今回は中浜万次郎を取り上げるぞ。土佐の漁民でアメリカの捕鯨船に助けてもらったんだっけ、その後のことも詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末明治の偉人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、中浜万次郎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、中浜万次郎は土佐の生まれ

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中浜万次郎(なかはままんじろう)は、文政10年(1827年)1月1日、土佐国幡多郡中ノ浜村(なかのはまむら)現在の高知県土佐清水市中浜〈なかのはま〉で、父悦介、母汐の次男として誕生。父は半農半漁の貧しい漁師で、万次郎が9歳のときに亡くなり母と兄も病弱のため、万次郎は10歳の頃、中浜浦老役の今津太平宅に下働きに。なので万次郎は、家族を養うために寺子屋に通えず、読み書きもほとんどできなかったということ。

尚、「ジョン万次郎」は、昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞小説の「ジョン萬次郎漂流記」井伏鱒二著で用いられた呼び名で、それ以前には使用されていないそう。

1-2、万次郎、漁船に乗り込んだが遭難

天保12年(1841年)1月5日、14歳の万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に、炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込むことに。仲間は、船頭の筆之丞(38歳、ハワイで伝蔵と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁労係の重助(25歳)、もうひとりの筆之丞の弟で櫓係の五右衛門(16歳)、おなじく櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)の5人。

この万次郎達の乗った船は、足摺岬の南東15kmほどの沖合で操業中に突然の強風で吹き流され、航行不能となって遭難。万次郎たちは5日半か10日漂流した後、伊豆諸島の無人島の一つ鳥島に漂着。鳥島でわずかな溜水、海藻、海鳥でしのいで143日間を生き延びたということ。そして5月9日に万次郎達は、アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が新鮮な植物の採取のために鳥島に立ち寄った際に乗組員に発見され、救助。

しかし、その頃の日本は鎖国の真っ最中で、外国船のジョン・ハウランド号に土佐に送り届けてもらうわけにいかず、アメリカへ向かうことに。そして天保13年(1842年)ハワイのホノルルに寄港したときに、救助された5名のうち万次郎を除く4名はハワイで下船。寅右衛門はそのまま移住、重助は5年後に病死、筆之丞(伝蔵)と五右衛門はのちに帰国を果たしたということ。

1-3、万次郎、アメリカ本土へ

万次郎は、頭の良い子で船長のホイットフィールドに気に入られ、万次郎自身の希望もあって捕鯨船員となってアメリカ本土を目指すことに。航海中、万次郎は、生まれて初めて世界地図を目にして島国日本の小ささに驚き、航海中にアメリカ人乗組員から、ジョン・マンと呼ばれるように。

1-4、万次郎、船長の養子となって学校教育を受ける

ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、万次郎たちは、ホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに帰港。当時はフェアヘブンはアメリカの捕鯨の一大拠点だったということで、今も博物館が。

そして万次郎はホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、天保14年(1843年)に、オックスフォード学校、翌年にはバートレット私塾で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学んだが、万次郎は寝る間も惜しんで熱心に勉強した末に、首席に。万次郎はアメリカンドリームの国で、民主主義や男女平等などとともに、人種差別も経験したということ。

2-1、万次郎、捕鯨船員に、日本への帰国を決意

万次郎は学校を卒業後、捕鯨船員となったが、やがて船員達の投票で同点1位になり、年長者に船長の地位を譲り副船長になるまでに。万次郎は弘化3年(1846年)19歳のときから数年間、近代捕鯨の捕鯨船員として生活したが、嘉永3年(1850年)5月、日本に帰る事を決意、帰国資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ行き、数ヶ月間、金鉱で金を採掘。そこで600ドルの資金得てホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会。その年の12月17日、漁師仲間と上海行きの商船に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」と日本へ向け出航。

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2-2、万次郎、琉球に上陸、薩摩藩の取り調べ

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嘉永4年(1851年)2月2日、万次郎は、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受け、薩摩本土で本格的な取り調べに。薩摩藩では万次郎一行を厚遇、開明家で西洋文物に興味津々の当時の藩主島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問したということ。万次郎は、斉彬の命令で、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造したということ。斉彬は万次郎の英語や造船知識に注目、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招聘することに。

