戦の絶えない戦国時代では、敵将の首を挙げてこそ戦功が貰え石高だったり金を仕えている大名から貰うことが出来ていたな。特に活躍した者には大名家の中で重臣として起用されていく流れが通常だったようです。中でも多くの戦いに参陣し戦果を挙げた将には四天王だったり英傑や三人衆といった固有名詞を付けられ重臣の中でも別格の扱いとされていたようです。

そこで今回は徳川四天王に関して歴史マニアでもあり歴史ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

どの四天王が強いかを比べることは出来ないが徳川四天王に該当する四将の生い立ちから戦で武功を挙げていった部分を解説していく。

徳川四天王といわれた将

まずは四天王になった四将を紹介していきます。

戦国最強武将と名高い本田平八郎忠勝

image by PIXTA / 49686258

徳川四天王の中で有名な武将といえば、本田忠勝でしょう。生まれは徳川家康と同じ三河出身であり幼い時から、本多一族と供に家康の家臣となって戦に参加していきました。

初陣は十三歳の時で1560年に今川氏に従軍しており大高城攻めの先鋒隊として、戦場で武功を挙げるために戦っていきます。首級を挙げたとされているのが1561年に発生した三河一向一揆で、多くの本多氏が一揆衆側に加わるも忠勝を含めた一部の一族が宗教を浄土宗に変え家康側として戦っていきました。

叔父から首を渡され手柄としよといわれましたが、忠勝はそれを拒否し戦陣に切り込んでいき自らの力で首を挙げていきます。この様子を見た叔父は只者ではないと感じ入ってしまいました。

井伊家を一国人衆から大名に成り上がった井伊直政

井伊の赤備えとして赤い甲冑を身に纏い戦場で、敵兵を恐れさせた部隊を作った井伊直政。井伊家は遠江国出身で元々は今川氏の家臣として国人領主で井伊谷一帯を収めていました。家柄が小さいため今川氏に利用されるだけの存在だったことに加えて桶狭間の戦いで養父だった井伊直盛が討死していき、今川氏真によって父の井伊直親が謀殺されてしまいます。

転機が訪れてくるのが、養母井伊直虎らの働きにより家康に仕えさせ家康によって直政の力が見出されていきました。家康に仕えていた当初は万千代と名乗っていたようで、1575年に井伊家に復すことを許され井伊家の領土も認められる形になっていきます。元服したとされるのが1582年に起きた本能寺より少し前でした。

最古参の四天王酒井忠次

酒井氏は徳川家の前身だった松平氏譜代家臣で、家康が人質として今川義元の下に送られる際に共に同行し家康家臣として1547年に福谷城を任せられていきました。福谷城は織田氏からの攻撃を防ぐための拠点として作られ度々、織田氏とは交戦していたようで1559年には柴田勝家が攻めてきた際に忠次は城外から討って出て二千騎と交戦し撃退することに成功しています。

四天王の中でも年齢が離れていたためか、間を取り持つことが多く相談役として家康家臣団を纏めていきました。また戦場では先鋒隊や奇襲などの激戦となるところに任命され多くの戦功を挙げている将です。

家康だけでなく敵将だった秀吉にも認められた榊原康政

image by PIXTA / 56679166

榊原氏の祖先は、足利氏の流れを組む仁木氏だったようで本家と分家に分かれて伊勢国に移った時に榊原氏と称し松平氏の家臣となっていきました。幼い頃から勉学に励むために書物を数多く読破したようで字に関しては、綺麗な字で書くこと出来たようです。初陣とされるのが三河一向一揆でこの時に初陣ながら武功を挙げたことで家康から康の一字を賜り、康政と名乗っていくことになりました。

初陣後に榊原家の家督を相続し、兄の清政を差し置き当主に抜擢され榊原家を発展させていきます。そして十九歳で元服すると同年齢だった本多忠勝と武功を争っていくなど家康の側近として活躍し始めていきました。

