今回は適塾を取り上げるぞ。緒方洪庵先生の起こした塾で、橋本左内や大村益次郎や福沢諭吉とか、続々と人材が出たんです、この塾について詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の蘭学者や偉人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、適塾について5分でわかるようにまとめた。

1-1、適塾は蘭学者の緒方洪庵が開塾

適塾は蘭学医の緒方洪庵が、天保9年(1838年)に開いた私塾で、正式には「適々斎塾」。これは洪庵の号からとったということ。幕末、明治維新、明治時代に活躍した橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉ら逸材が続々と輩出したことで有名。

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不明 - Mishima Y. The dawn of surgery in Japan, with special reference to the German society for surgery. Surg Today. 36, 5, 395-402. 2006. doi:10.1007/s00595-005-3157-6. PMID 16633743., パブリック・ドメイン, リンクによる

緒方洪庵とは
緒方洪庵は、文化7年(1810年)に岡山足守藩士の3男として誕生。子供の頃は病弱なためと近隣にコレラが流行して多くの人が亡くなったことで医師を志し、大坂に出て中天游の私塾「思々斎塾」に入門後、江戸へ出て坪井信道に、さらに宇田川玄真にも入門し、天保7年(1836年)、長崎で出島のオランダ人医師ニーマンのもとでも医学を学んだということ。

そして天保9年(1838年)春に大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業と同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開塾。同年、天游門下の先輩億川百記の娘八重と結婚して6男7女が誕生。

弘化2年(1845年)、塾生の増加に伴い、過書町(現在の大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し移転。洪庵は幕府の奥医師に請われて江戸に赴くまで17年間、医業のかたわら塾生の指導に。洪庵は適塾の指導とともに最新の医療の知識を紹介するため多くの蘭書を翻訳、著書をあらわたが、「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」「扶氏経験遺訓」などが有名。また、牛痘種痘法を広めるため、嘉永2年(1849年)、大坂古手町(現・中央区道修町)に除痘館を設立、無償で種痘を普及したなどの業績も。

1-2、適塾の開塾は25年間

適塾は天保9年(1838年)に開塾後、文久2年(1862年)に洪庵が奥医師となって江戸へ下った後は女婿の緒方拙斎が引き継ぎ、文久3年(1863年)に洪庵が江戸で急死した後、明治元年(1868年)に閉鎖。この25年間で、およそ3000人の入門生があったということ。

1-3、適塾繁栄の背景

封建時代であった江戸時代は、本人に能力があっても生まれた身分制度の枠にはまると能力が発揮できないシステムでしたが、士農工商のどの身分に生まれた人でも、医師や学者、僧侶、また剣術指南などの道を究めると出世できるという、身分制度の方外(ほうがい)という、抜け道がありました

そしてこの頃は医師国家試験がなく、患者さんが来るかは別として誰でも医師になれたという時代でもあり、ある程度能力を持った人材は、蘭学を勉強すると出世できる、ただし、蟹のはったような文字(横文字)は難しい、江戸っ子や大阪などの都会っ子には向いていない、根気のいる学問という見方がされていたということ。

そして嘉永6年(1858年)にペリーの黒船来航後開国すると、洋式の大砲での国防や洋式軍隊の必要性にかられて、蘭学書が読める、翻訳が出来る蘭学者がこぞって幕府や各藩に必要とされる特需となり、適塾で学べば、文字通り高禄での出世が見込まれることとなったそう。

2-1、適塾の方針

しかしながら緒方洪庵先生は、出世したいと蘭学医になったのではなく、コレラで大勢亡くなる人をみて助けたいという動機で医師を志した人。そういうわけで、洪庵先生はベルリン大学教授フーフェランドの926ページに及ぶ内科書2冊を翻訳し「扶氏経験遺訓」にまとめましたが、「医は人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本体とす」「病者に対しては唯病者を視るべし。貴賎貧富を顧みることなかれ」「同業の人に対してハ之を敬し、之を愛すへし」と「扶氏医戒之略」に戒め、これは医師としての本質を的確にとらえたものとして、いまでも医学倫理教育に頻用されているということ。

「花神」に、塾頭になった大村益次郎に対して山田某という塾生が、いよいよ300石ですなあと声をかけると、洪庵先生がニコニコとその塾生を呼び、ちょうど翻訳中だった「医は人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本体とす」の書かれた「扶氏経験遺訓」12章を清書させたというのが出てきますが、洪庵先生は決して塾生を叱らず、にこやかに諭すタイプで、「洪庵先生はほほえんだときこそ怖い」と噂したという話です。

