今回はエルヴィン・フォン・ベルツを取り上げるぞ。ドイツ医学を教えたり、皇室やお偉い方々のかかりつけ医師だったんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代の外国人日本研究家も好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代に来日した外国人からみた日本にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、エルヴィン・フォン・ベルツについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、エルヴィン・フォン・ベルツは南ドイツの生まれ

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エルヴィン・フォン・ベルツは、1849年1月13日、南ドイツのシュトゥットガルトの近くのシュワ―ベンの小さな街、ビーティヒハイム・ビッシンゲンで誕生。父は建築業で、一族は建築技師が多かったそう。ベルツは9人兄弟の3番目、長男は夭折、姉ひとり、妹2人弟3人という構成。

1-2、ベルツの受けた教育

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「ベルツの日記」によれば、ベルツは5歳で小学校入学、8歳でラテン語学校へ入学し12歳で卒業、シュトゥットガルトのエベルハルト・ルードヴィッヒ高等学校へ入学、17歳で卒業後、チュービンゲン大学で基礎医学を学び1869年からライプチヒ大学で臨床教育を受けたということ。

このライプチヒ大学では当時名声の高かったウンデルリッヒという内科教授がいたためだそうで、この教授は後にベルツの恩師に。ベルツの在学中に普仏戦争が始まり、学生のベルツも野戦病院付き見習い医として従軍、そして1872年に学士試験を最優秀の成績で合格。その後、病理学教室で数か月助手をしたのちウンデルリッヒの医局に入局して、4年間最新式の内科を勉強することに。

1874年、ベルツは私講師の資格を取得、ウンデルリッヒの代わりに講義を行うまでになったそうで、もしベルツが来日しなかったとすれば、ウンデルリッヒの後継者としてドイツの大学教授となり、世界的学者として名を残した可能性も。

1-3、ベルツ、日本の留学生を診察

1875年、ベルツはライプチヒ大学病院に入院した日本からの留学生を診察して、日本との縁が出来たということ。この学生は相良元貞で、このとき35歳、異国から医学を勉強に来た青年にベルツは親切に接したらしく、留学中の元貞からベルツの評判を聞いた兄の相良知安が、早速ベルツを東京医学校医学教授として招聘するよう明治政府に要請。

相良元貞とは
日本の西洋医学教育は、江戸末期までオランダ医学が主流で、長崎の海軍伝習所の医学校ではオランダ医を招聘して学び、また戊辰戦争でイギリス人外交官兼医師ウィリスに大変に世話になったために、東京医学校も最初はウィリスを招聘したりしたが、ドイツ医学が当時世界一なのでドイツ流にすべきと運動し、オランダとイギリスに不義理をしてまでドイツ式に切り替えた相良知安の弟が相良元貞

相良元貞は、明治4年(1871年)冬学期からベルリン大学医学部へ入学して、世界的な医学者たちから細胞病理学、生理学、外科学などを、シャリテ病院で臨床を学び、ドイツ滞在5年で医学博士号取得を目指していたが、在学4年の解剖実習中に執刀ミスで自分の手の指を切り、肺病に感染して入院。明治7年(1874年)冬にライプチヒ大学医学部へ転学し、治療を受けながら学んでいたということ。

ベルツは明治8年(1875年)に元貞を診察、献身的に世話し、日本への強い好奇心を抱いたらしい。相良は治療と学業を継続したが、病状が好転しないために、明治8年(1875年)6月に退学して帰国。10月16日に35歳の若さで、ベルツの来日を待たずに死去。

\次のページで「2-1、ベルツ、日本へ招聘される」を解説!/

2-1、ベルツ、日本へ招聘される

明治8年(1875年)の末に、ベルツは日本政府から東京招聘に関して出して条件を受諾する通知を受け取り、翌年正月早々にベルツはベルリンの青木周蔵駐ドイツ日本公使を訪ね、2年間の正式な契約書をかわしたということ。

条件というのは、官立東京医学校内科医学教師として受け入れること、任期2年、俸給16200マルク月割りに金貨で、往復の旅費と住宅支給、診療自由というものだったということ。

26歳のベルツは、4月に両親に別れを告げてドイツを出立し、アルプスを越えスエズ運河を通り、セイロン、シンガポール、香港経由で6月に日本に到着。その後、契約を大幅に延長し、27年もの長きにわたり、東京大学医学部で内科学、病理学、精神医学などを担当して教鞭をとることに。

