平安時代の政治家「藤原道長」で有名な藤原氏ですが、実はその起こりは飛鳥時代にまでさかのぼるのを知っているか?そんな昔から権力の中枢に入り込み、長く権勢を誇ることになる。

今回はその藤原氏を飛躍させた「藤原不比等」を、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。奈良時代について調べたついでに、今回は「藤原不比等」にスポットライトを当て、さらに詳しく解説していく。

1.日本史上最大の氏族「藤原氏」の前身「中臣氏」

image by PIXTA / 2483442

朝廷における中臣氏の役割

日本史上最大の氏族「藤原氏」を解説するにあたって、まず一番最初に話さなくてはならないのが、「藤原氏」が「藤原」を名乗る前の姓「中臣(なかとみ)氏」です。なかなか特徴的な苗字なので「中臣」の姓を持つ重要人物が記憶に残っている人もいるかもしれませんね。そう、ここでいう「中臣氏」とは、「乙巳の変」で蘇我入鹿にクーデターを起こし、「大化の改新」の中心人物となった「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」を排出した氏族をさします。

「中臣氏」はもともと神祇官といって、朝廷の中でも神事に関わる役職を継ぐ家でした。「神祇」というのは、天神地祇の略で、天皇の祖先にあたる天照大神や土地ごとの神々のこと。つまり、神祇官は日本神話の神々をお祀りする役職のことでした。

飛鳥時代のドン、蘇我一族

神祇官の一族だった中臣氏に転機が訪れたのは飛鳥時代、「蘇我氏」が朝廷で専横を極めていたころのことです。

蘇我氏は朝鮮半島の国「百済」から伝来した仏教を崇拝していました。仏教の伝来当時は、これを信仰するかしないかという論議が朝廷内で激しく争われ、結果、廃仏派(仏教に反対する派閥)の代表だった物部氏が蘇我氏によって滅ぼされたのです。最大の政敵を倒した蘇我氏にもう敵うものはいませんから、朝廷内でもやりたい放題ですね。特に聖徳太子が亡くなったあとともなると、当時の蘇我氏の長「蘇我入鹿」は聖徳太子の一族もろとも自害に追い込んで滅ぼしてしまったのです。

\次のページで「チャンスをものにした中臣鎌足」を解説!/

チャンスをものにした中臣鎌足

Irukaansatsuzu.jpg
オリジナルのアップロード者は英語版ウィキペディアJefuさん - en.wikipedia からコモンズに移動されました。, パブリック・ドメイン, リンクによる

蘇我氏のひどい専横に立ち上がったのが中臣鎌足でした。彼は打倒蘇我氏のため、クーデターの中心となりうる傑物を探し、「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と出会います。そうして嘘の呼び出しで蘇我入鹿を皇居に呼び出すと、天皇の御前で丸腰にならざるをえなかった彼を殺害したのです。中臣鎌足と中大兄皇子たちが蘇我入鹿を暗殺したこのクーデターを「乙巳の変」といいます。

乙巳の変からはじまり、大化の改新の中心人物となるなど、中臣鎌足は生涯にわたって中大兄皇子の側近として活躍しました。そうして後年、天智天皇となった中大兄皇子から「藤原」の姓を賜った翌日に逝去したのです。

中臣鎌足の息子・藤原不比等

天智天皇から「藤原」の姓を賜った中臣鎌足。その息子の不比等(ふひと)も「中臣」ではなく「藤原」の姓を名乗ります。これにはとても大きな意味があって、中臣鎌足と同じ「中臣氏」であっても、中臣鎌足の子どもではない「中臣氏」の一族は依然として「中臣」の姓を名乗り神祇官の役職のみを担当することと明確に区別されたのです。つまり、政治の場に入っていいのは「藤原」の姓を賜った中臣鎌足の子孫だけということなんですね。

前述したように、中臣鎌足は「藤原」の名前を賜った翌日に亡くなったため、藤原氏の人間として初めて政治家(太政官)として活動したのが息子の藤原不比等でした。

一からこつこつ始めます

ところが、中臣鎌足が亡くなったとき、藤原不比等はたった11歳の子どもでした。天智天皇の跡継ぎ争いで大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子の間に起こった争い「壬申の乱」の折にはまだ13歳で、乱には関わっていません。戦争での功績はありませんが、処罰されることもありませんでした。しかし、他の中臣一族が天武朝から一掃されると、一気に同族の後ろ盾を失くしてしまいます。そのため、藤原不比等の政治家人生は下級役人から始まったのです。

自らの力で立身出世の道を切り開くことになった藤原不比等。最初は天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子に仕え、その後に草壁皇子の息子の文武天皇の即位や、「大宝律令」の編纂に深く貢献した功績で徐々に政治的立場を強めていったのです。そうしてのちに、藤原不比等の娘の藤原宮子が文武天皇の夫人に、さらに光明子が聖武天皇の后となり、朝廷の権力を握る藤原一族の礎をつくる華々しい成果を残すのでした。

