武田氏を打ち破る
三方ヶ原で大敗した家康でしたが、信玄が死去したことにより武田軍は上洛を取りやめとなり勝頼が新しい当主となりました。後継者となっていた勝頼は信玄の意志を継ぎ、三河攻略を再開し長篠城まで攻め込んで来ると家康側に寝返っていた奥平氏の活躍があり武田の猛攻を防いでいきます。
これに援軍として家康が信長と共に設楽原に布陣していき、武田騎馬軍の攻撃を防ぐために馬防柵を設置し迎え撃つ準備を整えていきました。織田・徳川連合軍は鉄砲を千丁を超えていて鉄砲隊を馬防柵の後ろに控えさせ一斉に放ち騎馬軍を崩壊させていきます。死を覚悟して突撃を図ってきた内藤昌豊らを忠勝と康政で迎え撃ち更に長篠城に向かい武田軍を破り長篠城で防衛していきました。
忠次に関しては奇襲攻撃を信長に立案し承諾されてその日の夜中に別働隊を率いて、武田軍の砦の背後から攻め込んでいき武田軍を混乱状態にさせていき設楽原で激戦が繰り広げられている時には武田軍を潰走させていたようです。
同盟していた信長が横死
勝頼を長篠で敗走させ天目山で自刃させていくと、信長は甲斐国を掌握していき勢力を拡大し天下統一を目前まで控え各地で敵対している大名に重臣を向かわせていました。その中で中国の毛利氏を水攻めまで行い総仕上げとして信長自らが毛利氏を跪かせるために出陣の準備をしていきます。
そこに先に光秀に備中高松城に向かわせ信長は本能寺で一泊した後に向かう予定でしたが、夜に出陣の準備が出来たので見てもらいたいといい本能寺前に来るといきなり火矢を放ち攻撃を仕掛けてきた光秀。信長は応戦するも圧倒的不利な状況を好転させることも出来ないまま本能寺で自刃してしました。
この時に京に滞在していた家康は、信長の居る本能寺に向かおうとすると三河まで撤退するように説得した忠次や忠勝。説得された家康は少数の兵と共に伊賀越えを行い、窮地を脱することが出来ました。
信長の時代から秀吉の時代へ
信長の横死によって光秀が天下を掌握すると思われましたが、中国大返しを行い異例の速さで光秀と対峙し山崎で打ち破ると織田家中内で抜き出た存在となり信長の一頭体制だった織田家は秀吉や家康に従っていくようになりました。
秀吉と対峙
光秀を討ち取り家中争いの末に柴田勝家との戦に勝利した秀吉は、織田家中だったものを吸収するようにして配下にしていきました。家康もまた織田家領土となっていた旧武田領を取り込み自国勢力を広げていきます。このような中で、秀吉と織田信雄との関係が崩れていき信雄配下にいた重臣三名を味方に引き入れようと調略活動を行っていきましたが家康が邪魔立てを行い三名を処刑したことで秀吉と対立していきました。
秀吉側の味方になった池田恒興と共同し森長可は羽黒にて池田隊よりも、突出した形で布陣するといち早く情報察知した忠次は松平家忠と共に奇襲攻撃を行い敗走させていくと白山林で休息していた羽柴秀次に対して奇襲攻撃を敢行した康政らによって秀次隊を潰走させていきます。
本戦となる長久手では直政の赤備えの甲冑と小柄ながら長槍を扱い、敵を打ち倒していき井伊の赤鬼として名を馳せていきました。忠勝もまた二万の大軍を五百ほどの兵で行軍の妨害を図っていきます。
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四天王の一人が第一戦から離れていく
小牧長久手以降に徳川家中では一番格式の高い従四位下・左衛門督に叙位任官され家康からすると二番手的な存在だった忠次でしたが、高齢だったことと眼病を患ってきたことで家次に家督を譲り隠居していきました。秀吉と家康の小牧長久手の戦いは和睦という形で終え戦い自体は引き分けということになり一旦は終戦します。和睦後は秀吉が敵対する大名を攻撃していき残す敵は相模国の北条氏だけとなっていきました。
小田原征伐として家康も兵を率いて参陣していき家康本隊として直政と康政も一緒に進軍していき、忠勝は岩槻城を攻略した後に前田利家と鉢形城を攻め大砲を撃ち込んだことで北条氏邦らは降伏を申し出たことで収束していきます。小田原城を囲んでいた大名達は堅城だった小田原城を攻めようとはせずに開城勧告が進められていました。
膠着状態の中で開城しない北条軍を見て直政は奇襲攻撃を仕掛けていき、唯一豊臣軍の中で小田原城までたどり着いた武将として知れています。
忠次が亡くなり秀吉も亡くなる
小田原攻めで北条氏を滅ぼしたことで、空いた関東に移封させれてしまった家康でしたが石高は二百五十万石と秀吉よりも多くなっていました。石高は多かったようですが関東は荒れた土地が多く土壌を整備するのに大変苦労していたようです。そして天下統一を為し遂げた秀吉は、次なる侵略地を朝鮮に向けて兵を出兵させていきましたが二度目の出兵した際に病により亡くなってしまいました。
また1596年には忠次が死去し四天王は三名となってしまいます。そして秀吉から家康へと世の情勢は変わっていきました。
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