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当時の東京医学校
明治10年(1877年)に東京大学医学部と改名した東京医学校は、当時は藤堂家の大名屋敷をそのまま使っていたということで、全員ドイツ人の教授で占められていて、当然のごとく講義はすべてドイツ語。最初は300人近い数の学生がいたが、レベルが低いために少数精鋭に選別し、59人に、ベルツは学生の質が良いと褒めていたそう。

尚、ベルツの後、明治14年(1881年)に来日したユリウス・スクリバが外科の教授として、ベルツ、スクリバと称されて明治40年(1907年)に建てられたふたりの胸像は、今でも東大構内に。

2-2、ハナ夫人と出会う

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ベルツは威厳のある顔つきに見えますが、本人はドイツ人としてルックスには自信を持っていなかったよう。アメリカ旅行中に、ドイツ語で話しかけられるのは、自分がドイツ人みたいに野暮ったくずんぐりして、彫りが深くない顔立ちで上品でもないからだと、自分の顔をクソミソに言い、結婚するならな種族改良のためにスマートな女性をと思うが、鏡を見るとこんな自分と結婚する女性がいるだろうか、自信が持てないと日記に書くほど。

ということで、3年か5年日本で働き、故郷に戻って物質的に誰の世話にもならず、自分の思い通りの仕事をしたい、将来の仕事として政治と教育改革と考えていたということ。しかし来日早々は、日本女性に対してはあまり好感をもっていなかったのに、「花のように美しい」ハナ夫人と出会い、長男のトクと長女のウタ(夭折)が生まれたことで、人生変わっちゃって日本に長くいることに。

ただ、日記にはハナ夫人の出会いが書いてないのが残念。ベルツはドイツでの休暇中、ハナ夫人にローマ字で手紙を書いているそうで、それを見ると日本語はかなり自由に話せたということ。

2-3、ベルツ、東京大学医学部教授を25年務めて退職、宮内省掛医に

ベルツが3回目の休暇を終えて日本へ戻った後、東京大学勤続25年の盛大な祝典が開催され、ベルツは日本の学問のあり方について重大な忠告を与えるスピーチを行ったということ。

そして翌年ベルツは東京大学医学部を退職し、宮内庁御用侍医として3年間勤務して、明治天皇をはじめ、皇太子嘉仁親王の健康管理などに携わり、日常の往診以外は人類学、考古学研究に専念、研究調査のために仏領インドシナや韓国にも旅行したということ。

2-4、ベルツの晩年

ベルツは明治38年(1905年)ハナ夫人を連れてドイツに帰国したが、明治41年(1908年)伊藤博文の要請で再び来日し、皇太子嘉仁親王が、欧米訪問に耐えられるかどうかと、外遊時にはベルツに随員になってほしいとのことだったようだが、皇太子の外遊はベルツの来日前に政治的な理由で中止になったということで、ベルツはシベリア経由でドイツに帰国。

尚、最後の訪問のあと、ベルツは東京大学に5千円を寄付して、ベルツが最も力を入れた物理療法で功績のあった人物に賞金とメダルを与えるベルツ基金を作ったが、1913年ベルツの死後に遺言でさらに1万円を追加して、東京大学医学部を好成績で卒業し、ドイツ留学に恵まれない者にドイツ滞在費として給付することになったが、後にドイツが世界大戦で敗北して貨幣価値がなくなり消滅したそう。

1910年、ベルツは体の異常に気付き、極東に長く滞在したヨーロッパ人に多い大動脈瘤と診断、身の回りの整理を始めて遺言を書き、1913年8月、シュトゥットガルトで63歳で死去。

ハナ夫人はドイツのベルツの家族には尊敬されたということですが、ドイツ国籍が認められず、日本に帰国して亡くなったそう。

3-1、ベルツの功績

ベルツは医学教授として医師としてのほかにも、人類学や民俗学にも造詣が深かったということ。

\次のページで「3-2、日本の地方の風土病などの論文を」を解説!/

3-2、日本の地方の風土病などの論文を

ベルツは、長岡に旅行し、長岡病院の医員川上清哉の案内で信濃川流域で多発する熱病を調査し、川上との共著で「日本河川熱または洪水熱」という論文にまとめたが、川上は後にベルツの論文によるところが多いツツガムシ病の研究論文を発表、ベルツの論文が注目を集め先鞭をつけたということ。また結核性でない喀血患者を診察して世界初の肺寄生虫を発見、また、脚気の研究にも精力を注ぎ、ヨーロッパのベリベリだとして、地方性伝染病であると考えたそう。

