幕末日本史歴史江戸時代

幕末に活躍した初のアメリカ帰りの日本人「中浜万次郎」について歴女がわかりやすく解説

2-2、万次郎、琉球に上陸、薩摩藩の取り調べ

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えぬ – 沖縄発!役に立たない写真集, パブリック・ドメイン, リンクによる

嘉永4年(1851年)2月2日、万次郎は、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受け、薩摩本土で本格的な取り調べに。薩摩藩では万次郎一行を厚遇、開明家で西洋文物に興味津々の当時の藩主島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問したということ。万次郎は、斉彬の命令で、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造したということ。斉彬は万次郎の英語や造船知識に注目、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招聘することに。

2-3、万次郎、長崎と土佐で取り調べを受け、ようやく帰郷

薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間の尋問を。長崎奉行所で踏み絵を行ってキリスト教徒でないことを証明、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩からの迎えの役人に引き取られ、土佐へ。そして高知城下で執政の吉田東洋らによる藩の取り調べを受け、その際に聞き取りに当たった河田小龍は、万次郎の話を記録した「漂巽紀略」を著すことに。そして約2か月後、万次郎は帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年、やっと故郷に。

帰郷後すぐに万次郎は土佐藩の定小者(さだこもの)という最下級の士分に取り立てられて、藩校「教授館」の教授となり、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えたということ。

2-4、万次郎、幕臣に取り立てられる

嘉永6年(1853年)、ペリー来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたので、万次郎は幕府に召聘されて江戸へ行き、直参旗本の身分を与えられ、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字に。万次郎は韮山代官江川英龍の配下となって軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、英会話書「英米対話捷径」の執筆、「ボーディッチ航海術書」の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働くように。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んだそう。安政元年(1854年)、万次郎は幕府剣道指南団野源之進の娘鉄と結婚。

2-5、万次郎、唯一の英語達者として苦労

当時の日本では、英語をまともに話せるのが万次郎だけだったので、マシュー・ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、オランダ語通訳の立場とか、はっきりいって万次郎には関係ないややこしい問題で、老中が万次郎スパイ疑惑を持ち出したため、ペリーの通訳の役目から下ろされるはめに。

しかし実際には日米和親条約の平和的締結でも、陰ながら助言や進言をして尽力したということ。そして万次郎は、幕府が難破したロシア船員と共同で建造した西洋式帆船の君沢形を、西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案、安政6年(1859年)3月に、中浜万次郎が指揮した君沢形一番は、品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨で船は損傷して航海は中止に。

封建時代なので、アメリカ帰りでの抜擢とはいえ元は土佐の漁民から幕臣に取り立てられるのは奇跡に近いことで、さらに最新知識を持つ万次郎は、かなりいわれのない嫉妬とか白眼視とかにさらされたということ。

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万次郎、いじめにあったのか、封建時代でなく今でも日本のいやなところだな。

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