その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、適塾は蘭学者の緒方洪庵が開塾
- 1-2、適塾の開塾は25年間
- 1-3、適塾繁栄の背景
- 2-1、適塾の方針
- 2-2、蘭学医に限らず、色々な才能を持った人が輩出した
- 2-3、適塾の教授法
- 2-4、適塾の構造
- 2-5、住み込み塾生の食生活
- 2-6、洪庵夫人の存在感も大
- 3-1、門下生のエピソード
- 3-2、洪庵先生も及ばないと感心した橋本左内
- 3-3、弟より秀才の呼び声もある久坂玄機
- 3-4、大村益次郎は子守が上手
- 3-5、井上馨を救った所郁太郎
- 3-6、洪庵先生が可愛がった福沢諭吉
- 3-7、曾孫が有名になった手塚良仙
- 4、その後の適塾
- 色々な分野に多くの人材を輩出したユニークでレベルの高い塾
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末の蘭学者や偉人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、適塾について5分でわかるようにまとめた。
1-1、適塾は蘭学者の緒方洪庵が開塾
適塾は蘭学医の緒方洪庵が、天保9年(1838年)に開いた私塾で、正式には「適々斎塾」。これは洪庵の号からとったということ。幕末、明治維新、明治時代に活躍した橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉ら逸材が続々と輩出したことで有名。
不明 – Mishima Y. The dawn of surgery in Japan, with special reference to the German society for surgery. Surg Today. 36, 5, 395-402. 2006. doi:10.1007/s00595-005-3157-6. PMID 16633743., パブリック・ドメイン, リンクによる
緒方洪庵とは
緒方洪庵は、文化7年(1810年)に岡山足守藩士の3男として誕生。子供の頃は病弱なためと近隣にコレラが流行して多くの人が亡くなったことで医師を志し、大坂に出て中天游の私塾「思々斎塾」に入門後、江戸へ出て坪井信道に、さらに宇田川玄真にも入門し、天保7年(1836年)、長崎で出島のオランダ人医師ニーマンのもとでも医学を学んだということ。
そして天保9年(1838年)春に大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業と同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開塾。同年、天游門下の先輩億川百記の娘八重と結婚して6男7女が誕生。
弘化2年(1845年)、塾生の増加に伴い、過書町(現在の大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し移転。洪庵は幕府の奥医師に請われて江戸に赴くまで17年間、医業のかたわら塾生の指導に。洪庵は適塾の指導とともに最新の医療の知識を紹介するため多くの蘭書を翻訳、著書をあらわたが、「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」「扶氏経験遺訓」などが有名。また、牛痘種痘法を広めるため、嘉永2年(1849年)、大坂古手町(現・中央区道修町)に除痘館を設立、無償で種痘を普及したなどの業績も。
1-2、適塾の開塾は25年間
適塾は天保9年(1838年)に開塾後、文久2年(1862年)に洪庵が奥医師となって江戸へ下った後は女婿の緒方拙斎が引き継ぎ、文久3年(1863年)に洪庵が江戸で急死した後、明治元年(1868年)に閉鎖。この25年間で、およそ3000人の入門生があったということ。
1-3、適塾繁栄の背景
封建時代であった江戸時代は、本人に能力があっても生まれた身分制度の枠にはまると能力が発揮できないシステムでしたが、士農工商のどの身分に生まれた人でも、医師や学者、僧侶、また剣術指南などの道を究めると出世できるという、身分制度の方外(ほうがい)という、抜け道がありました。
そしてこの頃は医師国家試験がなく、患者さんが来るかは別として誰でも医師になれたという時代でもあり、ある程度能力を持った人材は、蘭学を勉強すると出世できる、ただし、蟹のはったような文字(横文字)は難しい、江戸っ子や大阪などの都会っ子には向いていない、根気のいる学問という見方がされていたということ。
そして嘉永6年(1858年)にペリーの黒船来航後開国すると、洋式の大砲での国防や洋式軍隊の必要性にかられて、蘭学書が読める、翻訳が出来る蘭学者がこぞって幕府や各藩に必要とされる特需となり、適塾で学べば、文字通り高禄での出世が見込まれることとなったそう。
2-1、適塾の方針
しかしながら緒方洪庵先生は、出世したいと蘭学医になったのではなく、コレラで大勢亡くなる人をみて助けたいという動機で医師を志した人。そういうわけで、洪庵先生はベルリン大学教授フーフェランドの926ページに及ぶ内科書2冊を翻訳し「扶氏経験遺訓」にまとめましたが、「医は人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本体とす」「病者に対しては唯病者を視るべし。貴賎貧富を顧みることなかれ」「同業の人に対してハ之を敬し、之を愛すへし」と「扶氏医戒之略」に戒め、これは医師としての本質を的確にとらえたものとして、いまでも医学倫理教育に頻用されているということ。
「花神」に、塾頭になった大村益次郎に対して山田某という塾生が、いよいよ300石ですなあと声をかけると、洪庵先生がニコニコとその塾生を呼び、ちょうど翻訳中だった「医は人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本体とす」の書かれた「扶氏経験遺訓」12章を清書させたというのが出てきますが、洪庵先生は決して塾生を叱らず、にこやかに諭すタイプで、「洪庵先生はほほえんだときこそ怖い」と噂したという話です。
また、「花神」では、大村が故郷の父から帰って来いと言われて帰ることになったときも、洪庵先生は大村の才能を惜しみ、大村も勉強を続けたいだろうし、長州の田舎で医者をするより才能を生かせる仕事がしたいだろうと思ったようですが、本人が自分は田舎で医者をすると言うと、洪庵先生はその言葉は清々しい、そうあるべきと納得したということ。
適塾ではとにかく勉強してオランダ語をものにし、色々な書物を読んで知識を得ることを目的に、立身出世やその後の人生を考えるべきではない、純粋にひたすら学問を習得すれば物事の理解力と判断力が養えると教えたということ。
\次のページで「2-2、蘭学医に限らず、色々な才能を持った人が輩出した」を解説!/