2-3、万次郎、長崎と土佐で取り調べを受け、ようやく帰郷

薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間の尋問を。長崎奉行所で踏み絵を行ってキリスト教徒でないことを証明、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩からの迎えの役人に引き取られ、土佐へ。そして高知城下で執政の吉田東洋らによる藩の取り調べを受け、その際に聞き取りに当たった河田小龍は、万次郎の話を記録した「漂巽紀略」を著すことに。そして約2か月後、万次郎は帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年、やっと故郷に。

帰郷後すぐに万次郎は土佐藩の定小者(さだこもの)という最下級の士分に取り立てられて、藩校「教授館」の教授となり、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えたということ。

2-4、万次郎、幕臣に取り立てられる

嘉永6年(1853年)、ペリー来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたので、万次郎は幕府に召聘されて江戸へ行き、直参旗本の身分を与えられ、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字に。万次郎は韮山代官江川英龍の配下となって軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、英会話書「英米対話捷径」の執筆、「ボーディッチ航海術書」の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働くように。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んだそう。安政元年(1854年)、万次郎は幕府剣道指南団野源之進の娘鉄と結婚。

2-5、万次郎、唯一の英語達者として苦労

当時の日本では、英語をまともに話せるのが万次郎だけだったので、マシュー・ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、オランダ語通訳の立場とか、はっきりいって万次郎には関係ないややこしい問題で、老中が万次郎スパイ疑惑を持ち出したため、ペリーの通訳の役目から下ろされるはめに。

しかし実際には日米和親条約の平和的締結でも、陰ながら助言や進言をして尽力したということ。そして万次郎は、幕府が難破したロシア船員と共同で建造した西洋式帆船の君沢形を、西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案、安政6年(1859年)3月に、中浜万次郎が指揮した君沢形一番は、品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨で船は損傷して航海は中止に。

封建時代なので、アメリカ帰りでの抜擢とはいえ元は土佐の漁民から幕臣に取り立てられるのは奇跡に近いことで、さらに最新知識を持つ万次郎は、かなりいわれのない嫉妬とか白眼視とかにさらされたということ。

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2-6、万次郎、咸臨丸に乗ってアメリカへ

咸臨丸?
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 万延元年(1860年)、万次郎は、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸でアメリカに渡ることに。この咸臨丸では、船長の勝海舟の船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わって船内の秩序保持に努めたということ。

万次郎は、アメリカ人との交友を日本人船員に訝しがられるため、付き合い方に注意していたが、サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時には、福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入して持ち帰ったということ。

2-7、万次郎、軍艦操練所教授に

万次郎は、文久元年(1861年)に咸臨丸を含んだ4隻の艦隊に乗り込んで、外国奉行水野忠徳に同行して小笠原諸島へ、当時そこに住んでいたアメリカ人やイギリス人と面識もあり、通訳を。

文久2年(1862年)万次郎は幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命。翌年、一番丸で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行ったということ。江戸に帰航後、再度の捕鯨航海は政情不安のため幕府の許可が下りず、翻訳をしたり、細川潤次郎などの士民に英語を教えたりの日々に。

そして慶応2年(1866年)、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教えたほか、藩命によって、後藤象二郎と長崎、上海へ赴いて土佐帆船「夕顔丸」を購入。 慶応3年(1867年)には、薩摩藩の招きを受けて鹿児島に行き航海術や英語を教授したが、12月には武力倒幕の機運が高まり江戸に戻ったということ。

2-8、万次郎、開成学校の英語教授に

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明治維新後、万次郎は明治2年(1869年)、明治政府によって開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命。 明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、病気で戦場には赴けずロンドンで待機したそう。帰国の途上アメリカに立ち寄り、恩人のホイットフィールド船長と再会、身に着けていた日本刀を贈呈。尚、この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中も展示されたが、後に盗まれ行方不明になり、現在はレプリカが展示されているということ。

万次郎は更に帰国途上にハワイにも立寄って、旧知の人々と再会。 万次郎は、帰国後に軽い脳溢血を起こし、数か月後には日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らすことに。時の政治家たちとも親交を深めて政治家になるよう誘われたが、教育者の道を選んだということ。 明治31年(1898年)、72歳で死去。