2.勢力を拡大し続ける藤原氏

\次のページで「平城京への慌ただしい遷都」を解説!/

平城京への慌ただしい遷都

平城京 条坊図
Wikiwikiyarou - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

飛鳥時代の終わり、元明天皇は当時の都だった藤原京(奈良県橿原市あたり)から北に20キロほどの平城京へと遷都を決めます。この遷都が飛鳥時代と奈良時代の区切りとなりました。しかし、藤原京は古代日本における最大級の都市でしたし、なんとまだその当時も建設は続いていたんです。その建物を壊して、材木や礎石を平城京へと運んで建て替えたものもあります。

こんなに慌ただしい遷都でしたが、当時を記録した歴史書『続日本紀』には簡潔に「遷都した」としか書かれていません。藤原京で疫病が流行したとか、平城京の方が交通の便がいいとか、モデルにした唐の首都・長安と形が違ったからとか、いろんな説はありました。しかし、平城京の形を見ると、当時の朝廷に台頭した藤原氏の影響があったと考えられます。

長安の都はきれいな長方形の形で、北の皇城から南の明徳門へと大路が貫き、その大路を軸に左右対称にした都でした。新たに造られた平城京はその形を踏襲したつくりなのですが、図を見ていただくと左上に「外京」というものがくっついていませんか?この「外京」に住んでいたのが藤原氏です。

外京につくられた重要な寺社

藤原氏の住む外京には、藤原氏の氏寺の興福寺や、藤原氏の氏神を祀る春日大社が建立されました。興福寺も春日大社も藤原氏ゆかりのもので、天皇家そのものとはあまり関係ありませんよね。ところが、興福寺は奈良の寺院の中心、春日大社は国家の神社として扱われるようになります。さらにもう少し後になると、外京に「奈良の大仏」で知られる東大寺が建立されることになるのです。

東大寺は「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている大寺院ですね。さらに、「鑑真」が東大寺に「戒壇院」という僧侶が出家するために必要な場所を建設して、「天下の三戒壇」のひとつになるなど、平城京の中でも重要機関が集まるようになります。

image by PIXTA / 48620940

興福寺と春日大社

興福寺
中臣鎌足と藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺です。その昔、中臣鎌足の夫人・鏡大王が夫の病平癒を願い、669年に山背国三階(現在の京都府京都市山科区)に建立した山階寺を起源とします。その後、藤原京へと移り、さらに平城京へと遷都したのちに藤原不比等が移転させて「興福寺」と名付けました。現在は「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されています。

春日神社
768年に創設された藤原氏の氏神を祀る神社です。全国にちらばる約1000社の春日神社の総本社でもあります。祭神は藤原氏の氏神タケミカヅチノミコト、フツヌシノカミにアメノコヤネノミコトとその妻の比売神の四柱。こちらも「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されています。

養老律令の制定

平城京へ遷都した元明天皇、次代の元正天皇と女性天皇が続いたあとに久しぶりに男性の聖武天皇が即位します。聖武天皇の母は藤原不比等の娘・宮子。さらに、聖武天皇の后もまた不比等の娘でした。つまり、聖武天皇は自分の叔母と結婚したんですね(現代だと三親等(自分から見て親の兄弟や、自分の兄弟の子ども)内での結婚はできません)。藤原不比等は聖武天皇にとって「外祖父」であり、義理の父でもあったわけですね。そして、聖武天皇の次、孝謙天皇にとっても藤原不比等は「外祖父」となります。

聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位したのち、平安京への遷都後の718年(養老2年)に「養老律令」を定められました。こっちは『続日本紀』にもしっかり記録されていて、「外祖父・藤原不比等がつくりました」とまではっきり書かれています。

「律令」というのは、遣唐使によって日本に輸入された大国「唐」の法律です。日本ではこの「律令」の中身を日本風に整え直し、天皇中心の国家の仕組みをつくりました。飛鳥時代の「飛鳥浄御原令」や「大宝律令」がそうですね。今回も新たに「養老律令」を作ったのですが、ほとんど現存していない「大宝律令」の条文を「養老律令」をもとにして復元したほどその内容はほとんど「大宝律令」と変わらなかったと考えられています。

\次のページで「3.藤原不比等は藤原家の栄光の架橋」を解説!/

3.藤原不比等は藤原家の栄光の架橋

image by PIXTA / 53762989

初の非皇族出身皇后を目指して

この時代の天皇ともなれば、普通、複数人の夫人を持つものです。夫人となるのはたいてい貴族の娘で、藤原不比等の娘だった光明子もまた夫人のひとりでした。しかし、夫人と違って皇后だけは天皇家の血を引いた特別な娘でなくてはなりません。というのも、前述した持統天皇や元明天皇のように、天皇の后だった女性たちが早世した夫(天皇)に代わって即位することがありました。なので、基本的に皇后は皇族出身の女性でなければなりません。

