その辺のところを幕末に目のないあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、中浜万次郎は土佐の生まれ
- 1-2、万次郎、漁船に乗り込んだが遭難
- 1-3、万次郎、アメリカ本土へ
- 1-4、万次郎、船長の養子となって学校教育を受ける
- 2-1、万次郎、捕鯨船員に、日本への帰国を決意
- 2-2、万次郎、琉球に上陸、薩摩藩の取り調べ
- 2-3、万次郎、長崎と土佐で取り調べを受け、ようやく帰郷
- 2-4、万次郎、幕臣に取り立てられる
- 2-5、万次郎、唯一の英語達者として苦労
- 2-6、万次郎、咸臨丸に乗ってアメリカへ
- 2-7、万次郎、軍艦操練所教授に
- 2-8、万次郎、開成学校の英語教授に
- 3-1、万次郎の与えた影響
- 3-2、日本初が多い人
- 3-3、万次郎の英語
- 3-4、日本よりもアメリカでの評価が高い
- 明治維新で活躍した人たちに確実に影響を与えた陰の功労者
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末明治の偉人には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、中浜万次郎について5分でわかるようにまとめた。
1-1、中浜万次郎は土佐の生まれ
中浜万次郎(なかはままんじろう)は、文政10年(1827年)1月1日、土佐国幡多郡中ノ浜村(なかのはまむら)現在の高知県土佐清水市中浜〈なかのはま〉で、父悦介、母汐の次男として誕生。父は半農半漁の貧しい漁師で、万次郎が9歳のときに亡くなり母と兄も病弱のため、万次郎は10歳の頃、中浜浦老役の今津太平宅に下働きに。なので万次郎は、家族を養うために寺子屋に通えず、読み書きもほとんどできなかったということ。
尚、「ジョン万次郎」は、昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞小説の「ジョン萬次郎漂流記」井伏鱒二著で用いられた呼び名で、それ以前には使用されていないそう。
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1-2、万次郎、漁船に乗り込んだが遭難
天保12年(1841年)1月5日、14歳の万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に、炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込むことに。仲間は、船頭の筆之丞(38歳、ハワイで伝蔵と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁労係の重助(25歳)、もうひとりの筆之丞の弟で櫓係の五右衛門(16歳)、おなじく櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)の5人。
この万次郎達の乗った船は、足摺岬の南東15kmほどの沖合で操業中に突然の強風で吹き流され、航行不能となって遭難。万次郎たちは5日半か10日漂流した後、伊豆諸島の無人島の一つ鳥島に漂着。鳥島でわずかな溜水、海藻、海鳥でしのいで143日間を生き延びたということ。そして5月9日に万次郎達は、アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が新鮮な植物の採取のために鳥島に立ち寄った際に乗組員に発見され、救助。
しかし、その頃の日本は鎖国の真っ最中で、外国船のジョン・ハウランド号に土佐に送り届けてもらうわけにいかず、アメリカへ向かうことに。そして天保13年(1842年)ハワイのホノルルに寄港したときに、救助された5名のうち万次郎を除く4名はハワイで下船。寅右衛門はそのまま移住、重助は5年後に病死、筆之丞(伝蔵)と五右衛門はのちに帰国を果たしたということ。
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1-3、万次郎、アメリカ本土へ
万次郎は、頭の良い子で船長のホイットフィールドに気に入られ、万次郎自身の希望もあって捕鯨船員となってアメリカ本土を目指すことに。航海中、万次郎は、生まれて初めて世界地図を目にして島国日本の小ささに驚き、航海中にアメリカ人乗組員から、ジョン・マンと呼ばれるように。
1-4、万次郎、船長の養子となって学校教育を受ける
ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、万次郎たちは、ホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに帰港。当時はフェアヘブンはアメリカの捕鯨の一大拠点だったということで、今も博物館が。
そして万次郎はホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、天保14年(1843年)に、オックスフォード学校、翌年にはバートレット私塾で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学んだが、万次郎は寝る間も惜しんで熱心に勉強した末に、首席に。万次郎はアメリカンドリームの国で、民主主義や男女平等などとともに、人種差別も経験したということ。
2-1、万次郎、捕鯨船員に、日本への帰国を決意
万次郎は学校を卒業後、捕鯨船員となったが、やがて船員達の投票で同点1位になり、年長者に船長の地位を譲り副船長になるまでに。万次郎は弘化3年(1846年)19歳のときから数年間、近代捕鯨の捕鯨船員として生活したが、嘉永3年(1850年)5月、日本に帰る事を決意、帰国資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ行き、数ヶ月間、金鉱で金を採掘。そこで600ドルの資金得てホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会。その年の12月17日、漁師仲間と上海行きの商船に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」と日本へ向け出航。
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