3-1、万次郎の与えた影響

万次郎はホイットフィールド船長に可愛がられたくらい利発な少年で、カンも鋭く有能な人だったということですが、ただ日本語が読み書きできず土佐弁しか話せなかったのですね。なので、アメリカにわたって英語を取得し、航海術や捕鯨についての知識は持っていても、それを的確に翻訳する日本語、特に漢字の知識がなく、また絵を描いて伝えようとしたが絵が上手に書けなかったので苦労したそう。

そういうわけで、西洋の体系的知識が求められた明治以降は、思ったように能力を発揮する機会に恵まれず。とはいえ、この幕末の時代に最も必要とされた色々な知識を持っていたのは間違いなく、例えば、嘉永5年(1852年)、土佐藩の絵師河田小龍(川田維鶴)が、万次郎に聞いてまとめた漂流記「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」は、坂本龍馬に影響を与えたし、龍馬には幕府の軍艦操練所で教えたこともあるしと、万次郎の知識は表に出なくても彼に色々教わった人たちに、かなりの影響を与えたということ。

3-2、日本初が多い人

万次郎は初めてアメリカ本土に渡った日本人でもあり、万次郎自身のアメリカでの初体験と、万次郎が日本に初めて紹介したものとで、初尽くしのひとでもあります。日本に紹介したものは、ABCの歌などで、初めて鉄道や蒸気船に乗った、ゴールドラッシュのカリフォルニアの金鉱で働いた、近代捕鯨船にたずさわった、ネクタイをした、初めてアメリカの学校へ通ったなども。

また、万次郎はおごることなく謙虚で、晩年は役人にとがめられても貧しい人には積極的に施しを続けたというのですから、ホイットフィールド船長が自分を養子にしてくれたことなどで、アメリカ人のボランティア精神を身を持って体験し実践した初の日本人かも。

\次のページで「3-3、万次郎の英語」を解説!/

3-3、万次郎の英語

万次郎は、耳から聞こえた英語の発音をそのまま書いているので、現在の英語のカタカナ表記とはかなり違っているが、通用するというところが面白いです。万次郎が記述した英語辞典の発音法の一例として、waterが、わら、New Yorkがにゅうよぅ、coolがこーる、などがあり、「what time is it now?」が「ほったいもいじくっでねえ」というのも有名。これが現在の英米人に万次郎の発音通りに話すと、十分通じるという実験結果もあって、日本人にも発音しやすい英語として教えている英会話教室もあるそう。

3-4、日本よりもアメリカでの評価が高い

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アメリカの第30代大統領のクーリッジは、「万次郎の帰国はアメリカが最初に大使を日本に送ったに等しい」と語り、アメリカ建国200年の際にワシントンのスミソニアン研究所が催した「海外からの米国訪問者展」のわずか29人の中に、「アメリカ見聞録」を著したイギリスのチャールズ・ディケンズらと並んで万次郎が選ばれたことも。

また、万次郎の物語は「太平洋序曲」というブロードウェイ・ミュージカルに。
日本の万次郎の子孫は、アメリカのホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けているということで、万次郎の出身地の土佐清水市は、アメリカでの万次郎の第2の故郷というべきニューベッドフォード、フェアヘブンの両市と姉妹都市盟約を締結し、現在も街ぐるみの交流が継続中。

明治維新で活躍した人たちに確実に影響を与えた陰の功労者

中浜万次郎は、わずか14歳で海で遭難したが、アメリカの捕鯨船に救助されてアメリカへ渡り、捕鯨や船についてなど、いろいろなことを勉強した後に自らの意思で日本へ帰国、ちょうどペリー来航で必要とされた知識を口頭や口述で当時の人たちに伝えて大変な影響を与えた人。

遭難して外国船に救助された漁民は他にもいますが、万次郎のように、アメリカで学校へ通って知識を得てから自分の意志で日本に帰国後、ペリー来航や咸臨丸での渡米、幕府の軍艦操練所などで教授したりとアメリカで得た知識や情報を大勢に伝えた人はほとんどいないといっていいでしょう。