3-3、人類学的に日本人を研究

ベルツは日本人の身体的特徴についても論文を書いたが、これは人類学的に日本人を研究した最初のもので、アイヌ人研究の端緒でもあるということ。ベルツの日本通はドイツでも有名になり、明治13年(1880年)には世界的な権威のマイヤー百科事典の日本についての項目の執筆を任されたということ。

3-4、草津温泉を紹介

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ベルツは古くから伝わる日本のものから、積極的に価値を見出して取り上げていたのですが、群馬県の草津温泉を再発見して、世界に紹介。

明治11年(1878年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に日本で最上の山の空気と理想的な飲料水があり、もしこんな土地がヨーロッパにあれば、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わう」と評価、政府にも温泉治療を指導すべきと説き、明治23年(1890年)には、草津に約6000坪の土地と温泉を購入して温泉保養地作りを目指し、ドイツでも草津の時間湯を研究した論文を発表したほど。

尚、草津温泉には現在ベルツにちなんだ「ベルツ通り」が。 ベルツは噴火直後の草津白根山に登頂して手記を残し、現在も貴重な火山学的資料に。

また、伊香保温泉には別荘を持ち、友人知人とよく訪れたということ。

3-5、保養地や運動を推奨

当時の日本は結核で若い命が失われることが多く、ベルツはドイツのブレーメンの療養所のようなところがないと惜しみ、駐日イタリア公使のマルチーノが逗子や葉山を保養地を提唱したときは、ベルツも医学的見地から同意したそう。

またベルツは当時の上流階級の主治医を務めていたので保養地や別荘を推奨したが、限られた階層以外の学生たちには、勉強ばかりではなくスポーツをすすめ、日本の伝統的武術にも興味を示し直心影流剣術の榊原鍵吉に弟子入りしたり、また海水浴なども奨励したということ。

3-6、蒙古斑

日本人の赤ちゃんのお尻にある蒙古斑は、明治18年(1885年)にベルツが論文で取り上げて命名。

3-7、ベルツ水

明治16年(1883年)、ベルツは箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見て「ベルツ水」を処方。現在はグリセリンカリ液という名前で薬局で売っている、ひび割れ、あかぎれ用のアルカリ性の皮膚軟化剤。

3-8、日本美術・工芸品の収集

ベルツは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男でアレクサンダーの弟のハインリヒ・フォン・シーボルトと仲が良く、彼の影響を強く受けて、日本の美術工芸品にも興味を持ち、ハナ夫人の協力を得て、江戸時代中後期から明治時代前半の日本美術工芸品約6000点を収集。特に、絵師の河鍋暁斎を高く評価し親しく付き合ったそう。尚、ベルツ・コレクションは、シュトゥットガルトのリンデン民俗学博物館に収蔵。

\次のページで「3-9、ベルツ賞」を解説!/

3-9、ベルツ賞

1964年、ドイツの製薬会社ベーリンガーインゲルハイム社によって、日独両国間の歴史的な医学関係を回顧すると共に、両国の医学面での親善関係を更に深める目的で「ベルツ賞」が設立。毎年、常任委員会の定めたテーマについて医学論文を募集、優秀な論文に賞が贈呈。論文の選考は常任委員の他、毎年のテーマに関連した専門分野から専門委員が加わって、全員が協議して公正に行われるということ。

3-10、ベルツの日記

長男トクが編集したベルツの日記には、明治初期から中期にかけての色々な出来事が記述してあり、特にベルツが診察した当時の日本の高官の伊藤博文、井上馨、岩倉具視、副島種臣ら、皇族は明治天皇の生母から生まれたばかりの後の昭和天皇までのエピソードが登場することで有名。

最も有名なのは、「伊藤(博文)のいわく、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りを。」というもの。

またベルツの日記の中には、伊藤博文の母が亡くなったとき、伊藤は日本では太閤秀吉並みに立志伝中の人で、生まれが定かではないため両親と言っても本当の両親かどうかわからないとさえ言われているが、自分は本人から本当の両親だと聞いたとあり、いかに伊藤の出自が卑しいと当時の人が思っていたかがわかるような記述があるほど。

そして、「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした』」「『われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです』」と言った当時の日本人は、いかに江戸時代を否定したかがわかるというもの。

ベルツは日本駐在の各国大使館から伊藤博文、井上馨、青木周蔵などの政府高官らとのつきあいがあるせいで、色々な情報に精通していたということで、日清、日露戦争、また母国ドイツへの批判的な文や予測もかなり的を射たものであるということ。

