今日は承久の乱について勉強していきます。歴史を学ぶ上で朝廷と幕府は何かと比較されがちですが、その朝廷と幕府が戦ったのが1221年の承久の乱であり、勝利したのは幕府だった、

後鳥羽上皇が朝廷に権力を取り戻すことを目的として起こったこの戦いを詳しく見ていこう。そこで今回、承久の乱について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から承久の乱をわかりやすくまとめた。

東を統治する幕府、西を統治する朝廷

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武士の時代の到来

政治は天皇が行うもの……歴史においてその常識は遥か昔のこと、平清盛が武家政権を築いたのをきっかけに武士の時代が到来します。平家が朝廷の中で力を持つ時代が続き、しかしそれも源氏によって崩壊、源平合戦によって平家は滅亡して新たに源頼朝が鎌倉幕府を開きました

1185年の鎌倉幕府成立、平家の時代が終わって新たに訪れたのは源頼朝による再びの武士の時代、いつしか朝廷は以前ほどの権力を失い、武力を持つ武士が権力も持つ時代となったのです。最も、源頼朝は徳川家康のように全国統一したわけではないため、鎌倉幕府も日本全国を支配するほどの力はありませんでした。

元々源頼朝は東国で勢力を高めていたため、鎌倉幕府を開いた後も依然東国では影響力を持っていましたが、西国においては朝廷の影響力が勝っていたのです。すなわち東日本を統治する幕府と西日本を統治する朝廷、当時の日本の勢力はこのように東の幕府と西の朝廷で二分されていました。

鎌倉幕府の陰り

東国で影響力の強い鎌倉幕府でしたが、徐々に陰りが見え始めました。創業した源頼朝が死去すると源頼家が2代目将軍としてその後を継ぎますが、御家人から不満を招いていた源頼家は1204年に北条氏に暗殺され、また3代目将軍として後を継いだ源実朝も暗殺されてしまいます。

既に鎌倉幕府は執権の北条氏が権限を握っていましたが、将軍なくして権力の維持は難しく、だからと言って源頼朝の血を引く後継者は死去していたため、そこで北条政子が目をつけたのが雅成親王でした。雅成親王は後鳥羽上皇の皇子であり、北条政子は皇族の将軍を立てようとしたのです。

しかし後鳥羽上皇はその提案を拒否、北条政子の弟・北条時房は軍勢を率いて圧力をかけるものの後鳥羽上皇の意思は固く、「これは無理だ」と北条政子もさすがに諦めます。代わって将軍に任命されたのは摂関家の藤原頼経で、ただ摂関家と言っても藤原頼経は当時まだ2歳の幼児でした。

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後鳥羽上皇の決意

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西面武士の襲撃

まだ2歳の幼児に将軍が務まるはずはなく、ひとまず代わりとして北条政子が将軍を務めます。尼将軍と呼ばれる北条政子でしたが、立て続けに将軍が暗殺されて後継者がいない幕府は混乱しており、そこで後鳥羽上皇はこの機会に幕府を倒してしまおうと考えるようになりました。

皇族を将軍にすることを提案されて揉め、また朝廷に年貢を納めない武士も存在。何より、日本で最も高い地位に君臨する天皇を差し置き、武士が大きな顏をしている現状が許せなかったのでしょう。「西国だけでなく東国も支配して今一度朝廷が権力を握る時代を取り戻す!」……それが後鳥羽上皇の本心でした。

1219年、藤原頼経が将軍として鎌倉に入って間もない頃、大内裏守護で朝廷・幕府の仲介を務めていた源頼茂が襲撃される事件が起こります。実行したのは西面武士(さいめんのぶし)と呼ばれる後鳥羽上皇に仕える武家集団、追い詰められた源頼茂は自害したそうです。

倒幕への思い

源頼茂の襲撃を指示したのはもちろん後鳥羽上皇、その理由は源頼茂が将軍に就くための策某を練っていたためです。しかしそれはあくまで表向きの理由であり建前、実際には後鳥羽上皇が鎌倉幕府滅亡の加持祈祷を行ったことを源頼茂が察知したためと言われています。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府滅亡の加持祈祷を行ったと幕府に知られれば、当然幕府は後鳥羽上皇の倒幕の企みに気づくことでしょう。そのため情報の洩れを危惧した後鳥羽上皇が先手を打って襲撃したのではないかとされています。事実、加持祈祷を行った最勝四天王院はこの事件の直後に取り壊されていました。

源頼茂襲撃は、後鳥羽上皇にとって覚悟を決めるきっかけとなったのでしょう。そのため後鳥羽上皇は事件後に倒幕を決意、しかしこれに反対したのが後鳥羽上皇の第一皇子・土御門上皇(つちみかどじょうこう)で、摂政・近衞家実らもこれに同意見でした。