万次郎は本を著したりしてはいないので、具体的に本人の功績といわれるものがはっきりしないのですが、島津斉彬、勝海舟から坂本龍馬、板垣退助、後藤象二郎に岩崎弥太郎などが成し遂げたことに充分大きな影響を与えたのは間違いない。日本初ずくしの万次郎は、やっぱり日本人初のアメリカンドリームを成し遂げた人なんですね。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末に活躍した初のアメリカ帰りの日本人「中浜万次郎」について歴女がわかりやすく解説

今回は中浜万次郎を取り上げるぞ。土佐の漁民でアメリカの捕鯨船に助けてもらったんだっけ、その後のことも詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末明治の偉人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、中浜万次郎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、中浜万次郎は土佐の生まれ

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中浜万次郎(なかはままんじろう)は、文政10年(1827年)1月1日、土佐国幡多郡中ノ浜村(なかのはまむら)現在の高知県土佐清水市中浜〈なかのはま〉で、父悦介、母汐の次男として誕生。父は半農半漁の貧しい漁師で、万次郎が9歳のときに亡くなり母と兄も病弱のため、万次郎は10歳の頃、中浜浦老役の今津太平宅に下働きに。なので万次郎は、家族を養うために寺子屋に通えず、読み書きもほとんどできなかったということ。

尚、「ジョン万次郎」は、昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞小説の「ジョン萬次郎漂流記」井伏鱒二著で用いられた呼び名で、それ以前には使用されていないそう。

1-2、万次郎、漁船に乗り込んだが遭難

天保12年(1841年)1月5日、14歳の万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に、炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込むことに。仲間は、船頭の筆之丞(38歳、ハワイで伝蔵と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁労係の重助(25歳)、もうひとりの筆之丞の弟で櫓係の五右衛門(16歳)、おなじく櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)の5人。

この万次郎達の乗った船は、足摺岬の南東15kmほどの沖合で操業中に突然の強風で吹き流され、航行不能となって遭難。万次郎たちは5日半か10日漂流した後、伊豆諸島の無人島の一つ鳥島に漂着。鳥島でわずかな溜水、海藻、海鳥でしのいで143日間を生き延びたということ。そして5月9日に万次郎達は、アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が新鮮な植物の採取のために鳥島に立ち寄った際に乗組員に発見され、救助。

しかし、その頃の日本は鎖国の真っ最中で、外国船のジョン・ハウランド号に土佐に送り届けてもらうわけにいかず、アメリカへ向かうことに。そして天保13年(1842年)ハワイのホノルルに寄港したときに、救助された5名のうち万次郎を除く4名はハワイで下船。寅右衛門はそのまま移住、重助は5年後に病死、筆之丞(伝蔵)と五右衛門はのちに帰国を果たしたということ。

1-3、万次郎、アメリカ本土へ

万次郎は、頭の良い子で船長のホイットフィールドに気に入られ、万次郎自身の希望もあって捕鯨船員となってアメリカ本土を目指すことに。航海中、万次郎は、生まれて初めて世界地図を目にして島国日本の小ささに驚き、航海中にアメリカ人乗組員から、ジョン・マンと呼ばれるように。

1-4、万次郎、船長の養子となって学校教育を受ける

ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、万次郎たちは、ホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに帰港。当時はフェアヘブンはアメリカの捕鯨の一大拠点だったということで、今も博物館が。

そして万次郎はホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、天保14年(1843年)に、オックスフォード学校、翌年にはバートレット私塾で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学んだが、万次郎は寝る間も惜しんで熱心に勉強した末に、首席に。万次郎はアメリカンドリームの国で、民主主義や男女平等などとともに、人種差別も経験したということ。

2-1、万次郎、捕鯨船員に、日本への帰国を決意

万次郎は学校を卒業後、捕鯨船員となったが、やがて船員達の投票で同点1位になり、年長者に船長の地位を譲り副船長になるまでに。万次郎は弘化3年(1846年)19歳のときから数年間、近代捕鯨の捕鯨船員として生活したが、嘉永3年(1850年)5月、日本に帰る事を決意、帰国資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ行き、数ヶ月間、金鉱で金を採掘。そこで600ドルの資金得てホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会。その年の12月17日、漁師仲間と上海行きの商船に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」と日本へ向け出航。

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