また、「花神」では、大村が故郷の父から帰って来いと言われて帰ることになったときも、洪庵先生は大村の才能を惜しみ、大村も勉強を続けたいだろうし、長州の田舎で医者をするより才能を生かせる仕事がしたいだろうと思ったようですが、本人が自分は田舎で医者をすると言うと、洪庵先生はその言葉は清々しい、そうあるべきと納得したということ。

適塾ではとにかく勉強してオランダ語をものにし、色々な書物を読んで知識を得ることを目的に、立身出世やその後の人生を考えるべきではない、純粋にひたすら学問を習得すれば物事の理解力と判断力が養えると教えたということ。

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2-2、蘭学医に限らず、色々な才能を持った人が輩出した

適塾出身者は蘭学医になった人ばかりではなく、福沢諭吉や大村益次郎、大鳥圭介などは、オランダ語の本を読んで得た知識で他の分野で活躍。これは適塾では、オランダ語を身に付けて色々な本を読み解く、また的確な翻訳が出来るようになるための指導が基本だったということでしょう。

また洪庵先生は、長崎の海軍伝習所でオランダ医のポンペ・ファン・メーデルフォールトが来て日本初の体系的なオランダ医学を教授していると聞くと、これからはそちらへ行けと弟子や息子を学ばせたし、福沢諭吉がこれからはどうも英語の時代だと言うと、納得して適塾でも英語を教えるという柔軟な考え方を持った人で、門下生たちが色々な分野で活躍することを望んでいたそう。

適塾の名前には塾生それぞれに適した学問を身に付けるという意味もあり、適塾で必死で塾生が競い合ってオランダ語の本を正しく解読するために勉強するというのは、丸暗記とか表面的な薄っぺらな知識を得るだけではなかったということにつながるのでは。

2-3、適塾の教授法

それまでの日本では、剣術などであるような免許皆伝とか門外不出、師匠直伝とかいった教授法が主流で、住み込みで弟子入りしても、何年も下働きをさせるばかりで何も教えなかったり、塾生の自治に任せて単なる書生のたまり場になっているようなところもあったということですが、適塾では徹底した合理的な教え方だったということ。

当時の適塾でのオランダ語文法のテキストは、「ガランマチスカ」と「セインタキス」という文典で、この2冊が理解できるまで塾生は会読には参加できないシステム。塾生は学力に応じて約10クラスに分けられ、それぞれのレベルで10~15名が学んだそう。それに会読の予習時に、他の入塾生への質問や相談はだめだったので、ひたすらひとりで勉学に励むことに。そして月に6回「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて塾頭、塾監、1等生が会頭となって各々の成績を、「○」・「●」・「△」で採点する制度で、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進むことになっていたそう。

尚、会読や輪講は、塾頭や塾監が行い、洪庵先生は塾頭や塾監、最上級生にだけ講義をしたということ。

読解に必要な蘭和辞書は「ヅーフ・ハルマ」の写本が1冊だけで、6畳の「ヅーフ部屋」に置かれていて持ちだし禁止。「ヅーフ・ハルマ」は、長崎のオランダ商館長ヘンドリック・ヅーフがフランソワ・ハルマ著の蘭仏辞書を日本語に訳した手書きのもので、たいへん希少価値のある貴重なものだったということ。塾生たちはそれを奪い合いように利用、ヅーフ部屋の明かりは終日絶えなかったということ。

語学ばかりでなく、福沢諭吉によれば、化学実験も行ったとか、解剖実習もあったそう。

2-4、適塾の構造

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適塾は、間口約12メートル、奥行約39メートルの敷地に建つ2階建と平屋建が中庭で結ばれた表屋造り。1階奥が洪庵の家族の居住空間、1階の2間と2階の女中部屋と6畳(ズーフ部屋)と8畳の小部屋、28畳の塾生大部屋が、塾生の勉学と寝場所だったということ。正面入口を入ると土間と式台のある玄関の間があり、そこから続く6畳の和室2間はオランダ語の読み合わせなどをする教室だったということ。

大部屋には住み込みの塾生たちが寝起きしていたが、ひとりに畳一枚が割り当てられ、それぞれその中に机を置いて勉強し、入塾すると暗い隅っこがあてがわれて、成績が良くなるとだんだんと明るく居心地の良い場所に移動できて、成績が落ちるとまた暗い場所に戻るというシステムだったということ。

2-5、住み込み塾生の食生活

「花神」によれば、飯の時間になると塾生たちは台所と土間の狭いところで立って食べたということ、1と6の日はねぎとさつまいもの難波煮、5と10の日が豆腐汁、3と8の日がシジミ汁とメニューも決まっていたのは、大坂の商家と同じかも。