忠次を除く中では部隊を上手く動かすことに長けているといわれているようですが、武勇も忠勝や直政に劣らない能力だったようです。秀吉と家康が和睦した際には、秀吉本人の口から志の高い将だとして従五位下・式部大輔の官位を送られ賞賛されました。

それぞれの将の活躍

戦での活躍状況を見ていきましょう。

\次のページで「同盟を結んでいた将の寝返り」を解説!/

同盟を結んでいた将の寝返り

義元が討ち取られて以降に家康は、織田信長と同盟を結んでいて共に行動することが多くなっていきました。義元がいなくなったことで今川氏は弱体化していき家康が三河国から進出し駿河国を徐々に制圧していき領土拡大を図っていきます。信長もまた天下を統一する目的ために行動していき、室町幕府将軍だった足利義昭を奉じて上洛を果たし浅井長政と同盟を結ぶため妹だったお市を娶らせていきました。

義昭からの上洛申請を促されていたにも係わらず一向に動こうとしない、朝倉氏に対して越前への進行を開始していきます。ところが朝倉氏は浅井氏と同盟関係だったことで侵攻途中に信長から離反する決意を固め浅井軍は朝倉攻めから一転して味方だった織田軍に攻撃を始めていきました。

秀吉や明智光秀そして池田勝正らの奮戦によって撤退することが出来た信長や家康。

二度目の朝倉氏に向けて出兵

金ヶ崎にて浅井氏の寝返りにより退却した信長と家康は、1570年6月に二度目となる侵攻を開始していきました。途中で六角氏の邪魔立てが入りながらも近江国まで進み虎御前山に陣を構え小谷城下を焼き払い竜ヶ鼻に布陣していきます。この頃に家康も八千の兵を率いて到着したとされ、家臣には忠勝・忠次・康政も家康指揮の下で兵を率いて勝山付近に布陣していきました。

朝倉・浅井連合軍は軍を二手に分け三田村と野村に布陣し家康は三田村の朝倉軍を攻撃するべく兵を進めていきます。6月27日の早朝6時に開戦したとされ、まず前線役を担っていたのが忠次隊で朝倉軍と戦を開始していきました。両軍共に息を切らしながらも戦ったと信長記に残されているようで、激しい戦闘が姉川を挟んで行われていたようです。

忠勝の単騎突撃

朝倉軍も家康本陣付近まで攻め込んできていた状況でしたが、忠勝が勇猛果敢に単騎駆けを行い朝倉軍を押し返していくと同時に、忠勝の救援に入っていった味方達が反撃していき打ち崩すことに成功しました。更に敵軍陣形が伸び切っていたことを知った家康は、康政に側面から攻撃するように指示を行い朝倉・浅井軍を攻撃していくと見事に陣形を崩し勝利を収めることが出来ます。

武田氏との交戦

1573年に武田氏が上洛をするために三河国など三ヵ国を経由して、上洛するとの情報を確認した家康は大慌てで準備を行っていきましたが兵を分けることも出来ないまま武田氏と交戦を開始していきました。同年10月3日には浜松城など四拠点が馬場春信の隊によって包囲されてしまい、支城だった二俣城だけは陥落させることが出来ないと判断した家康は敵軍の兵力などを調べるために偵察部隊として忠勝を任命し一言坂へ向かうも武田軍に発見され交戦してしまいます。

殿を努めた忠勝と後の徳川十六神将となる大久保忠佐と共に武田軍の攻撃を止め家康本隊を逃がし自身らも撤退することが出来ました。

瀕死の徳川軍

本戦となる三方ヶ原まで武田信玄によっておびき出された徳川軍は鶴翼の陣を展開し十四時から十五時頃に戦が始まっていきます。忠勝隊は左翼に布陣し山県昌景と交戦していくと、撃退することができ忠次隊は右翼に布陣し小山田信茂を撃退することに成功しました。

