大宝律令は言葉こそ有名ですが律令の意味が分かりづらい人も多く、ここでは理解しやすい表現を使って進めていこう。今回、大宝律令について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大宝律令をわかりやすくまとめた。
大宝律令の基本知識
大宝律令が苦手な人は、説明文の中で登場する律令政治や律令国家のワードの意味が分かりづらいケースが多いと思います。そこで分かりやすく解説すると、まず大宝律令の大宝とは昭和や平成や令和と同じ元号のことで、大宝元年に制定された法律のため大宝律令と名付けられているだけです。
日本の元号を連想するといくつか挙がりますが、大宝は元号の中で最も古く、つまり日本で最初に定められた元号ということになります。次に律令ですが、「律」は犯罪に関する取り決めとなる刑法、「令」は行政や民法など刑法以外の法律とイメージすれば良いでしょう。
要するに、律令は現在で言うところの法律と置き換えれば分かりやすいですね。この当時は天皇を中心とした国作りを目指していましたが、日本全国を統治するためには法律の統一が欠かせず、そのために制定された法律が大宝律令なのです。では、実際に大宝律令が制定されるまでのいきさつを見ていきましょう。
天皇中心の律令国家
「日本を天皇中心の律令国家にするべき」……そう考えたのは中大兄皇子と中臣鎌足で、そのため645年の乙巳の変(いっしのへん)にて蘇我氏を滅ぼします。と言うのも、当時中国の唐は国としての体制が整っていたため非常に強く、対抗するには権力を独占する蘇我氏を滅ぼして日本を天皇中心の律令国家に作りかえる必要があると考えたからです。
そこで乙巳の変を起こした翌646年、孝徳天皇は大化の改新の詔を出して公地公民制により土地・人民の全てが天皇のものである制度を定めます。日本を天皇中心の律令国家にするには、そこに住む人民と土地は天皇に帰属すべきでなければなりません。
つまりそれは律令国家実現に向けた下地かつ第一歩であり、ここから50年以上かけた末に完成したのが大宝律令というわけです。最も、大宝律令制定の20年前となる681年には天武天皇が飛鳥浄御原令と呼ばれる法令を制定しており、しかしこれはあまり浸透することがありませんでした。
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