今回はその藤原氏を飛躍させた「藤原不比等」を、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。
ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。奈良時代について調べたついでに、今回は「藤原不比等」にスポットライトを当て、さらに詳しく解説していく。
朝廷における中臣氏の役割
日本史上最大の氏族「藤原氏」を解説するにあたって、まず一番最初に話さなくてはならないのが、「藤原氏」が「藤原」を名乗る前の姓「中臣(なかとみ)氏」です。なかなか特徴的な苗字なので「中臣」の姓を持つ重要人物が記憶に残っている人もいるかもしれませんね。そう、ここでいう「中臣氏」とは、「乙巳の変」で蘇我入鹿にクーデターを起こし、「大化の改新」の中心人物となった「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」を排出した氏族をさします。
「中臣氏」はもともと神祇官といって、朝廷の中でも神事に関わる役職を継ぐ家でした。「神祇」というのは、天神地祇の略で、天皇の祖先にあたる天照大神や土地ごとの神々のこと。つまり、神祇官は日本神話の神々をお祀りする役職のことでした。
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飛鳥時代のドン、蘇我一族
神祇官の一族だった中臣氏に転機が訪れたのは飛鳥時代、「蘇我氏」が朝廷で専横を極めていたころのことです。
蘇我氏は朝鮮半島の国「百済」から伝来した仏教を崇拝していました。仏教の伝来当時は、これを信仰するかしないかという論議が朝廷内で激しく争われ、結果、廃仏派(仏教に反対する派閥)の代表だった物部氏が蘇我氏によって滅ぼされたのです。最大の政敵を倒した蘇我氏にもう敵うものはいませんから、朝廷内でもやりたい放題ですね。特に聖徳太子が亡くなったあとともなると、当時の蘇我氏の長「蘇我入鹿」は聖徳太子の一族もろとも自害に追い込んで滅ぼしてしまったのです。
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