今日は大宝律令(たいほうりつりょう)について勉強していきます。大宝律令とは文武天皇の時代である701年に制定された法律で、中国の唐の法律を参考にして作られたものです。

大宝律令は言葉こそ有名ですが律令の意味が分かりづらい人も多く、ここでは理解しやすい表現を使って進めていこう。今回、大宝律令について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大宝律令をわかりやすくまとめた。

律令国家を目指した日本

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大宝律令の基本知識

大宝律令が苦手な人は、説明文の中で登場する律令政治律令国家のワードの意味が分かりづらいケースが多いと思います。そこで分かりやすく解説すると、まず大宝律令の大宝とは昭和や平成や令和と同じ元号のことで、大宝元年に制定された法律のため大宝律令と名付けられているだけです。

日本の元号を連想するといくつか挙がりますが、大宝は元号の中で最も古く、つまり日本で最初に定められた元号ということになります。次に律令ですが、「律」は犯罪に関する取り決めとなる刑法、「令」は行政や民法など刑法以外の法律とイメージすれば良いでしょう。

要するに、律令は現在で言うところの法律と置き換えれば分かりやすいですね。この当時は天皇を中心とした国作りを目指していましたが、日本全国を統治するためには法律の統一が欠かせず、そのために制定された法律が大宝律令なのです。では、実際に大宝律令が制定されるまでのいきさつを見ていきましょう。

天皇中心の律令国家

「日本を天皇中心の律令国家にするべき」……そう考えたのは中大兄皇子と中臣鎌足で、そのため645年の乙巳の変(いっしのへん)にて蘇我氏を滅ぼします。と言うのも、当時中国の唐は国としての体制が整っていたため非常に強く、対抗するには権力を独占する蘇我氏を滅ぼして日本を天皇中心の律令国家に作りかえる必要があると考えたからです。

そこで乙巳の変を起こした翌646年、孝徳天皇は大化の改新の詔を出して公地公民制により土地・人民の全てが天皇のものである制度を定めます。日本を天皇中心の律令国家にするには、そこに住む人民と土地は天皇に帰属すべきでなければなりません。

つまりそれは律令国家実現に向けた下地かつ第一歩であり、ここから50年以上かけた末に完成したのが大宝律令というわけです。最も、大宝律令制定の20年前となる681年には天武天皇が飛鳥浄御原令と呼ばれる法令を制定しており、しかしこれはあまり浸透することがありませんでした。

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大宝律令と「律」の詳細

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大宝律令の完成

681年の飛鳥浄御原令では律令における「令」の部分は制定されていました。しかし中国の唐にならいすぎたためか、その性質があまりにも唐のものに偏っており、日本では上手く機能せず浸透することなく終わってしまいます。つまり飛鳥浄御原令は失敗したと言えるでしょう。

失敗は成功のもと、「今度こそ成功させる!」とばかりに律令作りに取り掛かったのが天武天皇の息子・刑部親王(おさかべしんのう)でした。刑部親王は20年もの歳月をかけていよいよ律令を完成させ、その完成した律令こそ大宝律令です。こうして日本で初めての律令が完成、日本は律令国家として成立することになりました。

思えば天皇中心の律令国家を目指したきっかけは中国の唐を意識したためで、その意味で大宝律令の完成は「唐と対等に渡り合える天皇中心の中央集権国家成立」が目的だったのです。大宝律令の制定により、その後日本は中央集権国家への道を進んでいきます。

「律」・五刑八逆

では、大宝律令の中身を見ていきましょう。まずは刑法を意味する「律」の部分で、そこで定められていたのは五刑と八虐です。五刑とは5つの刑罰、笞刑・杖刑・徒刑・流刑・死刑になります。 笞刑とは細い竹の棒で叩くこと、杖刑とは太い木の杖で叩くこと、徒刑とは懲役刑に相当するものです。

流刑は文字からイメージしやすいと思いますが島流し、死刑は現在のものと同じですね。どれも恐ろしい刑罰ですが、ただ一つ不公平な点があり、それはこれら五刑は貴族が対象となった場合、政府に金銭を納めることで罪が許される可能性があるという仕組みだったことです。

もちろん、そんな不公平な律令では成立するはずもなく、そのために存在したのが八虐謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義、国家に反するこれらの罪を犯した場合は貴族だろうと許されず、また刑罰も死刑になるケースが大半だったそうです。

