その辺のところを明治時代の外国人日本研究家も好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、エルヴィン・フォン・ベルツは南ドイツの生まれ
- 1-2、ベルツの受けた教育
- 1-3、ベルツ、日本の留学生を診察
- 2-1、ベルツ、日本へ招聘される
- 2-2、ハナ夫人と出会う
- 2-3、ベルツ、東京大学医学部教授を25年務めて退職、宮内省掛医に
- 2-4、ベルツの晩年
- 3-1、ベルツの功績
- 3-2、日本の地方の風土病などの論文を
- 3-3、人類学的に日本人を研究
- 3-4、草津温泉を紹介
- 3-5、保養地や運動を推奨
- 3-6、蒙古斑
- 3-7、ベルツ水
- 3-8、日本美術・工芸品の収集
- 3-9、ベルツ賞
- 3-10、ベルツの日記
- 日本の近代医学に影響を与え、当時の有名人から一般人までの貴重な様子を日記に残した
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代に来日した外国人からみた日本にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、エルヴィン・フォン・ベルツについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、エルヴィン・フォン・ベルツは南ドイツの生まれ
エルヴィン・フォン・ベルツは、1849年1月13日、南ドイツのシュトゥットガルトの近くのシュワ―ベンの小さな街、ビーティヒハイム・ビッシンゲンで誕生。父は建築業で、一族は建築技師が多かったそう。ベルツは9人兄弟の3番目、長男は夭折、姉ひとり、妹2人弟3人という構成。
1-2、ベルツの受けた教育
「ベルツの日記」によれば、ベルツは5歳で小学校入学、8歳でラテン語学校へ入学し12歳で卒業、シュトゥットガルトのエベルハルト・ルードヴィッヒ高等学校へ入学、17歳で卒業後、チュービンゲン大学で基礎医学を学び1869年からライプチヒ大学で臨床教育を受けたということ。
このライプチヒ大学では当時名声の高かったウンデルリッヒという内科教授がいたためだそうで、この教授は後にベルツの恩師に。ベルツの在学中に普仏戦争が始まり、学生のベルツも野戦病院付き見習い医として従軍、そして1872年に学士試験を最優秀の成績で合格。その後、病理学教室で数か月助手をしたのちウンデルリッヒの医局に入局して、4年間最新式の内科を勉強することに。
1874年、ベルツは私講師の資格を取得、ウンデルリッヒの代わりに講義を行うまでになったそうで、もしベルツが来日しなかったとすれば、ウンデルリッヒの後継者としてドイツの大学教授となり、世界的学者として名を残した可能性も。
1-3、ベルツ、日本の留学生を診察
1875年、ベルツはライプチヒ大学病院に入院した日本からの留学生を診察して、日本との縁が出来たということ。この学生は相良元貞で、このとき35歳、異国から医学を勉強に来た青年にベルツは親切に接したらしく、留学中の元貞からベルツの評判を聞いた兄の相良知安が、早速ベルツを東京医学校医学教授として招聘するよう明治政府に要請。
相良元貞とは
日本の西洋医学教育は、江戸末期までオランダ医学が主流で、長崎の海軍伝習所の医学校ではオランダ医を招聘して学び、また戊辰戦争でイギリス人外交官兼医師ウィリスに大変に世話になったために、東京医学校も最初はウィリスを招聘したりしたが、ドイツ医学が当時世界一なのでドイツ流にすべきと運動し、オランダとイギリスに不義理をしてまでドイツ式に切り替えた相良知安の弟が相良元貞。
相良元貞は、明治4年(1871年)冬学期からベルリン大学医学部へ入学して、世界的な医学者たちから細胞病理学、生理学、外科学などを、シャリテ病院で臨床を学び、ドイツ滞在5年で医学博士号取得を目指していたが、在学4年の解剖実習中に執刀ミスで自分の手の指を切り、肺病に感染して入院。明治7年(1874年)冬にライプチヒ大学医学部へ転学し、治療を受けながら学んでいたということ。
ベルツは明治8年(1875年)に元貞を診察、献身的に世話し、日本への強い好奇心を抱いたらしい。相良は治療と学業を継続したが、病状が好転しないために、明治8年(1875年)6月に退学して帰国。10月16日に35歳の若さで、ベルツの来日を待たずに死去。
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