今日は北条政子について勉強していきます。鎌倉幕府を開いた源頼朝、その妻となる女性が北条政子です。源頼朝に仕えながらも芯は強く、夫亡き後は幕府を実権も握った彼女。

そんな女性の一生をここで振り返ってみることにしよう。69歳まで生きた北条政子はどのような一生を送ったのか。そこで今回、北条政子について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から北条政子をわかりやすくまとめた。

源頼朝との結婚

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運命の出会い

1157年に誕生した北条政子、父は将来鎌倉幕府の初代執権に就任することになる北条時政です。源頼朝の父・源義朝は平治の乱にて敗北、そのため息子・源頼朝は伊豆へと流されてしまいます。父が敗北したこと、伊豆に流されたこと、いずれも源頼朝にとってそれは屈辱だったかもしれません。

しかし、そんな辛い境遇は運命の出会いへとつながっていきます。伊豆に流された源頼朝の監視役となったのが北条時政、それがきっかけで源頼朝と北条政子は出会い、そして恋仲へとなっていきました。しかし当時は平氏の全盛期、源頼朝に一切の価値がないと思った北条時政は二人の恋仲に賛成できません。

周囲が反対する中、それでも源頼朝を愛する北条政子は反対を押し切って結婚、源頼朝の妻となりました。やがて二人の間には子供が生まれ、長女・大姫を授かります。そして源頼朝はこの頃から力をつけ始め、東国を中心に多くの武士を味方につけて勢力を強めていました。

御台所と鎌倉殿

万全の体制を整えたということなのか、源頼朝は北条政子を連れて平氏打倒に向けて鎌倉へと挙兵します。そして1180年の富士川の戦いにおいて勝利した源頼朝は鎌倉殿と呼ばれるようになり、妻の北条政子も御台所と呼ばれるようになりました。その後、1182年には二人目の子となる源頼家が誕生しています。

翌1183年のこと、源頼朝は対立中だった従兄弟(いとこ)の源義仲と和解、源義仲の嫡子・源義高と源頼朝の長女・大姫が婚姻関係を結ぶまでに至りました。ちなみに嫡子とは正室が生んだ男子の中で最も年長の子を示す言葉、それは一見長男とイコールに思えますが、側室の存在を考えると「嫡子=長男」とは限らないのです

お互い和解と子供の結婚によって関係修復したかのように思えた源頼朝と源義仲、しかし1184年になると源頼朝は源義仲の討伐を決意、弟である源範頼と源義経の手によって源義仲を討ち取ります。さらに源頼朝が源義高を殺害、源頼朝の長女であり同時に源義高の妻である大姫は、悲しみに打ちひしがれたそうです。

源頼朝の死

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\次のページで「鎌倉幕府の設立」を解説!/

鎌倉幕府の設立

東国で勢力を強めてきた源頼朝は、1185年の壇ノ浦の戦いにてとうとう平家を滅亡させました。平氏に代わって政権を握るまでに至った源頼朝は鎌倉幕府を設立、一方で弟の源義経とは対立関係となってしまい、結果弟は奥州の藤原泰衡に追い詰められて自害しています。

その際、源頼朝も奥州に向かいましたが、それに伴って北条政子は夫・源頼朝の勝利を祈願するため鶴岡八幡宮で百度参りしたそうです。その祈りが届いたのか源頼朝は奥州征伐にて勝利、奥州藤原氏を滅亡させると1192年に征夷大将軍に任命されました。

さらに同年、北条政子は源実朝を出産、将来彼は第3代・征夷大将軍になる人物です。1195年になると北条政子は上洛して京都に入り、長女である大姫の後鳥羽天皇への入内を丹後局(たんごのつぼね)と協議しました。しかし、大姫は病気を患ったためその2年後に死去しています。

相次ぐ身内の死去

長女の入内が無理なら次女を入内させると言わんばかりに、今度は夫・源頼朝が次女・三幡の入内を考えますが、土御門通親(つちみかどみちちか)に阻まれてしまいます。さらに北条政子にとってこの上なく辛い出来事が起こり、それは夫・源頼朝の死去……1199年のことでした。

ちなみに「源頼朝は落馬によって体調を崩して死去した」とされています。しかしそれはあくまで一説、相模川で催されていた橋供養からの帰路で体調を崩したのは確かとなっていますが、その原因が本当に落馬によるものなのかは実際のところ定かではありません

さて、不幸は立て続けに起こるものなのでしょうか。源頼朝が死去したことで次女・三幡の入内は保留となりますが、肝心の次女・三幡もまた病気を患ってしまって死去、そのため入内の話は完全に無くなりました。源頼朝が死去したことで家督を継いだのが第二子である源頼家、ここから北条政子の人生はまた大きく変わっていきます。