中央政府について

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中央政府の二官八省

では次に行政や民法を意味する「令」の部分、天皇を中心とした国家を実現するには国の制度を整える必要があり、そのため行政組織の形や行政が権力行使する場合の手続きなどについて制定しました。ちなみにこれは唐にならいすぎることなく、日本の実情にあわせて制定されたものでしょう。

まず大宝律令で定められた中央政府、その官僚組織は二官八省と呼ばれています。二官とは太政官・神祇官、太政官は後述で解説する八省を総括した国政を司る最高官庁。神祇官も最高官庁ではありますが、官庁名から連想できるとおり祭事や神祇を担当したそうです。

そして八省とは中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省、それぞれ裁判や刑罰における担当、戸籍管理や事務など国に関係する行政を行っており、現在の日本の省庁もこれが元になっています。では、八省のそれぞれ役割についてもっと深く解説しましょう。

豪族から貴族になった者達

中務省は最も八省の中で最も権力のある部署。天皇の意志を伝える詔書や勅書……言わば詔勅の作成を担当して、天皇の命令の原案も作っていました。式部省は役人への教育や人事を担当、治部省は仏教関係や遣唐使など主に外交を担当、民部省は戸籍作成や税金徴収など民政・租税に関する部分を担当。

そして兵部省は軍事担当、刑部省は裁判や刑罰の担当、大蔵省は財政の担当、宮内省は天皇ら皇族のいる宮中の担当です。その他にも、役人を不正を監視する弾正台、都の警備・防衛を担当する五衛府、九州を管理する太宰府、摂津国を管理する摂津職なども存在しました。

このような中央政府で政治を行う役人となったのは豪族ですが、豪族全てが官職に就任できるわけではありません。1万人に及ぶ豪族の中で地位の高い官職に就けたのはたった数百人、選ばれたその豪族達はやがて貴族と呼ばれるようになったのです。

地方分権について

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地方分権の五畿と七道

次に解説するのは大宝律令の地方分権の仕組み、これも中央政府同様に国の制度を整えるために決められたもので、一つずつ理解していけばそれほど難しいものではありません。まず、日本の全国は五畿と七道に分けられており、五畿とは天皇がいる奈良周辺の5つの国を示しています。

最も、歴史を学ぶと「天皇=京都御所」のイメージが強いですが、大宝律令が制定された701年の時点では天皇は京都ではなく奈良にいたため、その点の勘違いには注意しましょう。奈良周辺の5国は首都圏に相当するもので、大和国・山背国 ・摂津国・河内国・和泉国の5つの国に分けて五畿と呼ばれていたのです。

一方、五畿以外となるのが七道。東山道・東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に分けられ、さらに各国を「郡」「里」に細かく分けていました。用語が難しく感じるのであれば、「国=現在の都道府県」、「群=現在の市・区」とイメージすると分かりやすいかもしれません。

国司・郡司・里長

五畿七道では責任者も配置、国のトップに国司、郡のトップに郡司、里のトップに里長を置きました。ちなみに国司は都から派遣された貴族が務めており、主に税の徴収などを仕事としています。郡司は国司が地元の豪族の中から任命、重要な地域においては特別な役職も置いたそうです。

重要な地域というのは政治的な意味のこと、例えば京都には京職・九州には大宰府・摂津には摂津職を配置、ここでは大宰府に注意が必要で、太宰府ではなく大宰府となります。また、国司・郡司の配置は遠い先の鎌倉時代に守護・地頭を配置したのと似ていますね。

これはそれぞれ役割が異なり、国司は行政、郡司は国司の下について郡を統治。一方、鎌倉時代の守護は罪人の逮捕、地頭は農民からの徴税。このような役割の違いがありますが、鎌倉時代になると守護はやがて国司の権限を侵略するほど成長することになります。

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大宝律令の税制の仕組み

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中央と地方に分けられる税

最後に、大宝律令で定められた税制を覚えていきましょう。この時代だと「税=米」のイメージですが、それだけでなく特産物も税に含まれており、また労働や兵役を行う税もありました。まず、構成として税を納める先は中央と地方に分けられています。

中央……すなわち都に納める税は調と呼ばれるもので、調は特産物を納めること、庸は布を納めることを示すものです。厳密には、庸においてのみ都で年間10日労働することを示す歳役に変えることも可能でした。次に地方……すなわち国(国家の国ではなく律令国の国)に納める税を見てみましょう。

