3-2、日本の地方の風土病などの論文を
ベルツは、長岡に旅行し、長岡病院の医員川上清哉の案内で信濃川流域で多発する熱病を調査し、川上との共著で「日本河川熱または洪水熱」という論文にまとめたが、川上は後にベルツの論文によるところが多いツツガムシ病の研究論文を発表、ベルツの論文が注目を集め先鞭をつけたということ。また結核性でない喀血患者を診察して世界初の肺寄生虫を発見、また、脚気の研究にも精力を注ぎ、ヨーロッパのベリベリだとして、地方性伝染病であると考えたそう。
3-3、人類学的に日本人を研究
ベルツは日本人の身体的特徴についても論文を書いたが、これは人類学的に日本人を研究した最初のもので、アイヌ人研究の端緒でもあるということ。ベルツの日本通はドイツでも有名になり、明治13年(1880年)には世界的な権威のマイヤー百科事典の日本についての項目の執筆を任されたということ。
3-4、草津温泉を紹介
ベルツは古くから伝わる日本のものから、積極的に価値を見出して取り上げていたのですが、群馬県の草津温泉を再発見して、世界に紹介。
明治11年(1878年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に日本で最上の山の空気と理想的な飲料水があり、もしこんな土地がヨーロッパにあれば、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わう」と評価、政府にも温泉治療を指導すべきと説き、明治23年(1890年)には、草津に約6000坪の土地と温泉を購入して温泉保養地作りを目指し、ドイツでも草津の時間湯を研究した論文を発表したほど。
尚、草津温泉には現在ベルツにちなんだ「ベルツ通り」が。 ベルツは噴火直後の草津白根山に登頂して手記を残し、現在も貴重な火山学的資料に。
また、伊香保温泉には別荘を持ち、友人知人とよく訪れたということ。
3-5、保養地や運動を推奨
当時の日本は結核で若い命が失われることが多く、ベルツはドイツのブレーメンの療養所のようなところがないと惜しみ、駐日イタリア公使のマルチーノが逗子や葉山を保養地を提唱したときは、ベルツも医学的見地から同意したそう。
またベルツは当時の上流階級の主治医を務めていたので保養地や別荘を推奨したが、限られた階層以外の学生たちには、勉強ばかりではなくスポーツをすすめ、日本の伝統的武術にも興味を示し直心影流剣術の榊原鍵吉に弟子入りしたり、また海水浴なども奨励したということ。
3-6、蒙古斑
日本人の赤ちゃんのお尻にある蒙古斑は、明治18年(1885年)にベルツが論文で取り上げて命名。
3-7、ベルツ水
明治16年(1883年)、ベルツは箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見て「ベルツ水」を処方。現在はグリセリンカリ液という名前で薬局で売っている、ひび割れ、あかぎれ用のアルカリ性の皮膚軟化剤。
3-8、日本美術・工芸品の収集
ベルツは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男でアレクサンダーの弟のハインリヒ・フォン・シーボルトと仲が良く、彼の影響を強く受けて、日本の美術工芸品にも興味を持ち、ハナ夫人の協力を得て、江戸時代中後期から明治時代前半の日本美術工芸品約6000点を収集。特に、絵師の河鍋暁斎を高く評価し親しく付き合ったそう。尚、ベルツ・コレクションは、シュトゥットガルトのリンデン民俗学博物館に収蔵。
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