幕末日本史歴史江戸時代

幕末に活躍した多くの人材を輩出した「適塾」緒方洪庵の蘭学塾について歴女がわかりやすく解説

2-2、蘭学医に限らず、色々な才能を持った人が輩出した

適塾出身者は蘭学医になった人ばかりではなく、福沢諭吉や大村益次郎、大鳥圭介などは、オランダ語の本を読んで得た知識で他の分野で活躍。これは適塾では、オランダ語を身に付けて色々な本を読み解く、また的確な翻訳が出来るようになるための指導が基本だったということでしょう。

また洪庵先生は、長崎の海軍伝習所でオランダ医のポンペ・ファン・メーデルフォールトが来て日本初の体系的なオランダ医学を教授していると聞くと、これからはそちらへ行けと弟子や息子を学ばせたし、福沢諭吉がこれからはどうも英語の時代だと言うと、納得して適塾でも英語を教えるという柔軟な考え方を持った人で、門下生たちが色々な分野で活躍することを望んでいたそう。

適塾の名前には塾生それぞれに適した学問を身に付けるという意味もあり、適塾で必死で塾生が競い合ってオランダ語の本を正しく解読するために勉強するというのは、丸暗記とか表面的な薄っぺらな知識を得るだけではなかったということにつながるのでは。

2-3、適塾の教授法

それまでの日本では、剣術などであるような免許皆伝とか門外不出、師匠直伝とかいった教授法が主流で、住み込みで弟子入りしても、何年も下働きをさせるばかりで何も教えなかったり、塾生の自治に任せて単なる書生のたまり場になっているようなところもあったということですが、適塾では徹底した合理的な教え方だったということ。

当時の適塾でのオランダ語文法のテキストは、「ガランマチスカ」と「セインタキス」という文典で、この2冊が理解できるまで塾生は会読には参加できないシステム。塾生は学力に応じて約10クラスに分けられ、それぞれのレベルで10~15名が学んだそう。それに会読の予習時に、他の入塾生への質問や相談はだめだったので、ひたすらひとりで勉学に励むことに。そして月に6回「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて塾頭、塾監、1等生が会頭となって各々の成績を、「○」・「●」・「△」で採点する制度で、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進むことになっていたそう。

尚、会読や輪講は、塾頭や塾監が行い、洪庵先生は塾頭や塾監、最上級生にだけ講義をしたということ。

読解に必要な蘭和辞書は「ヅーフ・ハルマ」の写本が1冊だけで、6畳の「ヅーフ部屋」に置かれていて持ちだし禁止。「ヅーフ・ハルマ」は、長崎のオランダ商館長ヘンドリック・ヅーフがフランソワ・ハルマ著の蘭仏辞書を日本語に訳した手書きのもので、たいへん希少価値のある貴重なものだったということ。塾生たちはそれを奪い合いように利用、ヅーフ部屋の明かりは終日絶えなかったということ。

語学ばかりでなく、福沢諭吉によれば、化学実験も行ったとか、解剖実習もあったそう。

2-4、適塾の構造

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適塾は、間口約12メートル、奥行約39メートルの敷地に建つ2階建と平屋建が中庭で結ばれた表屋造り。1階奥が洪庵の家族の居住空間、1階の2間と2階の女中部屋と6畳(ズーフ部屋)と8畳の小部屋、28畳の塾生大部屋が、塾生の勉学と寝場所だったということ。正面入口を入ると土間と式台のある玄関の間があり、そこから続く6畳の和室2間はオランダ語の読み合わせなどをする教室だったということ。

大部屋には住み込みの塾生たちが寝起きしていたが、ひとりに畳一枚が割り当てられ、それぞれその中に机を置いて勉強し、入塾すると暗い隅っこがあてがわれて、成績が良くなるとだんだんと明るく居心地の良い場所に移動できて、成績が落ちるとまた暗い場所に戻るというシステムだったということ。

2-5、住み込み塾生の食生活

「花神」によれば、飯の時間になると塾生たちは台所と土間の狭いところで立って食べたということ、1と6の日はねぎとさつまいもの難波煮、5と10の日が豆腐汁、3と8の日がシジミ汁とメニューも決まっていたのは、大坂の商家と同じかも。

また入塾の際には、洪庵先生に金二百疋の束脩入学料をおさめ、塾頭に金2朱、塾生一同にも2朱、夫人に白扇3本と金2朱、女中たちに銅200文を渡すことになっていたそう。

2-6、洪庵夫人の存在感も大

適塾開塾の年に洪庵先生と結婚したとき洪庵先生は29歳で八重夫人は17歳。八重夫人は9人の子供を育てつつ洪庵先生をささえ、さらに塾生たちからは母のように慕われていた適塾の陰の功労者ということ。

3-1、門下生のエピソード

適塾には、現在も門下生の自筆の姓名録が残っていて、弘化元年(1844年)から文久2年(1862年)まで、636名の姓名と入門年と出身地が記載されているということ。現在の都道府県での出身地別で分けると、山口県が56名と最多で、洪庵先生の出身地の岡山県が46名で2番目、大阪府は19名などで、青森県と沖縄県を除き、北海道から鹿児島県まで全国から入門者が集まったそう。

洪庵先生の亡くなった後も、福沢諭吉と大鳥圭介が中心となり、6月10日と11月10日を記念日として毎年親睦会を開き、長与専斎や佐野常民など、同門の人物はほとんど参加していたということ。

適塾では厳しく激しい競争で、みんな必死で勉強したということなんですが、個性的な人も多く、色々なエピソードがあります。

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