今回はヘボンを取り上げるぞ。

ローマ字を考案したくらいしか知らないが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。その辺のところを来日外国人には興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末から明治時代の来日外国人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ヘボンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ヘボンはアメリカ、ペンシルバニア州の生まれ

「ヘボンの生涯と日本語」によれば、ヘボンのフルネームは、ジェームス・カーティス・ヘボン、1815年3月13日にペンシルベニア州ミルトンで誕生。来日当時、本人は「へバーン」と発音したが、日本人にはヘボンと聞こえたために定着、本人も「平文」とサインしたということ。

しかし本来はあのオードリー・ヘップバーンと同じ、アイルランドによくある、Hepburn。

ヘボンの先祖は
Hepburnの名は、HebronまたはHebburnという町に由来。ヘボンの遠い祖先は、スコットランドのメアリ女王の3番目の夫であったボスウェル伯爵に連なるということ。近い祖先は、イギリス国教による長老派迫害を逃れてサムエル・ヘップバーン(曾祖父。父と同名)が1773年にアメリカへ渡ったのが始まりで、子ジェームス、孫サムエルと続きその長男がジェームス・カーティス・ヘボン。

1-2、ヘボンの子供時代

ヘボンの家庭は、父は判事、母は教会の婦人会の会長という恵まれた環境で、後に弟ひとりと妹6人が誕生。仲の良い弟のスレーターは後に牧師として相談相手に。

当時のアメリカは金鉱や石油が発見され、西へと拡大していくエネルギッシュな時代で、ヘボンは品行方正で科学に興味のある少年として育ったということ。そしてアメリカの中国市場の進出が始まり、教会関係者は中国へのキリスト教の布教伝道に力を注ぎ、「東洋のために祈ろう」と、若い宣教師たちが中国で伝道活動に参加、また彼らの苦難の様子を教会の会報などで読んだり聞いたりして、アメリカ各地で「無知蒙昧な人々にキリスト教を布教して啓蒙しよう」という運動が盛んだったそう。

1-3、ヘボン、プリンストン大学に編入学、ペンシルバニア大学で医学博士に

ヘボンは16歳で名門プリンストン大学に編入したが、科学が勉強したいのに語学、ラテン語を勉強しろと言われて学長に抗議、学長に何を学ぶにも語学が基礎になると諭されたことで、ヘボンは言葉に対する挑戦をかきたてられるようになり、その後ラテン語やギリシア語を学び始めたが、コレラの流行で学校が閉鎖され、学業途中で卒業に。そしてヘボンは名門ペンシルバニア大学医科に入学し、医学博士号を取得。1834年になぜか東洋で働こうと思い立ったということだが、父は大反対、ヘボンはノリスタウンの病院で勤務することに。

1-4、ヘボン、クララ夫人と出会う

ヘボンは病院勤務をしつつ、東洋への夢は捨てていなかったのですが、ある日、ノリスタウンにある従兄の経営する学校へ手伝いに来たアメリカ南部の名門の出身のクララ・メアリー・リートと出会い、海外宣教の話で意気投合して1840年に結婚。翌年、ヘボン夫妻は船医を募集した小さな捕鯨船に乗り、米国長老教会の宣教師派遣計画で、シャム(タイ)へと旅だったということ。

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2-1、ヘボン夫妻、中国へ

ヘボン夫妻は1841年7月にシンガポールに到着、宣教地がシャムから中国の厦門に変更されたので、アヘン戦争の終結を待ち2年後厦門に到着。ヘボン夫妻は船の旅で流産後、厦門で息子サムエルが生まれたものの、夫婦ともに猛威を振るっていたマラリアにかかったりと健康の悪化から伝道を断念、1846年にニューヨークに戻ったということ。

尚、シンガポールでは、生涯の協力者となったS・R・ブラウンと出会い、またカール・ギュツラフ著「約翰福音之伝(ヨハネふくいんのでん)」を入手したなど、後の来日につながる布石的な出来事が。

2-2、ヘボン、ニューヨークで病院が繁盛したが、宣教医として来日することに

ヘボンはニューヨークで病院を開業、当時のニューヨークは移民が続々と押し寄せていて、衛生状態が悪くコレラが蔓延したそう。ヘボンは中国での生活でもコレラの流行に対応していたため、ニューヨークの患者たちに適切な処置を施し、医師としての名声と富を得たそう。しかし忙しすぎて自分の子供の看病が出来ず、3人の子供たちを病気で次々と失ったということ。ヘボン夫妻はかなりの富を得たこともあり、ニューヨークを離れて再びアジアへ渡ることを決意。