しかし用意周到に布陣していた信玄に分があり、本陣を攻められ家康は敗走し多くの有能な将をここで失ってしまいましたが四天王は無事に生き残ります。

\次のページで「武田氏を打ち破る」を解説!/

武田氏を打ち破る

三方ヶ原で大敗した家康でしたが、信玄が死去したことにより武田軍は上洛を取りやめとなり勝頼が新しい当主となりました。後継者となっていた勝頼は信玄の意志を継ぎ、三河攻略を再開し長篠城まで攻め込んで来ると家康側に寝返っていた奥平氏の活躍があり武田の猛攻を防いでいきます。

これに援軍として家康が信長と共に設楽原に布陣していき、武田騎馬軍の攻撃を防ぐために馬防柵を設置し迎え撃つ準備を整えていきました。織田・徳川連合軍は鉄砲を千丁を超えていて鉄砲隊を馬防柵の後ろに控えさせ一斉に放ち騎馬軍を崩壊させていきます。死を覚悟して突撃を図ってきた内藤昌豊らを忠勝と康政で迎え撃ち更に長篠城に向かい武田軍を破り長篠城で防衛していきました。

忠次に関しては奇襲攻撃を信長に立案し承諾されてその日の夜中に別働隊を率いて、武田軍の砦の背後から攻め込んでいき武田軍を混乱状態にさせていき設楽原で激戦が繰り広げられている時には武田軍を潰走させていたようです。

同盟していた信長が横死

image by PIXTA / 33732825

勝頼を長篠で敗走させ天目山で自刃させていくと、信長は甲斐国を掌握していき勢力を拡大し天下統一を目前まで控え各地で敵対している大名に重臣を向かわせていました。その中で中国の毛利氏を水攻めまで行い総仕上げとして信長自らが毛利氏を跪かせるために出陣の準備をしていきます。

そこに先に光秀に備中高松城に向かわせ信長は本能寺で一泊した後に向かう予定でしたが、夜に出陣の準備が出来たので見てもらいたいといい本能寺前に来るといきなり火矢を放ち攻撃を仕掛けてきた光秀。信長は応戦するも圧倒的不利な状況を好転させることも出来ないまま本能寺で自刃してしました。

この時に京に滞在していた家康は、信長の居る本能寺に向かおうとすると三河まで撤退するように説得した忠次や忠勝。説得された家康は少数の兵と共に伊賀越えを行い、窮地を脱することが出来ました。

信長の時代から秀吉の時代へ

信長の横死によって光秀が天下を掌握すると思われましたが、中国大返しを行い異例の速さで光秀と対峙し山崎で打ち破ると織田家中内で抜き出た存在となり信長の一頭体制だった織田家は秀吉や家康に従っていくようになりました。

秀吉と対峙

image by PIXTA / 56678952

光秀を討ち取り家中争いの末に柴田勝家との戦に勝利した秀吉は、織田家中だったものを吸収するようにして配下にしていきました。家康もまた織田家領土となっていた旧武田領を取り込み自国勢力を広げていきます。このような中で、秀吉と織田信雄との関係が崩れていき信雄配下にいた重臣三名を味方に引き入れようと調略活動を行っていきましたが家康が邪魔立てを行い三名を処刑したことで秀吉と対立していきました。

秀吉側の味方になった池田恒興と共同し森長可は羽黒にて池田隊よりも、突出した形で布陣するといち早く情報察知した忠次は松平家忠と共に奇襲攻撃を行い敗走させていくと白山林で休息していた羽柴秀次に対して奇襲攻撃を敢行した康政らによって秀次隊を潰走させていきます。

本戦となる長久手では直政の赤備えの甲冑と小柄ながら長槍を扱い、敵を打ち倒していき井伊の赤鬼として名を馳せていきました。忠勝もまた二万の大軍を五百ほどの兵で行軍の妨害を図っていきます。