また入塾の際には、洪庵先生に金二百疋の束脩入学料をおさめ、塾頭に金2朱、塾生一同にも2朱、夫人に白扇3本と金2朱、女中たちに銅200文を渡すことになっていたそう。

2-6、洪庵夫人の存在感も大

適塾開塾の年に洪庵先生と結婚したとき洪庵先生は29歳で八重夫人は17歳。八重夫人は9人の子供を育てつつ洪庵先生をささえ、さらに塾生たちからは母のように慕われていた適塾の陰の功労者ということ。

3-1、門下生のエピソード

適塾には、現在も門下生の自筆の姓名録が残っていて、弘化元年(1844年)から文久2年(1862年)まで、636名の姓名と入門年と出身地が記載されているということ。現在の都道府県での出身地別で分けると、山口県が56名と最多で、洪庵先生の出身地の岡山県が46名で2番目、大阪府は19名などで、青森県と沖縄県を除き、北海道から鹿児島県まで全国から入門者が集まったそう。

洪庵先生の亡くなった後も、福沢諭吉と大鳥圭介が中心となり、6月10日と11月10日を記念日として毎年親睦会を開き、長与専斎や佐野常民など、同門の人物はほとんど参加していたということ。

適塾では厳しく激しい競争で、みんな必死で勉強したということなんですが、個性的な人も多く、色々なエピソードがあります。

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3-2、洪庵先生も及ばないと感心した橋本左内

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

越前福井藩の藩医の息子で、藩の命令で適塾に入塾したのですが、医者は賤業と公言して嫌っていたということ。これは要するに家業を継ぐのが当たり前という風潮に反発していたと思うのですが、左内は適塾門下生の頃、洪庵先生の教えに感化されたのか、夜中にこっそり抜け出して、ホームレスの人たちのところへ行き無料診療活動をし、出産にも立ち会ったそう。洪庵先生はこのことを聞き、左内は今は友人だが、将来は手の届かない偉い人になると感心したということ。

左内はその後、越前福井藩主松平春嶽のアドバイザーとなり藩政改革などを成功させ、将軍継嗣問題なども積極的にプッシュしたせいで、安政の大獄で井伊直弼に睨まれて逮捕され、藩主の命令でやったと正直に言ったのが、主君をかばわないのかと井伊の気に触り、遠島のはずが処刑されたということ。左内は25歳だったし、ある意味正直すぎで世渡りを誤ったような気が。

3-3、弟より秀才の呼び声もある久坂玄機

長州藩医きっての俊英で、20歳年少の弟の玄瑞にも大きな影響を与えた人。
弘化4年(1847年)6月に、適塾に客分の処遇で籍を置き翌年3月に塾頭になったが、その翌年に藩命で召喚されて好生館の都講になり、長州藩初の藩内種痘実施の際には引痘主任として、藩下の種痘を組織的に行い、好生館の書物方兼任で、最年少(31歳)の本道(内科のこと)科教授になったということ。

また西洋軍事学に関する藩内の評価も高く、藩命で、「演砲法律」「銃隊指揮令」「新撰海軍砲術論」「和蘭陀紀略内編」「抜太抜亜志」「新訳小史」など数多くの翻訳も手掛け、海防についても藩政府から意見具申を求められたが、病床で藩主毛利敬親に上書建白した数日後に35歳で死去。

3-4、大村益次郎は子守が上手

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敵塾生当時は村田良庵という名だった後の大村益次郎は、長州出身の村医者の息子でありましたが、不愛想で時候の挨拶も出来ないコミュ障害でアスペルガー症候群の疑い濃厚な人。入塾後1年ほどで長崎に遊学し、帰塾後塾頭になったほど優秀で、オランダ語の訳し方も的確だったと言われていますが、塾生とはあまり親しくせず、ひとりで物干し台で豆腐を肴に酒を飲む程度だったということ。しかし意外なことに、洪庵のまだ小さい息子(後の緒方惟準)をおぶったりと子守を買って出て、子供に懐かれたという話が残っているんですね。

3-5、井上馨を救った所郁太郎

美濃国赤坂出身で、適塾で2年学んだ後、京都で医師として開業したが、近所の長州藩邸があったために長州藩士と付き合いが深くなり、桂小五郎(木戸孝允)の推挙で長州藩邸医員総督となって、長州藩領で開業。

