平安時代日本史歴史

藤原氏の繁栄を後世に繋げた「藤原四兄弟」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

藤原氏といえば、平安時代に大権勢を誇った一族として有名です。

その藤原氏の栄華の礎を築いたのが奈良時代に活躍した「藤原不比等」だった。今回テーマにする「藤原四兄弟」は彼の息子たちです。この兄弟それぞれに家を継がせて「藤原四家」ができたんです。

今回はこの「藤原四兄弟」をテーマに歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。奈良時代について調べたついでに、今回は「藤原四兄弟」にスポットライトを当て、さらに詳しく解説していく。

1.藤原氏の祖「中臣鎌足」と「藤原不比等」

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「藤原」姓を賜った「中臣鎌足」

そもそもの「藤原氏」の始まりは、「蘇我氏」が朝廷を牛耳っていた飛鳥時代にさかのぼります。当時、政敵だった物部氏を「丁未の乱」によって滅ぼし、蘇我氏が天皇よりも強い実権を握る事態となっていました。その権力はすさまじく、仲違いをした崇峻天皇を暗殺したり、その次の天皇を蘇我氏が指名して、それがかなってしまうくらいです。

そんな横暴な蘇我氏に対して立ち上がったのが「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」と「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」でした。ふたりは結託して仲間を集めると、蘇我氏の長「蘇我入鹿」に嘘をついて呼び出し暗殺してしまうのです。これを「乙巳の変」といいます。

朝廷から蘇我氏の一大勢力がいなくなり、以降、中臣鎌足は中大兄皇子の側近として一生を過ごしました。その功績によって中大兄皇子(天智天皇)から賜ったのが「藤原」の姓だったのです。

「藤原」を継いだ不比等

しかし、中臣鎌足は「藤原」姓を賜った翌日に亡くなってしまいます。このとき、中臣鎌足の息子・藤原不比等(ふじわらのふひと)はわずか11歳。さらに13歳のときに、天智天皇の後継の座を巡って、大海人皇子(天武天皇)と大友皇子が争った「壬申の乱」が起こります。藤原不比等自身は乱に関わるがなかったため、功績も処罰もありませんでしたが、朝廷内から中臣氏が一掃されて、藤原不比等は同族の後ろ盾を失ってしまうのです。

こうして、藤原不比等の政治家としての人生は予想外にも下級役人から幕を上げたのでした。しかし、藤原不比等は自らの力で道を切り開き、天武天皇の即位や「大宝律令」に尽力して朝廷内での政治的立場を強めていったのです。

藤原不比等と長屋王

藤原不比等は自分の娘たちを有力な皇族や貴族に嫁入りさせて親戚関係を作っていました。奈良時代、久しぶりに即位した男性の天皇だった聖武天皇の母親は藤原不比等の娘・宮子であり、彼の夫人もまた藤原不比等の娘・光明子だったのです。

ここで藤原不比等は聖武天皇の夫人にした光明子を皇后にしようとしました。この時代では皇族の出身ではない女性は奥さんにはなれても、皇后にはなれませんでした。皇后は必ず皇族の血を引いた特別な女性に限るのです。当然、藤原不比等のこの暴挙には強い反発が起こりました。特に猛反対したのが「長屋王(ながやおう)」です。

長屋王は当時若かった聖武天皇の代わりに政治を担当した有力者であり、藤原不比等に次ぐ権力者でした。おまけに天智天皇と天武天皇両方の血を引く特別な皇族でもあります。その血のため、長屋王の夫人として藤原不比等の娘・藤原長娥子を嫁がせており、親戚関係を結んだ間柄でもありました。うーん、複雑……。

両者にらみ合ったまま、しかし、藤原不比等は娘の皇后にする野望を果たせないまま病死してしまいます。藤原氏にとってこの不比等の死はとても大きな痛手となったのでした。

2.藤原四兄弟VS長屋王

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藤原不比等には四人の息子がいました。彼らが今回テーマとなる「藤原四兄弟」で、上から武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)です。読み方が難しい名前がふたりいますね、気を付けてください。

藤原不比等は生前にこの四兄弟にそれぞれ家を継がせて「藤原四家」という家系の祖にしました。長男・武智麻呂が藤原南家、次男・房前は北家、三男・宇合は式家、四男・麻呂は京家です。

躍進する長屋王政権

藤原不比等の死により、朝廷内のパワーバランスが崩れてしまいます。というのも、彼の息子たちはまだ長屋王に真っ向から対抗できる位にはなく、長男の武智麻呂がやっと中納言、次男・房前が参議と、右大臣に叙任された長屋王に手が届くはずがありません。

皇族を主体とする勢力を率いた長屋王に藤原四兄弟は圧倒され、政治の主導を取られてしまいました。ちなみに、「三世一身法」は長屋王が打ち出した政策のひとつです。

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「三世一身法」

人口増加によって民に貸し与える「口分田」が不足したため、人々に土地の開墾を促すためにつくられた法。土地を開墾したものには、その褒美として孫の代までの三代に限って私有地にしてもよいとした。

しかし、奈良時代の平均寿命は30歳前後と長くなく、苦労して手に入れた土地もすぐに朝廷に取り上げられることとなる。そのため、「三世一身法」はあまり成果をあげられなかった。

\次のページで「由緒正しい長屋王の血筋」を解説!/

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