日本史明治歴史

ヘボン式ローマ字を開発した「ヘボン」アメリカ人宣教師で医師であるヘボンを歴女がわかりやすく解説

3-3、ヘボン、日本人教師ヤゴロウを得て日本語勉強が格段に進む

ヘボンは医師のヤゴロウという日本人に日本語を教えてもらうようになり、「東海道中膝栗毛」(当時のベストセラーで庶民の生活などがわかった)「日本外史」(日本の歴史を知るのに最適だったらしい)などを教材に勉強したそう。ヘボンは「古事記」「万葉集」をやさしい本と言ったそうですが、これはカナ混じりではなく漢字なので中国語の分かるヘボンには親しみやすかったのかもということ。

またヘボンは語彙ノートを作って、日本語に関することを何でも書き留めたということ。

3-4、ヘボン、眼病治療が評判に

Sokoji 01.jpg
Aimaimyi – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ヘボン夫妻は、最初の頃は外国人と接触したがらない日本人とどう友好関係を結べばいいか、もどかしかったようですが、ひとりの漁師の目を点眼薬で治療したところ全快し、評判を呼び患者さんが続々とやってきたということ。

ヘボンは宗輿寺を借りて無料診療所を開設、当時の日本は眼病の治療がかなり遅れて失明する人も多かったそうで、ヘボンは内科が専門だったが、白内障の手術とかも行ったそう。また、横浜でコレラが流行したときも適切な処置で多くの人を助けて感謝され、医学生なども見学にやってきたそう。

尚、ヘボンは大学がコレラの流行で閉鎖に始まり、中国へ行ったときもコレラが流行し、ニューヨークの病院が繁盛したのもコレラの流行と、妙にコレラに縁のある人と司馬遼太郎氏が「花神」に書いたほど。

というわけで、ヘボンは患者さんとの診療によって、日本語を学ぶ機会が増えて語彙も増えるという相乗効果に。ヘボンは、半年で3500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反(逆まつげ)の手術30回、翼状片(目の病気)の手術3回、眼球摘出1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の手術13回、痔ろうの手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回、白内障の手術も1回を除いて成功したが、奉行所の嫌がらせもあって、診療所は半年で閉鎖に。また、女形の名優澤村田之助の脱疽を起こした足のクロロフォルム麻酔を使った切断手術と義足で舞台に復帰させたことでも有名に。

ヘボンの無料診療でまわりの反応も変わり、散歩をしてもみんな笑顔で会釈してくれるようになったそう。

目薬「精錡水」と岸田吟香
元治元年(1864年)4月、眼病を患った岸田吟香は、洋学者箕作秋坪の紹介でヘボンを訪ねたのが縁で、儒学の素養もあってヘボンに気に入られ、吟香もヘボンの人柄に惹かれたということ。

そして吟香は、ヘボンが当時手がけていた和英辞書「和英語林集成」の編纂を手伝うように。「和英語林集成」は吟香の命名だそう。慶応2年(1866年)には「和英語林集成」の印刷刊行のため、岸田はヘボンと上海へ渡航し、翌年5月までの9カ月を美華書館で印刷、校訂にあたり、辞書は完成、7月には横浜で発売されたということ。

そして岸田は帰国後、ヘボンに処方を教えてもらった日本初の点眼薬「精錡水」(せいきすい)の販売をはじめたが、文筆家で新聞記者の岸田の錦絵などを使った宣伝もあり、その後「大学目薬」となって目薬ブームに。

3-5、ヘボン塾を創設

文久3年(1864年)英語塾の「ヘボン塾」創設。塾は当時の常識を破った男女共学で、ヘボン夫妻が教鞭をとり、村田蔵六こと大村益次郎、後の外相、駐イギリス大使となった林董、首相、蔵相を歴任した高橋是清、三井物産創始者の益田孝などが学んだそう。大村益次郎は江戸から馬に乗って通ったということで、特に林董はクララ夫人から息子のように可愛がられたということ。

ヘボンは数学と英語を教えたということですが、数学は蘭学医たる大村益次郎らはかなりできたらしく、ヘボンもアメリカの大学生よりできるとびっくり、蘭学は日本に有益だったと認め、以後は英語だけを教えたそう。

またこのヘボン塾は、その後ジョン・クレイグ・バラに引き継がれて、明治19年(1886年)に明治学院に。 そして明治3年(1870年)にヘボン塾に着任したアメリカ・オランダ改革教会の宣教師メアリー・キダーは、2年後に独自に女子教育を行なうためヘボン塾から独立し、後にフェリス・セミナリー(現在のフェリス女学院)へと発展することに。

3-6、ヘボン家、家庭に飢えた外国人たちの憩いの場に

image by PIXTA / 52972764

成仏寺には、来日したてのイギリス公使館のアーネスト・サトウやアストンと言った人たちも日本語を習いに通ってきたそうで、ここにはブラウン一家も住んでいて、子供たちの笑い声など家庭的な雰囲気の社交場となって、単身者が多い横浜の外国人たちの心の安らぐ場所に。クララ夫人がミシンで縫物をしたり、家庭菜園を作り、ジャムやパイなど色々なお料理を作ったり、ピアノを奏でたりと、日本の役人の心ですら惹き付けるものがあったということ。

\次のページで「3-7、ヘボン、和英・英和辞典を編纂、ヘボン式ローマ字も考案」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: