3-7、ヘボン、和英・英和辞典を編纂、ヘボン式ローマ字も考案
ヘボンは伝道のため、聖書の日本語訳が必要になると考えて、和英辞典・英和辞典の編纂にも着手、日本語研究と語彙の蒐集に取り組んだ結果、日本初の本格的和英辞典「和英語林集成」が慶応3年(1867年)に完成。またこの辞書の構成のため、漢字、ひらがな、かたかなに続く日本語表記として現在も使われている「ヘボン式ローマ字」を考案したということ。
尚、この辞書は18両という高額で、個人では買えない額だったが、藩が競って買うようになり、瓦解のさなかの幕府が300冊は買ったということで、大政奉還後2年で初版本が売り切れ、明治5年(1872年)に第2版が、明治19年(1886年)に第3版が出たが、古書店でも42ドル、写本が60ドルで、海賊版まで出たそう。
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3-8、ヘボン、聖書の翻訳も
ヘボンは、ブラウンと共に新約聖書の日本語訳も手掛け、明治13年(1880年)頃に、新約聖書の和訳を完成。また明治6年(1874年)にブラウン邸で旧約聖書の日本語訳委員会の委員長に任命され、他の宣教師たちと旧約聖書の日本語訳に着手、明治20年(1887年)に完成。この翻訳には、バラ、ブラウンら宣教師たちに導かれて明治4年(1872年)に結成された、横浜バンドと呼ばれた奥野昌綱などの日本基督公会の人たちが協力。
3-9、スパイも潜入
明治維新後、すぐにキリスト教禁制が解除したわけではなかったので、聖書の翻訳には日本人の協力が不可欠なヘボンたちの周囲にも、太政官などからのスパイが潜入して、色々と探っていたよう。明治6年(1873)2月24日、諸外国からの強い抗議で、明治政府は太政官布告第68号によってキリシタン禁制の高札を撤去、キリスト教に対する禁教政策は終わったが、まだまだキリスト教に対する偏見なども多かったということ。
3-10、ヘボン、明治学院の学院長に
高谷道男 – 『ヘボンの手紙』有隣堂、p.38, パブリック・ドメイン, リンクによる
ヘボンは、和英辞典第3版の出版権の売却料2000ドル全額を明治学院に寄付して、ヘボン館が建設。そして明治22年(1889年)から明治24年(1891年)まで学院長を務めたということ。尚、明治学院には後にはエドウィン・ライシャワーの父オーガスト・カール・ライシャワー宣教師が明治学院高等部長から、明治学院神学部教授に就任したそう。
また、ヘボンは明治23年(1890年)、横浜に教会を建てるため、アメリカ横断旅行で募金活動を行い、8000ドルを集めて寄付、ヘボンの母教会の名にちなんだ指路教会が献堂されたということ。シロは旧約聖書で、平和をもたらす者、メシヤを示し、古い時代の聖なる町の意味もあるそう。
3-11、晩年のヘボン
ヘボンは聖書の翻訳を終えたら、聖書辞典が完成したら帰国すると言っていたが、日本にいたい気持ちが強くなかなか帰国せず。
しかし当時の日本は文明開化社会で最初は外国人の力を借りたが、日本人だけでやっていけると、それまで力を貸してくれた外国人に対する態度があからさまに冷たくなっていったということで、外国人の日本の研究者やお雇い外国人教育者たちは、こぞってそういう日本に対する嫌悪感を持ったそう。ヘボンも同様で、明治25年(1892年)、病を得たクララ夫人と共に、日本で出来ることはすべてした、といい残して離日、ニュージャージー州イーストオレンジに居を構えて暮らしたが、回想録などは一切残さずに 明治44年(1911年)、96歳で死去。
ニューヨークでヘボンが死去したのと同時刻に、日本のヘボン邸が出火して全焼したという不思議な出来事も。
キリスト教布教目的で来日し、日本の開明期に多大な貢献
ヘボン博士はアメリカの都会ペンシルベニア州の堅実なインテリで信仰の篤い家庭に生まれて医師となり、若い頃からキリスト教布教のために極東へ行く夢を持ち、同じ夢を持った女性と巡り会って結婚、すぐに中国へ渡ったものの病気で帰国。そして病院経営がうまくいってひと財産築いたのちに、あっさりと財産を整理して日本へやってきたということ。
そしてヘボン夫妻は30年もの長きにわたり、日本人のために無料で最新医療で診療を行い、、英和、和英辞典を作り、ローマ字表記を考案し、キリスト教を布教するために聖書を翻訳、そして教育も行って人材を育てて学校も設立と、フル回転で多角的に日本の近代化に貢献。
この、自らの意思で、困難な時代に発展途上の国へ赴き、見返りを求めず情熱をもって惜しみなく自分の持てるものを与えるという、キリスト教的奉仕の精神を貫いたヘボン夫妻の業績と生涯は、ローマ字表記だけでなく日本人の間にもっと詳しく知られていいはずだと思います。