遇で籍を置き翌年3月に塾頭になったが、その翌年に藩命で召喚されて好生館の都講になり、長州藩初の藩内種痘実施の際には引痘主任として、藩下の種痘を組織的に行い、好生館の書物方兼任で、最年少(31歳)の本道(内科のこと)科教授になったということ。

また西洋軍事学に関する藩内の評価も高く、藩命で、「演砲法律」「銃隊指揮令」「新撰海軍砲術論」「和蘭陀紀略内編」「抜太抜亜志」「新訳小史」など数多くの翻訳も手掛け、海防についても藩政府から意見具申を求められたが、病床で藩主毛利敬親に上書建白した数日後に35歳で死去。

3-4、大村益次郎は子守が上手

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敵塾生当時は村田良庵という名だった後の大村益次郎は、長州出身の村医者の息子でありましたが、不愛想で時候の挨拶も出来ないコミュ障害でアスペルガー症候群の疑い濃厚な人。入塾後1年ほどで長崎に遊学し、帰塾後塾頭になったほど優秀で、オランダ語の訳し方も的確だったと言われていますが、塾生とはあまり親しくせず、ひとりで物干し台で豆腐を肴に酒を飲む程度だったということ。しかし意外なことに、洪庵のまだ小さい息子(後の緒方惟準)をおぶったりと子守を買って出て、子供に懐かれたという話が残っているんですね。

3-5、井上馨を救った所郁太郎

美濃国赤坂出身で、適塾で2年学んだ後、京都で医師として開業したが、近所の長州藩邸があったために長州藩士と付き合いが深くなり、桂小五郎(木戸孝允)の推挙で長州藩邸医員総督となって、長州藩領で開業。

元治元年(1864年)に井上聞多(馨)が刺客に襲われて瀕死の重傷を負ったとき、所が駆けつけて畳針で50針縫って縫合したおかげで、井上は一命をとりとめたことで有名に。明治になって東大医学部教授のベルツ博士が井上馨を診察時にその傷跡の大きさを見て、良く生き永らえたと日記に書いていたほど。所はその後、奇兵隊に参加したが、すぐに腸チフスで亡くなり、明治後に井上が顕彰碑を建てるのに奔走したそう。

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