四天王の一人が第一戦から離れていく

小牧長久手以降に徳川家中では一番格式の高い従四位下・左衛門督に叙位任官され家康からすると二番手的な存在だった忠次でしたが、高齢だったことと眼病を患ってきたことで家次に家督を譲り隠居していきました。秀吉と家康の小牧長久手の戦いは和睦という形で終え戦い自体は引き分けということになり一旦は終戦します。和睦後は秀吉が敵対する大名を攻撃していき残す敵は相模国の北条氏だけとなっていきました。

小田原征伐として家康も兵を率いて参陣していき家康本隊として直政と康政も一緒に進軍していき、忠勝は岩槻城を攻略した後に前田利家と鉢形城を攻め大砲を撃ち込んだことで北条氏邦らは降伏を申し出たことで収束していきます。小田原城を囲んでいた大名達は堅城だった小田原城を攻めようとはせずに開城勧告が進められていました。

膠着状態の中で開城しない北条軍を見て直政は奇襲攻撃を仕掛けていき、唯一豊臣軍の中で小田原城までたどり着いた武将として知れています。

忠次が亡くなり秀吉も亡くなる

小田原攻めで北条氏を滅ぼしたことで、空いた関東に移封させれてしまった家康でしたが石高は二百五十万石と秀吉よりも多くなっていました。石高は多かったようですが関東は荒れた土地が多く土壌を整備するのに大変苦労していたようです。そして天下統一を為し遂げた秀吉は、次なる侵略地を朝鮮に向けて兵を出兵させていきましたが二度目の出兵した際に病により亡くなってしまいました。

また1596年には忠次が死去し四天王は三名となってしまいます。そして秀吉から家康へと世の情勢は変わっていきました。

\次のページで「天下分け目の大戦」を解説!/

天下分け目の大戦

秀吉亡き後に秀頼の後見役として家康の他に五大老と五奉行が担っていきましたが、秀吉の遺言を徐々に破っていき秀吉子飼いの将を味方に引き入れる動きをしていくと関係の悪かった奉行派の石田三成と武断派筆頭の加藤清正達。清正率いる武断派は三成の屋敷を襲い討ち取ろうとしていましたが、逃げられてしまい家康の仲裁の下で三成は五奉行を退任し佐和山城へ帰城していきました。

1600年になると家康の行動を非難した直江状を送り付けられた家康は上杉征伐を決行し会津へ進軍していくと、西国から三成挙兵の知らせを聞き軍を二手に分けて進軍していきます。直政と忠勝は家康本隊で康政は徳川秀忠と共に中山道経由で大坂城を目指していきました。

西軍は伏見城を守っていた鳥居元忠に苦戦させられ時間を要してしまいます。そして関ヶ原で西軍と東軍が衝突していきました。

連携の取れていない西軍

image by PIXTA / 22922402

1600年9月15日に両軍がそれぞれの場所に布陣していくと、地形を見る限りでは西軍が有利となっていました。当日の早朝から霧が深く辺りを見渡しても先が見通せない状態で、先鋒を任さられていた福島正則の攻撃によって開戦するはずが直政らが視界が効かない中で進軍していき戦闘が始まったとされています。

開戦と同時に東軍の激しい攻撃が始まっていくと西軍は一部の将しか動かず島津氏・小早川氏・毛利氏は静観し戦闘に加わる様子がありません。

鬼島津を追撃するも重症を負ってしまう

それでも小西隊・宇喜多隊・大谷隊・石田隊の奮戦によって苦戦を強いられていた東軍は徐々に後退していきました。戦況が大きく変わっていくのが小早川氏が東軍に寝返ったことで西軍は総崩れしたため西軍は敗走し島津氏は退却するために敵中突破を図ってきます。これを確認した直政は百騎ほどを連れて追い打ちをかけていき島津豊久を討ち取るもその家臣によって鉄砲を放たれ落馬をしてしまいました。