そういうルールがあるにもかかわらず、藤原不比等は娘の光明子を皇后にしようとしました。けれど、いくら権力のある藤原不比等とはいえ、光明子の皇后即位にはもちろん反対の声が上がります。特に猛反対したのが、藤原不比等に次ぐ権力者・長屋王(ながやおう)でした。長屋王は若い聖武天皇に代わって政治を担う有力者であり、天智天皇と天武天皇両者の血を引く皇族の中でも特別な存在だったのです。

藤原不比等の死と四人の息子たち

720年、藤原不比等は自ら手掛けた「養老律令」の施行を前に病死してしまいます。亡くなった藤原不比等には四人の息子たちがいました。上から武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)です。生前、不比等は息子たちにそれぞれ家を継がせて「藤原四家」という家系の祖にしました。これが藤原南家、北家、式家、京家のはじまりです。

言いがかりから始まった「長屋王の変」

四人の兄弟は朝廷で長屋王と政権を争うこととなります。そんななか、聖武天皇と光明子の間に基王(もといおう)が誕生し、生まれてすぐに皇太子に指名されました。もちろん、この立太子にも長屋王は不満があったわけですが、かわいそうなことに、基王は一歳になる前に亡くなってしまうのです。

基王の死は藤原家にとっても大変な痛手となりましたが、藤原四兄弟は転んでもタダで起き上がりません。「基王が亡くなったのは、長屋王が呪いをかけて殺してしまったからだ」ととんでもない言いがかりをつけたのです。呪いで人が死ぬなんて、現代だとホラー映画くらいなもの。裁判で証明することもできませんよね。ところが、そこは古代の日本。呪いで人は死ぬと信じられていました。その言いがかりを根拠に長屋王を自殺に追い込んだ事件を「長屋王の変」といいます。

こうして政治のライバルを亡きものにし、光明子は念願の皇后となったのでした。藤原四兄弟もまた朝廷で「藤原四子政権」という一大政権を築きますが、このお話は次にいたしましょう。

藤原家の礎を築いた「藤原不比等」

中臣鎌足という父を持ちながら「壬申の乱」のため下級役人からスタートした藤原不比等の政治家人生。彼は逆境にめげず数々の功績を築き、やがて天皇家に自分の娘を入内させて初の皇族出身ではない皇后となりました。四人の息子たちもこれから長く続く藤原氏の栄華をつくる四家の祖として続いていきます。まさに、藤原不比等によってこれから始まる藤原氏の栄華の礎が築かれたのです。

" /> 藤原氏の栄光の礎を築いた「藤原不比等」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説 – Study-Z
奈良時代日本史歴史飛鳥時代

藤原氏の栄光の礎を築いた「藤原不比等」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

平安時代の政治家「藤原道長」で有名な藤原氏ですが、実はその起こりは飛鳥時代にまでさかのぼるのを知っているか?そんな昔から権力の中枢に入り込み、長く権勢を誇ることになる。

今回はその藤原氏を飛躍させた「藤原不比等」を、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。奈良時代について調べたついでに、今回は「藤原不比等」にスポットライトを当て、さらに詳しく解説していく。

1.日本史上最大の氏族「藤原氏」の前身「中臣氏」

image by PIXTA / 2483442

朝廷における中臣氏の役割

日本史上最大の氏族「藤原氏」を解説するにあたって、まず一番最初に話さなくてはならないのが、「藤原氏」が「藤原」を名乗る前の姓「中臣(なかとみ)氏」です。なかなか特徴的な苗字なので「中臣」の姓を持つ重要人物が記憶に残っている人もいるかもしれませんね。そう、ここでいう「中臣氏」とは、「乙巳の変」で蘇我入鹿にクーデターを起こし、「大化の改新」の中心人物となった「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」を排出した氏族をさします。

「中臣氏」はもともと神祇官といって、朝廷の中でも神事に関わる役職を継ぐ家でした。「神祇」というのは、天神地祇の略で、天皇の祖先にあたる天照大神や土地ごとの神々のこと。つまり、神祇官は日本神話の神々をお祀りする役職のことでした。

飛鳥時代のドン、蘇我一族

神祇官の一族だった中臣氏に転機が訪れたのは飛鳥時代、「蘇我氏」が朝廷で専横を極めていたころのことです。

蘇我氏は朝鮮半島の国「百済」から伝来した仏教を崇拝していました。仏教の伝来当時は、これを信仰するかしないかという論議が朝廷内で激しく争われ、結果、廃仏派(仏教に反対する派閥)の代表だった物部氏が蘇我氏によって滅ぼされたのです。最大の政敵を倒した蘇我氏にもう敵うものはいませんから、朝廷内でもやりたい放題ですね。特に聖徳太子が亡くなったあとともなると、当時の蘇我氏の長「蘇我入鹿」は聖徳太子の一族もろとも自害に追い込んで滅ぼしてしまったのです。

\次のページで「チャンスをものにした中臣鎌足」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: