2Fと3Fの外壁が金箔で覆われた不思議な建物。今や海外からのインバウンドさんたちで大にぎわいの金閣寺。

読者のみんなは見たことあるかな?初めて見たのは遠足?修学旅行?それとも教科書やSNSでしか見たことないでしょうか?いずれにせよ初めて見ると、衝撃を受けるでしょう。

一面キンピカの不思議な建物、一体何の意図があり、その後どうなったのか?京都に住む室町時代オタクのR175と解説していきます。

ライター/R175

京都府在住の室町時代オタク。理系出身であるが、京都の寺社仏閣を巡るのが趣味。理系らしく論理立てて説明することを心掛ける。

1.金閣寺建立の狙い

image by PIXTA / 47174455

初めて見たらびっくり。外壁一面に金箔。「建てた人はとても金持ちなんだろうな」と思うと同時に、「なんで金箔を塗ったんだろう?」と疑問がわいてきます。

簡単に言うと、「権威を示すため」と「野望を示すため」

金閣(鹿苑寺金閣)を建てた足利義満さん。金閣を見て想像される通り、誰がどう見ても「すごい」政治家だったのです。

金閣の建立当時、どれほどの権威を持っていたのでしょうか。

そして、どのような野望を持っていたのでしょうか。

2.金閣から分かる義満の権威

まず、建立当時の義満の権威を見ていきましょう。

2-1.金閣の.総工費は100億円

金閣の建設費は100万貫と言われています。これは現在の貨幣価値で言う100億円に相当。

これだけ見ると、「現金100億円準備して、建設会社に依頼して建てた」かのように思えますが実際は違います。

有力な大名たちに資材や労働力を提供させたのです。なんでそんなことが出来るのか?政治家としての「徳」があったから。

みんなをまとめて、うまく動かしていく「リーダーシップ」があったから。

金閣を建てる=権威を持っていることの証明になります。

2-2.義満のリーダーシップ

義満が将軍に就任した14世紀半ばの日本は内乱続きで国がまとまっていない状態でした。

日本政府が2つ(南朝、北朝)あり、天皇も2人居た時代。

そして義満が将軍に就任した1368年は時点では、幕府の対抗勢力が多数いました。

政府の言うことを聞かない人たちがたくさんいたわけで、法律1つ決めようにもなかなか決まらないわけです。

そのような状況から、義満は対抗勢力の武士たちを説得したり討伐しなりしながらついに南北朝を合一するまでに国をまとめました。

義満には人をまとめる力があったと言えるでしょう。それが垣間見える事例を紹介します。

分裂作戦

人をまとめるためには、自分への対抗勢力を弱めていくことが必要。義満は巧みな策で対抗勢力となり得る有力な守護大名たちの弱体化を図ります。

以下、その例を紹介しましょう。

兄弟げんかを起こさせる~土岐康之の乱~

兄弟げんかを起こさせる~土岐康之の乱~

image by Study-Z編集部

有力な守護大名で内部分裂を起こさせ弱体化させた例を紹介します。美濃、伊勢、尾張の三ヵ国の守護大名、土岐頼康が亡くなりました。

後継ぎは、

美濃、伊勢→養子の土岐康之
尾張→土岐満貞(土岐康之の弟)

どうなるでしょうか?

普通なら、三カ国ともお兄さんの土岐康之となりそうですが、理由をつけて尾張の守護には弟を命じました。

お兄さんからすると、面白くありませんね。「三カ国とも俺が治めたい」と思うもの。弟からすると、「いやいや、将軍様が命じたのだし尾張は俺が治めたい」となるわけです。

さあ、兄弟げんか勃発。お兄さんの土岐康之は「俺が三カ国とも治める」と尾張を攻めました。

すると義満、「いやいやお兄さん、兄弟仲良く分担して治めるよう言ったじゃないか」「これは幕府の政策への反逆だ」として、討伐軍を派遣。土岐康之を攻略します。

かくして、土岐氏の勢力は弱まりました。

甥に注意させる~明徳の乱~

甥に注意させる~明徳の乱~

image by Study-Z編集部

有力な守護大名、山名家の山名時義が亡くなりました。その後、山名時煕と従兄弟の山名氏幸が後を継ぎます。

義満は、彼らの叔父である山名氏清に、
・山名時義は現役時代、将軍をないがしろにする行動が多かった。
・後を継いだ山名時煕と従兄弟の山名氏幸も、山名時義と同様に不遜な態度。彼らを討伐しなさい。
 