この時に大けがを負い戦線を離脱した直政。忠勝は僅か五百騎しか率いておらず、豊臣恩顧将の監視役として参陣しておりましたが、首を九十も挙げたとされ十万石を与えられます。

関ヶ原に間に合わない

秀忠率いる三万八千の部隊は、真田氏の守る上田城を陥落させるべく包囲していきましたが地の利を生かした戦いと策略が張られていたことでたった数千程度の城を落とすことが出来ないどころか損害を千三百も出してしまいました。攻め落とすことが出来ないと判断した秀忠は急ぎ、関ヶ原へと向かいます。

しかし本戦だった関ヶ原は既に終戦しており東軍の勝利となっていました。遅参したことで家康は大激怒し秀忠を責め立てるも康政が取り成しをしたことで、処罰がない形で終えていきます。康政は関ヶ原で功績がないにも係わらず水戸への加増話を断ったとされているようで、江戸城へ通うのに交通便がいい舘林に居座っていきました。

直政も重症を負いながらも関ヶ原本戦で活躍したことで加増され三成の領土だった佐和山を担い十八万石を与えらていきます。その後は家督を譲り隠居していき康政が1606年に忠勝は1610年そして一番年齢の若かった直政は1602年に亡くなっていきました。

家康の主流となる戦に参戦し大きな活躍をしている四天王

徳川四天王と呼ばれている四人は、家康の重要な局面でほぼ参陣しておりそれぞれ戦果を残し徳川家の支えとなっていました。しかしながら一つ個人的に残念なことといえば四人ともそれ程多くの石高にはなっていないようで、逆に外様の大名らの方が多い石高となっています。ここは個人的な推測になってしまいますが、四人とも戦果を得ても加増の話を断っていたことも現存している書物に記載されているので石高に興味はあまりなく家康のためそして徳川家のために忠誠を誓い第一線で活躍することだけに力を注いでいたのでしょう。

家康の三大危機となっているところでは、もちろん四天王だけでなく重臣達も死に物狂いで体を張り家康を守っていたと思いますが四人に関しては護衛だけでなく危機的な局面で殿を努めたり家康を説得する役を担い家康を大大名までのし上げていったのは四天王あってこそだと思いました。

" /> 数多くの戦いで戦功を残した猛将の「徳川四天王」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説 – ページ 3 – Study-Z
室町時代戦国時代日本史歴史

数多くの戦いで戦功を残した猛将の「徳川四天王」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説

武田氏を打ち破る

三方ヶ原で大敗した家康でしたが、信玄が死去したことにより武田軍は上洛を取りやめとなり勝頼が新しい当主となりました。後継者となっていた勝頼は信玄の意志を継ぎ、三河攻略を再開し長篠城まで攻め込んで来ると家康側に寝返っていた奥平氏の活躍があり武田の猛攻を防いでいきます。

これに援軍として家康が信長と共に設楽原に布陣していき、武田騎馬軍の攻撃を防ぐために馬防柵を設置し迎え撃つ準備を整えていきました。織田・徳川連合軍は鉄砲を千丁を超えていて鉄砲隊を馬防柵の後ろに控えさせ一斉に放ち騎馬軍を崩壊させていきます。死を覚悟して突撃を図ってきた内藤昌豊らを忠勝と康政で迎え撃ち更に長篠城に向かい武田軍を破り長篠城で防衛していきました。

忠次に関しては奇襲攻撃を信長に立案し承諾されてその日の夜中に別働隊を率いて、武田軍の砦の背後から攻め込んでいき武田軍を混乱状態にさせていき設楽原で激戦が繰り広げられている時には武田軍を潰走させていたようです。

同盟していた信長が横死

image by PIXTA / 33732825

勝頼を長篠で敗走させ天目山で自刃させていくと、信長は甲斐国を掌握していき勢力を拡大し天下統一を目前まで控え各地で敵対している大名に重臣を向かわせていました。その中で中国の毛利氏を水攻めまで行い総仕上げとして信長自らが毛利氏を跪かせるために出陣の準備をしていきます。

