ローマ字を考案したくらいしか知らないが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。その辺のところを来日外国人には興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、ヘボンはアメリカ、ペンシルバニア州の生まれ
- 1-2、ヘボンの子供時代
- 1-3、ヘボン、プリンストン大学に編入学、ペンシルバニア大学で医学博士に
- 1-4、ヘボン、クララ夫人と出会う
- 2-1、ヘボン夫妻、中国へ
- 2-2、ヘボン、ニューヨークで病院が繁盛したが、宣教医として来日することに
- 2-3、ヘボン、来日前に予習も怠りなく
- 3-1、ヘボン夫妻、来日
- 3-2、ヘボン夫妻、お寺に住む
- 3-3、ヘボン、日本人教師ヤゴロウを得て日本語勉強が格段に進む
- 3-4、ヘボン、眼病治療が評判に
- 3-5、ヘボン塾を創設
- 3-6、ヘボン家、家庭に飢えた外国人たちの憩いの場に
- 3-7、ヘボン、和英・英和辞典を編纂、ヘボン式ローマ字も考案
- 3-8、ヘボン、聖書の翻訳も
- 3-9、スパイも潜入
- 3-10、ヘボン、明治学院の学院長に
- 3-11、晩年のヘボン
- キリスト教布教目的で来日し、日本の開明期に多大な貢献
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末から明治時代の来日外国人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ヘボンについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、ヘボンはアメリカ、ペンシルバニア州の生まれ
「ヘボンの生涯と日本語」によれば、ヘボンのフルネームは、ジェームス・カーティス・ヘボン、1815年3月13日にペンシルベニア州ミルトンで誕生。来日当時、本人は「へバーン」と発音したが、日本人にはヘボンと聞こえたために定着、本人も「平文」とサインしたということ。
しかし本来はあのオードリー・ヘップバーンと同じ、アイルランドによくある、Hepburn。
ヘボンの先祖は
Hepburnの名は、HebronまたはHebburnという町に由来。ヘボンの遠い祖先は、スコットランドのメアリ女王の3番目の夫であったボスウェル伯爵に連なるということ。近い祖先は、イギリス国教による長老派迫害を逃れてサムエル・ヘップバーン(曾祖父。父と同名)が1773年にアメリカへ渡ったのが始まりで、子ジェームス、孫サムエルと続きその長男がジェームス・カーティス・ヘボン。
1-2、ヘボンの子供時代
ヘボンの家庭は、父は判事、母は教会の婦人会の会長という恵まれた環境で、後に弟ひとりと妹6人が誕生。仲の良い弟のスレーターは後に牧師として相談相手に。
当時のアメリカは金鉱や石油が発見され、西へと拡大していくエネルギッシュな時代で、ヘボンは品行方正で科学に興味のある少年として育ったということ。そしてアメリカの中国市場の進出が始まり、教会関係者は中国へのキリスト教の布教伝道に力を注ぎ、「東洋のために祈ろう」と、若い宣教師たちが中国で伝道活動に参加、また彼らの苦難の様子を教会の会報などで読んだり聞いたりして、アメリカ各地で「無知蒙昧な人々にキリスト教を布教して啓蒙しよう」という運動が盛んだったそう。
1-3、ヘボン、プリンストン大学に編入学、ペンシルバニア大学で医学博士に
ヘボンは16歳で名門プリンストン大学に編入したが、科学が勉強したいのに語学、ラテン語を勉強しろと言われて学長に抗議、学長に何を学ぶにも語学が基礎になると諭されたことで、ヘボンは言葉に対する挑戦をかきたてられるようになり、その後ラテン語やギリシア語を学び始めたが、コレラの流行で学校が閉鎖され、学業途中で卒業に。そしてヘボンは名門ペンシルバニア大学医科に入学し、医学博士号を取得。1834年になぜか東洋で働こうと思い立ったということだが、父は大反対、ヘボンはノリスタウンの病院で勤務することに。
1-4、ヘボン、クララ夫人と出会う
ヘボンは病院勤務をしつつ、東洋への夢は捨てていなかったのですが、ある日、ノリスタウンにある従兄の経営する学校へ手伝いに来たアメリカ南部の名門の出身のクララ・メアリー・リートと出会い、海外宣教の話で意気投合して1840年に結婚。翌年、ヘボン夫妻は船医を募集した小さな捕鯨船に乗り、米国長老教会の宣教師派遣計画で、シャム(タイ)へと旅だったということ。
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