と命じます。
 
叔父から甥たちへのしつけを命じるわけですが、それを言われた甥たちは「はぁ?何だよ。」となり喧嘩となるわけです。こうして山名氏の勢力も弱まっていきました。

\次のページで「上手く条件を飲ませる~南北朝の合一~」を解説!/

上手く条件を飲ませる~南北朝の合一~

人をまとめるためには分裂作戦だけでなく、対立関係にあるもの同士を「うまく合意」させることも必要。

南北朝の合一は、劣勢だった南朝を一方的に封じ込めるのではなく、南朝にも合一の条件を納得してもらうことで実現しました。どんな条件だったのでしょうか?

いくら劣勢状態でも、頭ごなしに「天皇の権利を渡しなさい」と言っても反発されます。南朝を納得させれられる条件を提示しました。

南北朝合一の条件

・天皇の権利は飽くまで南朝が持っているもの。南北朝分裂後の天皇は南朝側が「正」。しかし、今は北朝の方が権力が優位なため、北朝側も天皇になる権利があるはず。北朝側にも天皇の権利を譲ってほしい

・南朝側からと北朝側から、交互に天皇に即位(両統迭立)。

このような条件を出されると合意しやすいですね。「北朝の言うことを全部聞きなさい」とは言わず、「現状からベストな選択はこれじゃないだろうか」という言い方をしたわけです。

かくして、56年間天皇家が二つ存在した南北朝時代に終止符が打たれました。

3.金閣から分かる義満の野望

金閣のいくつかの特徴から、「日本のトップ」になりたいという義満の野望が垣間見えます。

3-1.天皇より上〜立地〜

3-1.天皇より上〜立地〜

image by Study-Z編集部

京都市の観光マップを確認してみましょう。金閣は、天皇の拠点である「御所」よりも北に位置していますね。北山とよばれる地区です。

金閣と御所はイラストに示すような位置関係。

一番「上」に御所(天皇が居るところ)があって、そこから一条、二条、三条、と地名にナンバリングされていました。

御所から、一条、二条、三条、と京都の町を見下ろせるようになっていたわけです。

その御所よりも北側にあるということは?

そう、「天皇を見下ろす」状態。

3-2.天皇より上〜建築様式〜

金閣は3層構造で、1層は寝殿造り、2層が武家造り、3層が仏殿造り、そして屋根には鳳凰が乗った構造。

1層は平安貴族風の寝殿造り→公家を表す
2層の武家造り→武士を表す。
3層の仏殿造り→禅宗、中国風。自分を表す。
屋根の鳳凰→自分を表す。

一説では、これは権威の序列を表していると言われています。

公家を表す1層は一番下階で且つ、金箔も塗られていません。つまり、公家の権力は一番下で、次いで武士が偉く、さらにその上に義満が居ると捉えることも可能。

ちなみに、「3層の中国風→義満を表す」と解釈できる理由は、当時の中国(明)との国交を開いたのが義満だから。

4.金閣建立後の動向

金閣建立時の義満には、金閣を建てられるだけの政治力、経済的があり、今後は天皇より上に立ちたい(日本のトップになりたい)という目標がありました。

では実際にはその後どうなったのでしょうか?

\次のページで「4-1.日本国王と天皇はどっちが偉い?」を解説!/

1397年 金閣完成
1399年:応永の乱
    有力な守護大名大内氏を討伐し、西日本では義満の対抗勢力が居なくなりました。1401年:明との正式な国交樹立、明の皇帝から「日本国王」と認められます。
1404年:日明貿易開始
1408年:義満死去

1399年の応永の乱以降、実質国内最強となりました。国内での権威は中国の皇帝永楽帝にも認められ、「日本国王」の座を手に入れます。金閣を建ててから、ますます権威を強めていったわけです。

4-1.日本国王と天皇はどっちが偉い?

