
2-6、万次郎、咸臨丸に乗ってアメリカへ
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万延元年(1860年)、万次郎は、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸でアメリカに渡ることに。この咸臨丸では、船長の勝海舟の船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わって船内の秩序保持に努めたということ。
万次郎は、アメリカ人との交友を日本人船員に訝しがられるため、付き合い方に注意していたが、サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時には、福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入して持ち帰ったということ。
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2-7、万次郎、軍艦操練所教授に
万次郎は、文久元年(1861年)に咸臨丸を含んだ4隻の艦隊に乗り込んで、外国奉行水野忠徳に同行して小笠原諸島へ、当時そこに住んでいたアメリカ人やイギリス人と面識もあり、通訳を。
文久2年(1862年)万次郎は幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命。翌年、一番丸で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行ったということ。江戸に帰航後、再度の捕鯨航海は政情不安のため幕府の許可が下りず、翻訳をしたり、細川潤次郎などの士民に英語を教えたりの日々に。
そして慶応2年(1866年)、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教えたほか、藩命によって、後藤象二郎と長崎、上海へ赴いて土佐帆船「夕顔丸」を購入。 慶応3年(1867年)には、薩摩藩の招きを受けて鹿児島に行き航海術や英語を教授したが、12月には武力倒幕の機運が高まり江戸に戻ったということ。
2-8、万次郎、開成学校の英語教授に
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明治維新後、万次郎は明治2年(1869年)、明治政府によって開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命。 明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、病気で戦場には赴けずロンドンで待機したそう。帰国の途上アメリカに立ち寄り、恩人のホイットフィールド船長と再会、身に着けていた日本刀を贈呈。尚、この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中も展示されたが、後に盗まれ行方不明になり、現在はレプリカが展示されているということ。
万次郎は更に帰国途上にハワイにも立寄って、旧知の人々と再会。 万次郎は、帰国後に軽い脳溢血を起こし、数か月後には日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らすことに。時の政治家たちとも親交を深めて政治家になるよう誘われたが、教育者の道を選んだということ。 明治31年(1898年)、72歳で死去。
3-1、万次郎の与えた影響
万次郎はホイットフィールド船長に可愛がられたくらい利発な少年で、カンも鋭く有能な人だったということですが、ただ日本語が読み書きできず土佐弁しか話せなかったのですね。なので、アメリカにわたって英語を取得し、航海術や捕鯨についての知識は持っていても、それを的確に翻訳する日本語、特に漢字の知識がなく、また絵を描いて伝えようとしたが絵が上手に書けなかったので苦労したそう。
そういうわけで、西洋の体系的知識が求められた明治以降は、思ったように能力を発揮する機会に恵まれず。とはいえ、この幕末の時代に最も必要とされた色々な知識を持っていたのは間違いなく、例えば、嘉永5年(1852年)、土佐藩の絵師河田小龍(川田維鶴)が、万次郎に聞いてまとめた漂流記「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」は、坂本龍馬に影響を与えたし、龍馬には幕府の軍艦操練所で教えたこともあるしと、万次郎の知識は表に出なくても彼に色々教わった人たちに、かなりの影響を与えたということ。
3-2、日本初が多い人
万次郎は初めてアメリカ本土に渡った日本人でもあり、万次郎自身のアメリカでの初体験と、万次郎が日本に初めて紹介したものとで、初尽くしのひとでもあります。日本に紹介したものは、ABCの歌などで、初めて鉄道や蒸気船に乗った、ゴールドラッシュのカリフォルニアの金鉱で働いた、近代捕鯨船にたずさわった、ネクタイをした、初めてアメリカの学校へ通ったなども。
また、万次郎はおごることなく謙虚で、晩年は役人にとがめられても貧しい人には積極的に施しを続けたというのですから、ホイットフィールド船長が自分を養子にしてくれたことなどで、アメリカ人のボランティア精神を身を持って体験し実践した初の日本人かも。
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