これは1854年に締結された日米通商条約に、両国の信教の自由を尊重することが含まれていたため、ペリーに同行したS・W・ウィリアムがアメリカ長老派教会、オランダ改革教会、聖公会各本部へ、まず宣教医を送ることを要請、これに応じたのがヘボン夫妻だったということで、14歳の唯一の息子サミュエルを知人に預け、ヘボン夫妻は長年の念願だった米国長老教会の医療宣教師として赴くことに。

2-3、ヘボン、来日前に予習も怠りなく

ヘボンは前述のように、1841年のシンガポール滞在中に、最初の日本語訳聖書だったカール・ギュツラフ著「約翰福音之伝(ヨハネふくいんのでん)」を入手していたので、今回の航海中には「日本語文法書」とともに日本語の学習として使ったということ。

そして来日前にマカオでサミュエル・ウィリアムズ宅に滞在し、簡単な日本語を習って、来日後には「コレハナンデスカ?」と聞いてまわってメモを取ったということ。また、神奈川到着前に長崎にしばらく滞在して数度上陸し、かなり多く英語と日本語を対照した言葉を集め、ちょっとした会話は出来るように。

3-1、ヘボン夫妻、来日

安政6年(1859)、44歳のヘボンとクララ夫人は横浜に到着。以後33年間、幕末から明治にかけての日本で、医療活動、和英。英和辞典の編纂、教育の分野での近代化に大きく貢献することに。ヘボンはニューヨークで医師としての名声を得ていたので、横浜の外国人居留地では大歓迎されたのですが、キリスト教布教のため日本人にしか診療を行わないと神に誓ったと言って、外国人たちをがっかりさせたそう(でも、生麦事件のときは、被害者のイギリス人の手当てをしたけど)。

3-2、ヘボン夫妻、お寺に住む

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高谷道男 - 高谷道男『ヘボンの手紙』有隣堂、p.50, パブリック・ドメイン, リンクによる

ヘボン夫妻は、アメリカ領事館の隣の成仏寺を住居に、日本での暮らしが始まり、間もなくシンガポールで出会った生涯の友オランダ改革教会のS・R・ブラウンが住むようになり、ジェームズ・バラーもと仲間が増えて行ったのですが、わけもなく外国人を嫌う日本人も多く、ある日、クララ夫人は見知らぬ者に後ろからこん棒で殴られ襲われたこともあり、その後遺症から頭痛などに悩まされることになったが、ヘボン夫妻はこのことをずっと黙っていたということ。

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3-3、ヘボン、日本人教師ヤゴロウを得て日本語勉強が格段に進む

ヘボンは医師のヤゴロウという日本人に日本語を教えてもらうようになり、「東海道中膝栗毛」(当時のベストセラーで庶民の生活などがわかった)「日本外史」(日本の歴史を知るのに最適だったらしい)などを教材に勉強したそう。ヘボンは「古事記」「万葉集」をやさしい本と言ったそうですが、これはカナ混じりではなく漢字なので中国語の分かるヘボンには親しみやすかったのかもということ。

またヘボンは語彙ノートを作って、日本語に関することを何でも書き留めたということ。

3-4、ヘボン、眼病治療が評判に

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Aimaimyi - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ヘボン夫妻は、最初の頃は外国人と接触したがらない日本人とどう友好関係を結べばいいか、もどかしかったようですが、ひとりの漁師の目を点眼薬で治療したところ全快し、評判を呼び患者さんが続々とやってきたということ。

ヘボンは宗輿寺を借りて無料診療所を開設、当時の日本は眼病の治療がかなり遅れて失明する人も多かったそうで、ヘボンは内科が専門だったが、白内障の手術とかも行ったそう。また、横浜でコレラが流行したときも適切な処置で多くの人を助けて感謝され、医学生なども見学にやってきたそう。

尚、ヘボンは大学がコレラの流行で閉鎖に始まり、中国へ行ったときもコレラが流行し、ニューヨークの病院が繁盛したのもコレラの流行と、妙にコレラに縁のある人と司馬遼太郎氏が「花神」に書いたほど。

というわけで、ヘボンは患者さんとの診療によって、日本語を学ぶ機会が増えて語彙も増えるという相乗効果に。ヘボンは、半年で3500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反(逆まつげ)の手術30回、翼状片(目の病気)の手術3回、眼球摘出1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の手術13回、痔ろうの手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回、白内障の手術も1回を除いて成功したが、奉行所の嫌がらせもあって、診療所は半年で閉鎖に。また、女形の名優澤村田之助の脱疽を起こした足のクロロフォルム麻酔を使った切断手術と義足で舞台に復帰させたことでも有名に。