日本の近代医学に影響を与え、当時の有名人から一般人までの貴重な様子を日記に残した

エルウィン・フォン・ベルツ博士は、南ドイツで生まれて医者を志し、ライプチッヒ大学で世界的な教授の元で自分も教授コースを歩んでいたのに、ほんのちょっとしたきっかけで日本に縁が出来て、東京大学医学部教授になった人。

そして医学の教授やセレブたちの診療、論文研究の合間には、昔の江戸時代を忘れて必死になって文明開化に進む日本人を批判的に観察し、古い日本の美術品を収集したり、温泉や保養地を奨励したりしました。

しかしなんといっても日記を残したおかげで、明治時代当時の生々しい事件についてや、歴史に残る著名人たちの様子がありありと今に残されているのは何とも興味深いことこのうえなしで、医学教授としても名を残したが、われわれ一般の歴史ファンにとっても忘れてはいけない偉業を残してくれたことに。

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日本史明治歴史

明治時代に近代医学の父と言われた「エルヴィン・フォン・ベルツ」このドイツ人医師について歴女がわかりやすく解説

今回はエルヴィン・フォン・ベルツを取り上げるぞ。ドイツ医学を教えたり、皇室やお偉い方々のかかりつけ医師だったんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代の外国人日本研究家も好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代に来日した外国人からみた日本にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、エルヴィン・フォン・ベルツについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、エルヴィン・フォン・ベルツは南ドイツの生まれ

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エルヴィン・フォン・ベルツは、1849年1月13日、南ドイツのシュトゥットガルトの近くのシュワ―ベンの小さな街、ビーティヒハイム・ビッシンゲンで誕生。父は建築業で、一族は建築技師が多かったそう。ベルツは9人兄弟の3番目、長男は夭折、姉ひとり、妹2人弟3人という構成。

1-2、ベルツの受けた教育

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「ベルツの日記」によれば、ベルツは5歳で小学校入学、8歳でラテン語学校へ入学し12歳で卒業、シュトゥットガルトのエベルハルト・ルードヴィッヒ高等学校へ入学、17歳で卒業後、チュービンゲン大学で基礎医学を学び1869年からライプチヒ大学で臨床教育を受けたということ。

このライプチヒ大学では当時名声の高かったウンデルリッヒという内科教授がいたためだそうで、この教授は後にベルツの恩師に。ベルツの在学中に普仏戦争が始まり、学生のベルツも野戦病院付き見習い医として従軍、そして1872年に学士試験を最優秀の成績で合格。その後、病理学教室で数か月助手をしたのちウンデルリッヒの医局に入局して、4年間最新式の内科を勉強することに。

1874年、ベルツは私講師の資格を取得、ウンデルリッヒの代わりに講義を行うまでになったそうで、もしベルツが来日しなかったとすれば、ウンデルリッヒの後継者としてドイツの大学教授となり、世界的学者として名を残した可能性も。

1-3、ベルツ、日本の留学生を診察

1875年、ベルツはライプチヒ大学病院に入院した日本からの留学生を診察して、日本との縁が出来たということ。この学生は相良元貞で、このとき35歳、異国から医学を勉強に来た青年にベルツは親切に接したらしく、留学中の元貞からベルツの評判を聞いた兄の相良知安が、早速ベルツを東京医学校医学教授として招聘するよう明治政府に要請。

相良元貞とは
日本の西洋医学教育は、江戸末期までオランダ医学が主流で、長崎の海軍伝習所の医学校ではオランダ医を招聘して学び、また戊辰戦争でイギリス人外交官兼医師ウィリスに大変に世話になったために、東京医学校も最初はウィリスを招聘したりしたが、ドイツ医学が当時世界一なのでドイツ流にすべきと運動し、オランダとイギリスに不義理をしてまでドイツ式に切り替えた相良知安の弟が相良元貞

相良元貞は、明治4年(1871年)冬学期からベルリン大学医学部へ入学して、世界的な医学者たちから細胞病理学、生理学、外科学などを、シャリテ病院で臨床を学び、ドイツ滞在5年で医学博士号取得を目指していたが、在学4年の解剖実習中に執刀ミスで自分の手の指を切り、肺病に感染して入院。明治7年(1874年)冬にライプチヒ大学医学部へ転学し、治療を受けながら学んでいたということ。

ベルツは明治8年(1875年)に元貞を診察、献身的に世話し、日本への強い好奇心を抱いたらしい。相良は治療と学業を継続したが、病状が好転しないために、明治8年(1875年)6月に退学して帰国。10月16日に35歳の若さで、ベルツの来日を待たずに死去。

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