元治元年(1864年)に井上聞多(馨)が刺客に襲われて瀕死の重傷を負ったとき、所が駆けつけて畳針で50針縫って縫合したおかげで、井上は一命をとりとめたことで有名に。明治になって東大医学部教授のベルツ博士が井上馨を診察時にその傷跡の大きさを見て、良く生き永らえたと日記に書いていたほど。所はその後、奇兵隊に参加したが、すぐに腸チフスで亡くなり、明治後に井上が顕彰碑を建てるのに奔走したそう。

\次のページで「3-6、洪庵先生が可愛がった福沢諭吉」を解説!/

3-6、洪庵先生が可愛がった福沢諭吉

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en:User:PHG - en:Image:FukuzawaYukichi.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

福沢諭吉は、後に慶應義塾を創設する、適塾では塾頭にもなった優秀な人。洪庵先生は特に可愛がっていたが、諭吉は適塾時代に腸チフスにかかったとき、洪庵先生は自分が診ると気持ちが入るからと別のお医者さんに頼んで診てもらい、看病だけしたということ。医者といえども身内の診察は苦手なものなのですが、情に篤い洪庵先生がいかに諭吉を可愛がっていたかということがわかりますよね。もちろん諭吉は洪庵先生に看病してもらったことを終生感謝していたということ。

また福沢が横浜へ行き、英語とフランス語の看板も読めずショックを受けたときも、洪庵先生はこれからは英語だと言い、福沢が咸臨丸でアメリカへ行き、ウェブスターの辞書を買って帰るのを楽しみに待っていたということで、オランダ語に固執せず、最新の知識を得ようと考える洪庵先生の柔軟な考え方がしのばれる逸話かも。

3-7、曾孫が有名になった手塚良仙

適塾で学ぶよりも遊郭通いばかりしているので、塾頭の福沢諭吉にいじられるという「福翁自伝」の「遊女の贋手紙」での話で有名な人だが、曾孫の手塚治虫の方が有名に。曽孫は手塚良仙が主人公のひとりの歴史漫画「陽だまりの樹」も執筆したそう。

4、その後の適塾

明治2年(1869年)、現在の大阪市天王寺区上本町4丁目に大阪仮病院、医学校が設立され、洪庵の次男惟準(これよし)を院長に娘婿の拙斎、洪庵の義弟郁蔵、塾生らが従事することになり、その後、幾多の変遷を経て、大阪帝国大学医学部、大阪大学へと発展し引き継がれているということ。

適塾の遺構は、保存顕彰のために大阪大学に寄贈されたが、奇跡的に太平洋戦争の戦災も免れ、昭和39年(1964年)に国の重要文化財に指定。そして老朽化に伴い5年に及ぶ解体修復工事が行われた後、大阪大学の管理、運営で昭和55年(1980年)から一般公開され内部も参観可能に。

色々な分野に多くの人材を輩出したユニークでレベルの高い塾

適塾は蘭学医の緒方洪庵先生が、診療所と共に門下生に蘭学を教えるために始めた塾ですが、天保9年に開塾以来25年間で3000人が学んだという大変な盛況となり、歴史に名を残す人が続々と輩出しました。

それも蘭学医を育てるはずが、時代の求めに応じて、越前福井藩の英才橋本左内をはじめ、兵学者から官軍の総司令官になった大村益次郎、慶應義塾の創設や「学問のすすめ」などの啓発本の著者福沢諭吉、日本赤十字社初代総裁の佐野常民、五稜郭まで戦い明治政府でも大鳥圭介など多種多彩な人材が育ったというのも、適塾のユニークで厳しい切磋琢磨した勉学の日々と、洪庵先生の柔軟な考え方の影響では。明治維新という革命期において、洪庵先生と適塾の果たした役割は決して忘れられないでしょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末に活躍した多くの人材を輩出した「適塾」緒方洪庵の蘭学塾について歴女がわかりやすく解説

2-2、蘭学医に限らず、色々な才能を持った人が輩出した

適塾出身者は蘭学医になった人ばかりではなく、福沢諭吉や大村益次郎、大鳥圭介などは、オランダ語の本を読んで得た知識で他の分野で活躍。これは適塾では、オランダ語を身に付けて色々な本を読み解く、また的確な翻訳が出来るようになるための指導が基本だったということでしょう。

また洪庵先生は、長崎の海軍伝習所でオランダ医のポンペ・ファン・メーデルフォールトが来て日本初の体系的なオランダ医学を教授していると聞くと、これからはそちらへ行けと弟子や息子を学ばせたし、福沢諭吉がこれからはどうも英語の時代だと言うと、納得して適塾でも英語を教えるという柔軟な考え方を持った人で、門下生たちが色々な分野で活躍することを望んでいたそう。