1221年5月・承久の乱

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後鳥羽上皇の院宣

後鳥羽上皇の倒幕の決断には朝廷でも賛否両論あり、賛成派として積極的に行動したのが後鳥羽上皇の第三皇子・順徳天皇でした。討幕推進派を結成するほどの勢いで倒幕に賛成する順徳天皇ですが、ただ天皇であるためその活動はどうしても制限されてしまいます。

そこで順徳天皇は何の未練もなく退位、「倒幕のための活動を行いたい!」……その理由だけで仲恭天皇を即位させ、倒幕反対の意見を訴えていた近衞家実を摂政から降ろしてしまいました。このため朝廷では倒幕に対する賛成派が一気に増加、各地の寺社では幕府転覆の加持祈祷も行われ、朝廷による倒幕決断が噂として日本中に広まります。

倒幕の決断をした後鳥羽上皇、そしていよいよ来る決行の時。1221年5月のこと、尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、伊賀・伊勢を含む六国の守護・大内惟信、次々と有力な守護と御家人らがこれに加勢、後鳥羽上皇が北条義時討伐の院宣を今ここに出し、承久の乱が勃発しました

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北条政子の最期の詞

院宣とは、上皇の命令を受けた院司が奉書形式で発給する文書。すなわち上皇の命令であり、天皇の命令に相当する効果がありました。ですから、朝廷の上皇軍は有力な御家人らも後鳥羽上皇の院宣に従って加勢するだろうと想定しており、勝利を確信していたに違いありません。

実際、後鳥羽上皇の挙兵を知った幕府の御家人達は動揺して怖れたそうです。朝廷の上皇が院宣を出して幕府を倒すために挙兵したのですから、武力を持つ幕府の御家人と言えど怖れるのは無理ないでしょう。しかしそんな中、演説を始めた女性がいます。その女性とは、亡き源頼朝の妻・北条政子でした。

「頼朝への恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。上皇の近臣を討って、実朝の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」……夫・源頼家への恩を切々と言葉にしたその演説。それは最後の詞と呼ばれるものでした。

承久の乱の決着

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後鳥羽上皇の院宣を凌駕した北条政子の最期の詞

幕府の御家人達にとって、北条政子の演説は後鳥羽上皇の院宣をかき消すほど心に響くものでした。さらに幕府が上皇軍討伐の恩賞を示すと、御家人達は武士本来の心の強さを取り戻して次々と幕府軍に加わり、その勢力はおよそ19万人もの大軍へとなります。

軍勢の言葉が軽く思えるほどの大軍勢、予想外の幕府軍の進軍に上皇軍は驚き恐怖しました。美濃、尾張、加賀にて迎撃を試みるものの失敗して突破されてしまい、全軍を挙げて幕府軍の京都への進軍を阻もうとします。しかし19万人もの大軍勢を止める術はなく、公家までが武装して戦う事態に陥りました。

朝廷が統治する西国からの援軍は期待できず、また北条政子の最期の詞で団結した幕府軍には一切の裏切り行為がありません。援軍も寝返りも見込めない上皇軍は宇治川橋を落とす戦術に出ます。橋を落として通行できなくした上で幕府軍に矢を浴びせる……しかしその戦術も武士には通用しませんでした。

勝利した幕府、敗北した朝廷

豪雨によって宇治川は増水、橋を壊して幕府軍の足止めをはかるものの、佐々木信綱の軍勢が物ともせずに渡ると幕府軍は一気にそれに続きます。権力で争った朝廷と幕府でしたが、武力・軍事力においての差は歴然で、幕府軍の突撃によって上皇軍は総崩れとなってしまいました。

もはや勝算はない上皇軍、後鳥羽上皇は逃走すると京都御所へと駆け込んで和平のための使者を幕府に送ります。そして北条義時討伐の院宣を取り消すと敗北を認め、こうして承久の乱は圧倒的な展開で幕府の勝利に終わりました。幕府に敗れた朝廷は、これで完全に幕府に支配される形となってしまいます。

倒幕を企てた後鳥羽上皇はもちろん、倒幕に賛成した順徳上皇、その他にも後鳥羽上皇に味方した関係者の多くが島流しに処されました。また上皇軍に加わった御家人や公家の所領を没収したことから、幕府軍で活躍した御家人には多くの褒美が与えられ、新たに補任した地頭も多く誕生したそうです。

その後の日本

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\次のページで「全国に支配が及ぶようになった幕府」を解説!/

全国に支配が及ぶようになった幕府

承久の乱による朝廷の屈服で、幕府は完全に政治の実権を握ることになりました。また、将来同様の反乱が起こる可能性への対処として、北条泰時は朝廷の監視を目的とした六波羅探題を京都に設置します。さらに皇位継承にも口を挟むようになった幕府は、朝廷を支配下に置いたと言っても過言ではないでしょう。