ヘボンの無料診療でまわりの反応も変わり、散歩をしてもみんな笑顔で会釈してくれるようになったそう。

目薬「精錡水」と岸田吟香
元治元年(1864年)4月、眼病を患った岸田吟香は、洋学者箕作秋坪の紹介でヘボンを訪ねたのが縁で、儒学の素養もあってヘボンに気に入られ、吟香もヘボンの人柄に惹かれたということ。

そして吟香は、ヘボンが当時手がけていた和英辞書「和英語林集成」の編纂を手伝うように。「和英語林集成」は吟香の命名だそう。慶応2年(1866年)には「和英語林集成」の印刷刊行のため、岸田はヘボンと上海へ渡航し、翌年5月までの9カ月を美華書館で印刷、校訂にあたり、辞書は完成、7月には横浜で発売されたということ。

そして岸田は帰国後、ヘボンに処方を教えてもらった日本初の点眼薬「精錡水」(せいきすい)の販売をはじめたが、文筆家で新聞記者の岸田の錦絵などを使った宣伝もあり、その後「大学目薬」となって目薬ブームに。

3-5、ヘボン塾を創設

文久3年(1864年)英語塾の「ヘボン塾」創設。塾は当時の常識を破った男女共学で、ヘボン夫妻が教鞭をとり、村田蔵六こと大村益次郎、後の外相、駐イギリス大使となった林董、首相、蔵相を歴任した高橋是清、三井物産創始者の益田孝などが学んだそう。大村益次郎は江戸から馬に乗って通ったということで、特に林董はクララ夫人から息子のように可愛がられたということ。

ヘボンは数学と英語を教えたということですが、数学は蘭学医たる大村益次郎らはかなりできたらしく、ヘボンもアメリカの大学生よりできるとびっくり、蘭学は日本に有益だったと認め、以後は英語だけを教えたそう。

またこのヘボン塾は、その後ジョン・クレイグ・バラに引き継がれて、明治19年(1886年)に明治学院に。 そして明治3年(1870年)にヘボン塾に着任したアメリカ・オランダ改革教会の宣教師メアリー・キダーは、2年後に独自に女子教育を行なうためヘボン塾から独立し、後にフェリス・セミナリー(現在のフェリス女学院)へと発展することに。

3-6、ヘボン家、家庭に飢えた外国人たちの憩いの場に

image by PIXTA / 52972764

成仏寺には、来日したてのイギリス公使館のアーネスト・サトウやアストンと言った人たちも日本語を習いに通ってきたそうで、ここにはブラウン一家も住んでいて、子供たちの笑い声など家庭的な雰囲気の社交場となって、単身者が多い横浜の外国人たちの心の安らぐ場所に。クララ夫人がミシンで縫物をしたり、家庭菜園を作り、ジャムやパイなど色々なお料理を作ったり、ピアノを奏でたりと、日本の役人の心ですら惹き付けるものがあったということ。

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3-7、ヘボン、和英・英和辞典を編纂、ヘボン式ローマ字も考案

ヘボンは伝道のため、聖書の日本語訳が必要になると考えて、和英辞典・英和辞典の編纂にも着手、日本語研究と語彙の蒐集に取り組んだ結果、日本初の本格的和英辞典「和英語林集成」が慶応3年(1867年)に完成。またこの辞書の構成のため、漢字、ひらがな、かたかなに続く日本語表記として現在も使われている「ヘボン式ローマ字」を考案したということ。

尚、この辞書は18両という高額で、個人では買えない額だったが、藩が競って買うようになり、瓦解のさなかの幕府が300冊は買ったということで、大政奉還後2年で初版本が売り切れ、明治5年(1872年)に第2版が、明治19年(1886年)に第3版が出たが、古書店でも42ドル、写本が60ドルで、海賊版まで出たそう。

3-8、ヘボン、聖書の翻訳も

ヘボンは、ブラウンと共に新約聖書の日本語訳も手掛け、明治13年(1880年)頃に、新約聖書の和訳を完成。また明治6年(1874年)にブラウン邸で旧約聖書の日本語訳委員会の委員長に任命され、他の宣教師たちと旧約聖書の日本語訳に着手、明治20年(1887年)に完成。この翻訳には、バラ、ブラウンら宣教師たちに導かれて明治4年(1872年)に結成された、横浜バンドと呼ばれた奥野昌綱などの日本基督公会の人たちが協力。