国に納める税は雑徭(ぞうよう)と呼ばれるもので、租は米を納めること、雑徭は年間60日以下土木工事などの労働をすることを示すものです。租は6歳以上の男女に口分田を貸し与え、収穫できた米の約3%を税として納めさせる仕組みになっており、これがいわゆる班田収授法になります。

兵役の税

次に兵役の税。兵役は主に軍団・衛士・防人の3つの種類があり、それぞれ警備が仕事となるのですが、兵役に就く期間に大きな差があります。各国を警備する軍団は10日間、都を警備する衛士は1年間、大宰府で九州の警備をする防人は3年間の警備が課せられていました。

これらを比較すると明らかに防人の兵役期間が長くなっていますが、これは九州北部が中国や朝鮮から近い位置にあったためで、やはり警戒が必要な意味で長期間の兵役となったのでしょう。兵役は負担の大きい税ですから、その点は配慮されており、兵役に就くと庸や雑徭は免除されました。

大宝律令の税で一般的なのはこのようなものになりますが、全て含めると出挙義倉と呼ばれる税もあります。出挙は春になると強制的に稲を貸し付けられて利息をつきで返す税、義倉は飢饉に備えて毎年一定量のアワなどを納める税、いずれも負担を強いられるのは農民でした。

大宝律令は暗記よりも表にしてまとめよう!

大宝律令を覚えるポイントは法律の仕組みを表でまとめることです。ひたすらの暗記が歴史の勉強における基本ですが、大宝律令の場合はその仕組みを丁寧に表にまとめた方が覚えやすいでしょう。

律と令、中央と地方など何かと区分けが必要ですから、例えば家系図のような表にしてまとめると簡単に確認できますし、ただ用語を暗記するよりも遥かに知識となりますよ。

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日本史歴史飛鳥時代

日本が目指した律令国家「大宝律令」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は大宝律令(たいほうりつりょう)について勉強していきます。大宝律令とは文武天皇の時代である701年に制定された法律で、中国の唐の法律を参考にして作られたものです。

大宝律令は言葉こそ有名ですが律令の意味が分かりづらい人も多く、ここでは理解しやすい表現を使って進めていこう。今回、大宝律令について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大宝律令をわかりやすくまとめた。

律令国家を目指した日本

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大宝律令の基本知識

大宝律令が苦手な人は、説明文の中で登場する律令政治律令国家のワードの意味が分かりづらいケースが多いと思います。そこで分かりやすく解説すると、まず大宝律令の大宝とは昭和や平成や令和と同じ元号のことで、大宝元年に制定された法律のため大宝律令と名付けられているだけです。

日本の元号を連想するといくつか挙がりますが、大宝は元号の中で最も古く、つまり日本で最初に定められた元号ということになります。次に律令ですが、「律」は犯罪に関する取り決めとなる刑法、「令」は行政や民法など刑法以外の法律とイメージすれば良いでしょう。

要するに、律令は現在で言うところの法律と置き換えれば分かりやすいですね。この当時は天皇を中心とした国作りを目指していましたが、日本全国を統治するためには法律の統一が欠かせず、そのために制定された法律が大宝律令なのです。では、実際に大宝律令が制定されるまでのいきさつを見ていきましょう。

天皇中心の律令国家

「日本を天皇中心の律令国家にするべき」……そう考えたのは中大兄皇子と中臣鎌足で、そのため645年の乙巳の変(いっしのへん)にて蘇我氏を滅ぼします。と言うのも、当時中国の唐は国としての体制が整っていたため非常に強く、対抗するには権力を独占する蘇我氏を滅ぼして日本を天皇中心の律令国家に作りかえる必要があると考えたからです。

そこで乙巳の変を起こした翌646年、孝徳天皇は大化の改新の詔を出して公地公民制により土地・人民の全てが天皇のものである制度を定めます。日本を天皇中心の律令国家にするには、そこに住む人民と土地は天皇に帰属すべきでなければなりません。

つまりそれは律令国家実現に向けた下地かつ第一歩であり、ここから50年以上かけた末に完成したのが大宝律令というわけです。最も、大宝律令制定の20年前となる681年には天武天皇が飛鳥浄御原令と呼ばれる法令を制定しており、しかしこれはあまり浸透することがありませんでした。

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