これまで日本は東国を幕府が統治、西国を朝廷が統治していました。しかし朝廷が敗北したことでその二分化もなくなり、朝廷が権力を失ったことで正真正銘の武家を中心とした日本へと変わります。さらに、承久の乱後には新たに補任した新補地頭が多く誕生しました。

そこで幕府はその者達を西国の各地に配置、こうしてとうとう西国にまで幕府の統治が及ぶようになりました。思えば、北条政子の最期の詞がなければ幕府は後鳥羽上皇の挙兵に屈していたかもしれません。源頼朝が鎌倉幕府を成立して今の時代を作り、その鎌倉幕府滅亡の危機を源頼朝の妻・北条政子が守ったのです。

争いを繰り返した朝廷と幕府

承久の乱では朝廷と幕府が争いましたが、同様の争いは今後も起こります。鎌倉幕府は1333年に滅亡しますが、滅ぼしたのは倒幕を掲げてきた後醍醐天皇率いる倒幕派で、この時もまた朝廷と幕府が争っており、幕府軍の足利尊氏が反旗を翻して後醍醐天皇側につきました。

鎌倉幕府滅亡後は再び朝廷による政治の時代が訪れますが、後醍醐天皇による建武の新政はすぐに崩壊、一変して足利尊氏によって再度武家政権が築かれます。そして徳川家康による江戸時代の到来、江戸幕府は250年以上続く長期政権となりました

しかし明治維新によって江戸幕府は滅亡、朝廷による天皇中心とした政治が復活して、武士の時代はここで終わりを告げることになります。朝廷と幕府は歴史の中で互いに政権掌握と失脚を繰り返し、最終的に日本は武士・武将の時代が終わって天皇中心とした中央集権国家を目指していくのです。

承久の乱は戦後処理が重要!

承久の乱を覚えるポイントは戦後の影響です。朝廷と幕府の争いという分かりやすい対立関係のため、戦いの原因などは比較的分かりやすく、また戦い自体においても要チェックなのは北条政子の最期の詞くらいでしょう。

それよりも戦後に日本は大きく変わるため、その点を中心に覚えると良いですね。六波羅探題の設置、幕府の全国支配、皇位継承における幕府の介入、このあたりは鎌倉時代末期を学ぶ際の知識としても役立つので、ぜひ覚えておきましょう。

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日本史歴史鎌倉時代

朝廷と幕府の権力争い「承久の乱」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は承久の乱について勉強していきます。歴史を学ぶ上で朝廷と幕府は何かと比較されがちですが、その朝廷と幕府が戦ったのが1221年の承久の乱であり、勝利したのは幕府だった、

後鳥羽上皇が朝廷に権力を取り戻すことを目的として起こったこの戦いを詳しく見ていこう。そこで今回、承久の乱について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から承久の乱をわかりやすくまとめた。

東を統治する幕府、西を統治する朝廷

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武士の時代の到来

政治は天皇が行うもの……歴史においてその常識は遥か昔のこと、平清盛が武家政権を築いたのをきっかけに武士の時代が到来します。平家が朝廷の中で力を持つ時代が続き、しかしそれも源氏によって崩壊、源平合戦によって平家は滅亡して新たに源頼朝が鎌倉幕府を開きました

1185年の鎌倉幕府成立、平家の時代が終わって新たに訪れたのは源頼朝による再びの武士の時代、いつしか朝廷は以前ほどの権力を失い、武力を持つ武士が権力も持つ時代となったのです。最も、源頼朝は徳川家康のように全国統一したわけではないため、鎌倉幕府も日本全国を支配するほどの力はありませんでした。

元々源頼朝は東国で勢力を高めていたため、鎌倉幕府を開いた後も依然東国では影響力を持っていましたが、西国においては朝廷の影響力が勝っていたのです。すなわち東日本を統治する幕府と西日本を統治する朝廷、当時の日本の勢力はこのように東の幕府と西の朝廷で二分されていました。

鎌倉幕府の陰り

東国で影響力の強い鎌倉幕府でしたが、徐々に陰りが見え始めました。創業した源頼朝が死去すると源頼家が2代目将軍としてその後を継ぎますが、御家人から不満を招いていた源頼家は1204年に北条氏に暗殺され、また3代目将軍として後を継いだ源実朝も暗殺されてしまいます。

既に鎌倉幕府は執権の北条氏が権限を握っていましたが、将軍なくして権力の維持は難しく、だからと言って源頼朝の血を引く後継者は死去していたため、そこで北条政子が目をつけたのが雅成親王でした。雅成親王は後鳥羽上皇の皇子であり、北条政子は皇族の将軍を立てようとしたのです。

しかし後鳥羽上皇はその提案を拒否、北条政子の弟・北条時房は軍勢を率いて圧力をかけるものの後鳥羽上皇の意思は固く、「これは無理だ」と北条政子もさすがに諦めます。代わって将軍に任命されたのは摂関家の藤原頼経で、ただ摂関家と言っても藤原頼経は当時まだ2歳の幼児でした。

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