さて、「日本国王」の座に登りつめた義満ですが、これは目標達成なのでしょうか。

中国から見たら順位は、天皇>日本国王>将軍の順だったようです。義満は、将軍を超える「日本国王」の座は手に入れましたが、天皇に勝る「日本のトップ」とはなりませんでした

5.義満死去後の金閣

義満が亡くなってからの金閣はどのような運命をたどったのでしょうか。

5-1.室町~江戸時代

義満が亡くなってから約60年後、1467年で京都で大戦争が起きます。「応仁の乱」

金閣敷地内の伽藍も一部消失。金閣(舎利殿)は戦火を逃れます。1649年、主な伽藍が再建され、金閣(舎利殿)の修理も実施。

5-2.明治以降

1894年:金閣と庭園の一般公開を開始
1904年:解体修理実施
1929年:旧国宝に指定

1649年の修復以降、大規模な修理は行われないまま明治時代を迎えます。1894年から一般公開、拝観料を払えば誰でも見学できるようになったのです。

その後、1904年に大規模な修理が実施され1929年に国宝に指定されます。

天皇に対抗姿勢だった義満。「天皇万歳」の戦前には、やや嫌われ者扱いでしたが「金閣」そのものは大切にされていました。

そして、第二次世界大戦でも、奇跡的に戦火を逃れ無事に終戦を迎えます。

5-3.1950年まさかの焼失

Burned Kinkaku.jpg
不明 - http://maizuru-walker.hp.infoseek.co.jp/zatsugaku/047/index.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

\次のページで「6.インバウンドからの注目」を解説!/

1950年:放火により金閣が全焼、旧国宝の指定解除
1955年:創建当時の姿に復元
1986年:修復工事実施
1994年:世界遺産に登録

昭和、しかも戦後の1950年当時の見習い曽呂の放火により金閣は焼失しました。犯行の動機は

「美に対する嫉妬と、自分の環境が悪いのに金閣という美しいところに来る有閑的な人に対する反感からやった」

とのこと。当時の金閣には既にスプリンクラーが備え付けてありましたが、犯人の曽呂は工事でスプリンクラーが止まっているタイミングを狙ったそうです。

この事件は三島由紀夫や水上勉の小説の題材にもなっています。

その後、政府からの援助や寄付金により再建着手され、1955年に完成しました。これが現在、私たちが見ることができる金閣です。

1986年の修復で金箔が塗りなおされ、1994年には世界遺産に。ますます注目されるようになります。

6.インバウンドからの注目

ある統計によれば、金閣はインバウンドの人気観光地第8位海外の観光客からの人気が高いです。筆者も近年実際に金閣に行ってみて実感しました。訪れる季節にもよると思いますが、筆者が訪問した時は、海外の観光客の方が多く、日本人観光客はむしろ少数派にさえ感じました。

「きれい」、「神秘的」、「落ち着く」、「華やか」。観光客たちが感想を口にしますが、日本語の感想はあまり聞こえてきませんでした。まるで海外旅行に来ているような気分になりますね。

6-1.中国からの観光客

世界各国の観光客から人気ですが、ここでは中国からの反応にフォーカスしましょう。

金閣最上階の3層は明(当時の中国)を意識した造り。当時必死の思いで国交を開き、貿易を開始した国が中国です。

アニメ効果絶大

金閣は、中国人観光客が行きたい日本の観光地第5位と言われています。中国人からも人気が高いです。

その理由の一つが、アニメ「一休さん」。

「一休さん」をきっかけに金閣を知った中国人が非常に多いようです。アニメに出てくるキラキラの建物を一目見たく訪れる人も多いと推測されます。

当時の義満の意図はあまり知られていないかもしれませんが、結果的に現在中国から注目されていることは間違いありませんね。

未来志向の金閣

金閣の建立意図は、「現状の権威を示すこと」と「これからの野望を示すこと」でした。

ポイントは、「これからの野望」。「すごいことをした記念」ではなく「今もすごいけど、これからはもっと上を目指す」ために建てたのです。つまり「未来」に目が向けられれています。

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南北朝時代室町時代日本史歴史

何のためのキンキラキン?「金閣寺」について京都在住の室町時代オタクがわかりやすく解説

2Fと3Fの外壁が金箔で覆われた不思議な建物。今や海外からのインバウンドさんたちで大にぎわいの金閣寺。

読者のみんなは見たことあるかな?初めて見たのは遠足?修学旅行?それとも教科書やSNSでしか見たことないでしょうか?いずれにせよ初めて見ると、衝撃を受けるでしょう。