そこに先に光秀に備中高松城に向かわせ信長は本能寺で一泊した後に向かう予定でしたが、夜に出陣の準備が出来たので見てもらいたいといい本能寺前に来るといきなり火矢を放ち攻撃を仕掛けてきた光秀。信長は応戦するも圧倒的不利な状況を好転させることも出来ないまま本能寺で自刃してしました。

この時に京に滞在していた家康は、信長の居る本能寺に向かおうとすると三河まで撤退するように説得した忠次や忠勝。説得された家康は少数の兵と共に伊賀越えを行い、窮地を脱することが出来ました。

信長の時代から秀吉の時代へ

信長の横死によって光秀が天下を掌握すると思われましたが、中国大返しを行い異例の速さで光秀と対峙し山崎で打ち破ると織田家中内で抜き出た存在となり信長の一頭体制だった織田家は秀吉や家康に従っていくようになりました。

秀吉と対峙

image by PIXTA / 56678952

光秀を討ち取り家中争いの末に柴田勝家との戦に勝利した秀吉は、織田家中だったものを吸収するようにして配下にしていきました。家康もまた織田家領土となっていた旧武田領を取り込み自国勢力を広げていきます。このような中で、秀吉と織田信雄との関係が崩れていき信雄配下にいた重臣三名を味方に引き入れようと調略活動を行っていきましたが家康が邪魔立てを行い三名を処刑したことで秀吉と対立していきました。

秀吉側の味方になった池田恒興と共同し森長可は羽黒にて池田隊よりも、突出した形で布陣するといち早く情報察知した忠次は松平家忠と共に奇襲攻撃を行い敗走させていくと白山林で休息していた羽柴秀次に対して奇襲攻撃を敢行した康政らによって秀次隊を潰走させていきます。

本戦となる長久手では直政の赤備えの甲冑と小柄ながら長槍を扱い、敵を打ち倒していき井伊の赤鬼として名を馳せていきました。忠勝もまた二万の大軍を五百ほどの兵で行軍の妨害を図っていきます。

四天王の一人が第一戦から離れていく

小牧長久手以降に徳川家中では一番格式の高い従四位下・左衛門督に叙位任官され家康からすると二番手的な存在だった忠次でしたが、高齢だったことと眼病を患ってきたことで家次に家督を譲り隠居していきました。秀吉と家康の小牧長久手の戦いは和睦という形で終え戦い自体は引き分けということになり一旦は終戦します。和睦後は秀吉が敵対する大名を攻撃していき残す敵は相模国の北条氏だけとなっていきました。

小田原征伐として家康も兵を率いて参陣していき家康本隊として直政と康政も一緒に進軍していき、忠勝は岩槻城を攻略した後に前田利家と鉢形城を攻め大砲を撃ち込んだことで北条氏邦らは降伏を申し出たことで収束していきます。小田原城を囲んでいた大名達は堅城だった小田原城を攻めようとはせずに開城勧告が進められていました。

膠着状態の中で開城しない北条軍を見て直政は奇襲攻撃を仕掛けていき、唯一豊臣軍の中で小田原城までたどり着いた武将として知れています。

忠次が亡くなり秀吉も亡くなる

小田原攻めで北条氏を滅ぼしたことで、空いた関東に移封させれてしまった家康でしたが石高は二百五十万石と秀吉よりも多くなっていました。石高は多かったようですが関東は荒れた土地が多く土壌を整備するのに大変苦労していたようです。そして天下統一を為し遂げた秀吉は、次なる侵略地を朝鮮に向けて兵を出兵させていきましたが二度目の出兵した際に病により亡くなってしまいました。

また1596年には忠次が死去し四天王は三名となってしまいます。そして秀吉から家康へと世の情勢は変わっていきました。

\次のページで「天下分け目の大戦」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: