日本史歴史鎌倉時代

朝廷と幕府の権力争い「承久の乱」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

北条政子の最期の詞

院宣とは、上皇の命令を受けた院司が奉書形式で発給する文書。すなわち上皇の命令であり、天皇の命令に相当する効果がありました。ですから、朝廷の上皇軍は有力な御家人らも後鳥羽上皇の院宣に従って加勢するだろうと想定しており、勝利を確信していたに違いありません。

実際、後鳥羽上皇の挙兵を知った幕府の御家人達は動揺して怖れたそうです。朝廷の上皇が院宣を出して幕府を倒すために挙兵したのですから、武力を持つ幕府の御家人と言えど怖れるのは無理ないでしょう。しかしそんな中、演説を始めた女性がいます。その女性とは、亡き源頼朝の妻・北条政子でした。

「頼朝への恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。上皇の近臣を討って、実朝の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」……夫・源頼家への恩を切々と言葉にしたその演説。それは最後の詞と呼ばれるものでした。

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倒幕を実行にうつすために北条義時討伐の院宣を出した後鳥羽上皇、1221年の5月に承久の乱が起こった。後鳥羽上皇の挙兵に怖れる御家人達だが、北条政子は最期の詞として幕府の創始者であり夫でもある源頼朝への恩を切々と演説した。

承久の乱の決着

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後鳥羽上皇の院宣を凌駕した北条政子の最期の詞

幕府の御家人達にとって、北条政子の演説は後鳥羽上皇の院宣をかき消すほど心に響くものでした。さらに幕府が上皇軍討伐の恩賞を示すと、御家人達は武士本来の心の強さを取り戻して次々と幕府軍に加わり、その勢力はおよそ19万人もの大軍へとなります。

軍勢の言葉が軽く思えるほどの大軍勢、予想外の幕府軍の進軍に上皇軍は驚き恐怖しました。美濃、尾張、加賀にて迎撃を試みるものの失敗して突破されてしまい、全軍を挙げて幕府軍の京都への進軍を阻もうとします。しかし19万人もの大軍勢を止める術はなく、公家までが武装して戦う事態に陥りました。

朝廷が統治する西国からの援軍は期待できず、また北条政子の最期の詞で団結した幕府軍には一切の裏切り行為がありません。援軍も寝返りも見込めない上皇軍は宇治川橋を落とす戦術に出ます。橋を落として通行できなくした上で幕府軍に矢を浴びせる……しかしその戦術も武士には通用しませんでした。

勝利した幕府、敗北した朝廷

豪雨によって宇治川は増水、橋を壊して幕府軍の足止めをはかるものの、佐々木信綱の軍勢が物ともせずに渡ると幕府軍は一気にそれに続きます。権力で争った朝廷と幕府でしたが、武力・軍事力においての差は歴然で、幕府軍の突撃によって上皇軍は総崩れとなってしまいました。

もはや勝算はない上皇軍、後鳥羽上皇は逃走すると京都御所へと駆け込んで和平のための使者を幕府に送ります。そして北条義時討伐の院宣を取り消すと敗北を認め、こうして承久の乱は圧倒的な展開で幕府の勝利に終わりました。幕府に敗れた朝廷は、これで完全に幕府に支配される形となってしまいます。

倒幕を企てた後鳥羽上皇はもちろん、倒幕に賛成した順徳上皇、その他にも後鳥羽上皇に味方した関係者の多くが島流しに処されました。また上皇軍に加わった御家人や公家の所領を没収したことから、幕府軍で活躍した御家人には多くの褒美が与えられ、新たに補任した地頭も多く誕生したそうです。

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北条政子の最期の詞は幕府の御家人達の心を強く動かした。次々と幕府軍に加勢する御家人達、その勢力は19万人にもなったと聞く。権力で衝突した朝廷と幕府は武力による決着を求め、承久の乱にて幕府が朝廷に勝利した。

その後の日本

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