一面キンピカの不思議な建物、一体何の意図があり、その後どうなったのか?京都に住む室町時代オタクのR175と解説していきます。

ライター/R175

京都府在住の室町時代オタク。理系出身であるが、京都の寺社仏閣を巡るのが趣味。理系らしく論理立てて説明することを心掛ける。

1.金閣寺建立の狙い

image by PIXTA / 47174455

初めて見たらびっくり。外壁一面に金箔。「建てた人はとても金持ちなんだろうな」と思うと同時に、「なんで金箔を塗ったんだろう?」と疑問がわいてきます。

簡単に言うと、「権威を示すため」と「野望を示すため」

金閣(鹿苑寺金閣)を建てた足利義満さん。金閣を見て想像される通り、誰がどう見ても「すごい」政治家だったのです。

金閣の建立当時、どれほどの権威を持っていたのでしょうか。

そして、どのような野望を持っていたのでしょうか。

2.金閣から分かる義満の権威

まず、建立当時の義満の権威を見ていきましょう。

2-1.金閣の.総工費は100億円

金閣の建設費は100万貫と言われています。これは現在の貨幣価値で言う100億円に相当。

これだけ見ると、「現金100億円準備して、建設会社に依頼して建てた」かのように思えますが実際は違います。

有力な大名たちに資材や労働力を提供させたのです。なんでそんなことが出来るのか?政治家としての「徳」があったから。

みんなをまとめて、うまく動かしていく「リーダーシップ」があったから。

金閣を建てる=権威を持っていることの証明になります。

2-2.義満のリーダーシップ

義満が将軍に就任した14世紀半ばの日本は内乱続きで国がまとまっていない状態でした。

日本政府が2つ(南朝、北朝)あり、天皇も2人居た時代。

そして義満が将軍に就任した1368年は時点では、幕府の対抗勢力が多数いました。

政府の言うことを聞かない人たちがたくさんいたわけで、法律1つ決めようにもなかなか決まらないわけです。

そのような状況から、義満は対抗勢力の武士たちを説得したり討伐しなりしながらついに南北朝を合一するまでに国をまとめました。

義満には人をまとめる力があったと言えるでしょう。それが垣間見える事例を紹介します。

分裂作戦

人をまとめるためには、自分への対抗勢力を弱めていくことが必要。義満は巧みな策で対抗勢力となり得る有力な守護大名たちの弱体化を図ります。

以下、その例を紹介しましょう。

兄弟げんかを起こさせる~土岐康之の乱~

兄弟げんかを起こさせる~土岐康之の乱~

image by Study-Z編集部

有力な守護大名で内部分裂を起こさせ弱体化させた例を紹介します。美濃、伊勢、尾張の三ヵ国の守護大名、土岐頼康が亡くなりました。

後継ぎは、

美濃、伊勢→養子の土岐康之
尾張→土岐満貞(土岐康之の弟)

どうなるでしょうか?

普通なら、三カ国ともお兄さんの土岐康之となりそうですが、理由をつけて尾張の守護には弟を命じました。

お兄さんからすると、面白くありませんね。「三カ国とも俺が治めたい」と思うもの。弟からすると、「いやいや、将軍様が命じたのだし尾張は俺が治めたい」となるわけです。

さあ、兄弟げんか勃発。お兄さんの土岐康之は「俺が三カ国とも治める」と尾張を攻めました。

すると義満、「いやいやお兄さん、兄弟仲良く分担して治めるよう言ったじゃないか」「これは幕府の政策への反逆だ」として、討伐軍を派遣。土岐康之を攻略します。

かくして、土岐氏の勢力は弱まりました。

甥に注意させる~明徳の乱~

甥に注意させる~明徳の乱~

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有力な守護大名、山名家の山名時義が亡くなりました。その後、山名時煕と従兄弟の山名氏幸が後を継ぎます。

義満は、彼らの叔父である山名氏清に、
・山名時義は現役時代、将軍をないがしろにする行動が多かった。
・後を継いだ山名時煕と従兄弟の山名氏幸も、山名時義と同様に不遜な態度。彼らを討伐しなさい。
 
と命じます。
 
叔父から甥たちへのしつけを命じるわけですが、それを言われた甥たちは「はぁ?何だよ。」となり喧嘩となるわけです。こうして山名氏の勢力も弱まっていきました。

\次のページで「上手く条件を飲ませる~南北朝の合一~」を解説!/

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