激動の幕府

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北条政子の出家・尼御台

源頼朝の亡き後に家督を継いで第2代・征夷大将軍となった源頼家、そして北条政子は出家して尼となり尼御台と呼ばれるようになります。さてその源頼家ですが、どうも評判が良くありません。不祥事を起こしてそれを北条政子が解決に回ったという記録が残っていますし、御家人からは嫌われていたそうです。

政治そっちのけで蹴鞠と呼ばれる当時の球技に夢中になる源頼家は、仕える御家人達から不満が高まる一方でした。最も、源頼家のそんな毎日も長くは続かず、1203年に病気を患って危篤、ここで北条政子と父・北条時政はある大きな決断をしたのです

その決断とは日本を分割させること、源頼家の嫡子・一幡と源頼家の弟・実朝で日本を分けてしまおうと考えました。これを知った源頼家は怒り、北条氏の討伐を命じたのです。しかし、源頼家によりも一枚上手だったのは北条氏、北条政子は父・北条時政に使者を送ると源頼家の家臣である比企能員を殺害、1203年の比企能員の変と呼ばれる政変でのことでした。

北条時政の計画とそれを阻止する北条政子

家臣を殺害された源頼家は奇跡的にも体調が回復、比企能員殺害の事実を知ると自らの祖父である北条時政の討伐を誓います。しかしその実行は極めて難しく、なぜなら政治の実権は既に北条氏が握っていたからで、源頼家は権力を奪われた末に幽閉されてしまうのでした。

1204年に源頼家が死去すると、源実朝が後を継いで第3代・征夷大将軍に就きます。最も、この頃の征夷大将軍は幕府のトップと言えるほどの権力はなく、その権力を握っていたのは初代執権に就任していた北条時政、さらに北条時政は妻である牧の方と共に政権の独占を計画しました。

そんな父・北条時政の企みを知った北条政子は源実朝を連れ戻しますが、一方の父・北条時政は源実朝に代わって平賀朝雅を征夷大将軍にする計画を進めていきます。1205年の牧氏事件、北条政子は弟・北条義時と手を組んで父の計画を阻止、父・北条時政は伊豆へと追放されることになり、代わって弟・北条義時が執権となりました。

\次のページで「再び朝廷へ政権を取り戻そうと願う者」を解説!/

再び朝廷へ政権を取り戻そうと願う者

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源実朝の暗殺

第3代・征夷大将軍となった源実朝は大変優秀で、源頼家とは全く違いました。教養が高かったことから朝廷の公家政権とも上手く溶け込み、そのため後鳥羽上皇は源実朝の能力を高く評価して優遇していたそうです。しかし、同時にそれに不満を持つ御家人も少なくありませんでした。

公家と親密にする源実朝は武家の御家人からすれば面白くなく、源頼家は公家との関係を築いたことが災いして1219年に暗殺されてしまいます。さて、ここで一つ話を挟んで少々解説すると、以前北条政子が上洛して長女・大姫の入内を望んだ際、その相手は後鳥羽天皇でした。しかしこの時点では後鳥羽上皇になっており、これは院政の影響です。

院政では天皇が次の天皇に皇位を譲ると上皇になる仕組みで、つまり大姫入内の協議当時は天皇だった後鳥羽天皇ですが、源実朝を評価していた時点では既に天皇を退いて上皇になっています。つまり、後鳥羽天皇と後鳥羽上皇は同一人物として捉えてくださいね。

後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立

源実朝が暗殺されたことで、北条政子は次期将軍に後鳥羽上皇の皇子を希望します。しかし、皇族の将軍という肩書きを後鳥羽上皇は好まず、そのため北条政子の申し出を拒否しました。それでは致し方ないと、弟・北条義時が次期将軍に任命したのが摂関家である藤原頼経です。

最も、藤原頼経は当時まだ2歳の幼児ですから当然将軍の仕事など全うできるはずはなく、将軍の代わりを務めてみせたのが北条政子でした。そんな北条政子の姿に、人々は彼女のことを尼将軍と呼んだそうです。それにしても波乱続きの鎌倉幕府、今度はそんな幕府自体を潰そうとする者が現れます。

思えば平清盛が武家政権を築いて以降、平氏源氏と武士の時代が続いていき、本来政治を行っているはずの朝廷がまるで権限を失っていました。そこで、再び朝廷の権力を復活させたいと望む後鳥羽上皇が鎌倉幕府と対立、それが承久の乱と呼ばれる朝廷と幕府の戦いを引き起こすのです。

北条政子の人生

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\次のページで「最期の詞」を解説!/

最期の詞

1221年の承久の乱、それは政権復活を望んだ後鳥羽上皇が鎌倉幕府と対立した末、後鳥羽上皇が京都守護の伊賀光季を殺害したことがきっかけとなって起こります。後鳥羽上皇は弟・北条義時の討伐を命令、そして挙兵した事実に御家人全員が怖れて震え上がりました