適塾の名前には塾生それぞれに適した学問を身に付けるという意味もあり、適塾で必死で塾生が競い合ってオランダ語の本を正しく解読するために勉強するというのは、丸暗記とか表面的な薄っぺらな知識を得るだけではなかったということにつながるのでは。

2-3、適塾の教授法

それまでの日本では、剣術などであるような免許皆伝とか門外不出、師匠直伝とかいった教授法が主流で、住み込みで弟子入りしても、何年も下働きをさせるばかりで何も教えなかったり、塾生の自治に任せて単なる書生のたまり場になっているようなところもあったということですが、適塾では徹底した合理的な教え方だったということ。

当時の適塾でのオランダ語文法のテキストは、「ガランマチスカ」と「セインタキス」という文典で、この2冊が理解できるまで塾生は会読には参加できないシステム。塾生は学力に応じて約10クラスに分けられ、それぞれのレベルで10~15名が学んだそう。それに会読の予習時に、他の入塾生への質問や相談はだめだったので、ひたすらひとりで勉学に励むことに。そして月に6回「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて塾頭、塾監、1等生が会頭となって各々の成績を、「○」・「●」・「△」で採点する制度で、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進むことになっていたそう。

尚、会読や輪講は、塾頭や塾監が行い、洪庵先生は塾頭や塾監、最上級生にだけ講義をしたということ。

読解に必要な蘭和辞書は「ヅーフ・ハルマ」の写本が1冊だけで、6畳の「ヅーフ部屋」に置かれていて持ちだし禁止。「ヅーフ・ハルマ」は、長崎のオランダ商館長ヘンドリック・ヅーフがフランソワ・ハルマ著の蘭仏辞書を日本語に訳した手書きのもので、たいへん希少価値のある貴重なものだったということ。塾生たちはそれを奪い合いように利用、ヅーフ部屋の明かりは終日絶えなかったということ。

語学ばかりでなく、福沢諭吉によれば、化学実験も行ったとか、解剖実習もあったそう。

2-4、適塾の構造

image by PIXTA / 37304647

適塾は、間口約12メートル、奥行約39メートルの敷地に建つ2階建と平屋建が中庭で結ばれた表屋造り。1階奥が洪庵の家族の居住空間、1階の2間と2階の女中部屋と6畳(ズーフ部屋)と8畳の小部屋、28畳の塾生大部屋が、塾生の勉学と寝場所だったということ。正面入口を入ると土間と式台のある玄関の間があり、そこから続く6畳の和室2間はオランダ語の読み合わせなどをする教室だったということ。

大部屋には住み込みの塾生たちが寝起きしていたが、ひとりに畳一枚が割り当てられ、それぞれその中に机を置いて勉強し、入塾すると暗い隅っこがあてがわれて、成績が良くなるとだんだんと明るく居心地の良い場所に移動できて、成績が落ちるとまた暗い場所に戻るというシステムだったということ。

2-5、住み込み塾生の食生活

「花神」によれば、飯の時間になると塾生たちは台所と土間の狭いところで立って食べたということ、1と6の日はねぎとさつまいもの難波煮、5と10の日が豆腐汁、3と8の日がシジミ汁とメニューも決まっていたのは、大坂の商家と同じかも。

また入塾の際には、洪庵先生に金二百疋の束脩入学料をおさめ、塾頭に金2朱、塾生一同にも2朱、夫人に白扇3本と金2朱、女中たちに銅200文を渡すことになっていたそう。

2-6、洪庵夫人の存在感も大

適塾開塾の年に洪庵先生と結婚したとき洪庵先生は29歳で八重夫人は17歳。八重夫人は9人の子供を育てつつ洪庵先生をささえ、さらに塾生たちからは母のように慕われていた適塾の陰の功労者ということ。

3-1、門下生のエピソード

適塾には、現在も門下生の自筆の姓名録が残っていて、弘化元年(1844年)から文久2年(1862年)まで、636名の姓名と入門年と出身地が記載されているということ。現在の都道府県での出身地別で分けると、山口県が56名と最多で、洪庵先生の出身地の岡山県が46名で2番目、大阪府は19名などで、青森県と沖縄県を除き、北海道から鹿児島県まで全国から入門者が集まったそう。

洪庵先生の亡くなった後も、福沢諭吉と大鳥圭介が中心となり、6月10日と11月10日を記念日として毎年親睦会を開き、長与専斎や佐野常民など、同門の人物はほとんど参加していたということ。

適塾では厳しく激しい競争で、みんな必死で勉強したということなんですが、個性的な人も多く、色々なエピソードがあります。

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