朝廷が本気で挙兵したことに動揺する御家人達、そんな状況のもと気丈に振る舞ったのが北条政子です。北条政子は「最期の詞」と称して演説を行い、その演説とは源頼朝への恩、そして3代に渡った将軍家の恩に報いるためにも敵を倒せと伝えたものでした。

「故右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義を討って、三代将軍の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」……感動した御家人達は団結して奮い立ち、敵を討つ武士の心を今一度取り戻しました。

波乱万丈の一生

まさか幕府が軍を率いて出撃するとは完全に予想外、幕府の大軍に怖れた後鳥羽上皇は降伏します。承久の乱に勝利した幕府のため北条政子は戦後処理に尽力、後鳥羽上皇は流罪に処されることになりました。1224年、これまで執権を務めて弟・北条義時が死去したことで、嫡子の北条泰時が執権に就任します。

しかし、亡き弟・北条義時の後室・伊賀の方は実の子である北条政村が執権に立つことを望みました。そこで、有力な御家人である三浦義村との結託を企みますが、その情報を得た北条政子は三浦義村の元へと赴き、「伊賀の方の計画に自身も加担しているのか?」と直接詰問します。

これを認めた三浦義村は改めて北条泰時への忠誠を誓い、計画を企てた伊賀の方は伊豆へと追放、北条政子はまたしても鎌倉幕府を守ったのです。それが1224年の伊賀氏の変、まさに波乱万丈の言葉が相応しい源頼朝の夫人として生きた北条政子の人生、その人生は69歳にて幕を閉じました。

北条政子という物語は3部作!

北条政子を覚えるポイントは、一生を3つに分けて覚えることです。源頼朝の妻だけあって北条政子の一生を辿ると覚えることは多く、そのためストレートに一生を辿って覚えていくのはおすすめできません。

北条政子は人生の中で御台所、尼御台、尼将軍と呼ばれた時期があり、偶然なのかそれぞれ呼ばれた時期を境に大きな出来事が起こっています。そこで、北条政子という物語を御台所編、尼御台編、尼将軍編の3部作に分けて考えると覚えやすくなりますよ。

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日本史歴史鎌倉時代

幕府に捧げた波乱万丈の一生「北条政子」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は北条政子について勉強していきます。鎌倉幕府を開いた源頼朝、その妻となる女性が北条政子です。源頼朝に仕えながらも芯は強く、夫亡き後は幕府を実権も握った彼女。

そんな女性の一生をここで振り返ってみることにしよう。69歳まで生きた北条政子はどのような一生を送ったのか。そこで今回、北条政子について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から北条政子をわかりやすくまとめた。

源頼朝との結婚

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運命の出会い

1157年に誕生した北条政子、父は将来鎌倉幕府の初代執権に就任することになる北条時政です。源頼朝の父・源義朝は平治の乱にて敗北、そのため息子・源頼朝は伊豆へと流されてしまいます。父が敗北したこと、伊豆に流されたこと、いずれも源頼朝にとってそれは屈辱だったかもしれません。

しかし、そんな辛い境遇は運命の出会いへとつながっていきます。伊豆に流された源頼朝の監視役となったのが北条時政、それがきっかけで源頼朝と北条政子は出会い、そして恋仲へとなっていきました。しかし当時は平氏の全盛期、源頼朝に一切の価値がないと思った北条時政は二人の恋仲に賛成できません。

周囲が反対する中、それでも源頼朝を愛する北条政子は反対を押し切って結婚、源頼朝の妻となりました。やがて二人の間には子供が生まれ、長女・大姫を授かります。そして源頼朝はこの頃から力をつけ始め、東国を中心に多くの武士を味方につけて勢力を強めていました。

御台所と鎌倉殿

万全の体制を整えたということなのか、源頼朝は北条政子を連れて平氏打倒に向けて鎌倉へと挙兵します。そして1180年の富士川の戦いにおいて勝利した源頼朝は鎌倉殿と呼ばれるようになり、妻の北条政子も御台所と呼ばれるようになりました。その後、1182年には二人目の子となる源頼家が誕生しています。

翌1183年のこと、源頼朝は対立中だった従兄弟(いとこ)の源義仲と和解、源義仲の嫡子・源義高と源頼朝の長女・大姫が婚姻関係を結ぶまでに至りました。ちなみに嫡子とは正室が生んだ男子の中で最も年長の子を示す言葉、それは一見長男とイコールに思えますが、側室の存在を考えると「嫡子=長男」とは限らないのです

お互い和解と子供の結婚によって関係修復したかのように思えた源頼朝と源義仲、しかし1184年になると源頼朝は源義仲の討伐を決意、弟である源範頼と源義経の手によって源義仲を討ち取ります。さらに源頼朝が源義高を殺害、源頼朝の長女であり同時に源義高の妻である大姫は、悲しみに打ちひしがれたそうです。

源頼朝の死

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