3-9、スパイも潜入

明治維新後、すぐにキリスト教禁制が解除したわけではなかったので、聖書の翻訳には日本人の協力が不可欠なヘボンたちの周囲にも、太政官などからのスパイが潜入して、色々と探っていたよう。明治6年(1873)2月24日、諸外国からの強い抗議で、明治政府は太政官布告第68号によってキリシタン禁制の高札を撤去、キリスト教に対する禁教政策は終わったが、まだまだキリスト教に対する偏見なども多かったということ。

3-10、ヘボン、明治学院の学院長に

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高谷道男 - 『ヘボンの手紙』有隣堂、p.38, パブリック・ドメイン, リンクによる

ヘボンは、和英辞典第3版の出版権の売却料2000ドル全額を明治学院に寄付して、ヘボン館が建設。そして明治22年(1889年)から明治24年(1891年)まで学院長を務めたということ。尚、明治学院には後にはエドウィン・ライシャワーの父オーガスト・カール・ライシャワー宣教師が明治学院高等部長から、明治学院神学部教授に就任したそう。

また、ヘボンは明治23年(1890年)、横浜に教会を建てるため、アメリカ横断旅行で募金活動を行い、8000ドルを集めて寄付、ヘボンの母教会の名にちなんだ指路教会が献堂されたということ。シロは旧約聖書で、平和をもたらす者、メシヤを示し、古い時代の聖なる町の意味もあるそう。

3-11、晩年のヘボン

image by PIXTA / 57008541

ヘボンは聖書の翻訳を終えたら、聖書辞典が完成したら帰国すると言っていたが、日本にいたい気持ちが強くなかなか帰国せず。

しかし当時の日本は文明開化社会で最初は外国人の力を借りたが、日本人だけでやっていけると、それまで力を貸してくれた外国人に対する態度があからさまに冷たくなっていったということで、外国人の日本の研究者やお雇い外国人教育者たちは、こぞってそういう日本に対する嫌悪感を持ったそう。ヘボンも同様で、明治25年(1892年)、病を得たクララ夫人と共に、日本で出来ることはすべてした、といい残して離日、ニュージャージー州イーストオレンジに居を構えて暮らしたが、回想録などは一切残さずに 明治44年(1911年)、96歳で死去。

ニューヨークでヘボンが死去したのと同時刻に、日本のヘボン邸が出火して全焼したという不思議な出来事も。

キリスト教布教目的で来日し、日本の開明期に多大な貢献

ヘボン博士はアメリカの都会ペンシルベニア州の堅実なインテリで信仰の篤い家庭に生まれて医師となり、若い頃からキリスト教布教のために極東へ行く夢を持ち、同じ夢を持った女性と巡り会って結婚、すぐに中国へ渡ったものの病気で帰国。そして病院経営がうまくいってひと財産築いたのちに、あっさりと財産を整理して日本へやってきたということ。

そしてヘボン夫妻は30年もの長きにわたり、日本人のために無料で最新医療で診療を行い、、英和、和英辞典を作り、ローマ字表記を考案し、キリスト教を布教するために聖書を翻訳、そして教育も行って人材を育てて学校も設立と、フル回転で多角的に日本の近代化に貢献。

この、自らの意思で、困難な時代に発展途上の国へ赴き、見返りを求めず情熱をもって惜しみなく自分の持てるものを与えるという、キリスト教的奉仕の精神を貫いたヘボン夫妻の業績と生涯は、ローマ字表記だけでなく日本人の間にもっと詳しく知られていいはずだと思います。

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日本史明治歴史

ヘボン式ローマ字を開発した「ヘボン」アメリカ人宣教師で医師であるヘボンを歴女がわかりやすく解説

今回はヘボンを取り上げるぞ。

ローマ字を考案したくらいしか知らないが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。その辺のところを来日外国人には興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末から明治時代の来日外国人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ヘボンについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ヘボンはアメリカ、ペンシルバニア州の生まれ

「ヘボンの生涯と日本語」によれば、ヘボンのフルネームは、ジェームス・カーティス・ヘボン、1815年3月13日にペンシルベニア州ミルトンで誕生。来日当時、本人は「へバーン」と発音したが、日本人にはヘボンと聞こえたために定着、本人も「平文」とサインしたということ。

しかし本来はあのオードリー・ヘップバーンと同じ、アイルランドによくある、Hepburn。

ヘボンの先祖は
Hepburnの名は、HebronまたはHebburnという町に由来。ヘボンの遠い祖先は、スコットランドのメアリ女王の3番目の夫であったボスウェル伯爵に連なるということ。近い祖先は、イギリス国教による長老派迫害を逃れてサムエル・ヘップバーン(曾祖父。父と同名)が1773年にアメリカへ渡ったのが始まりで、子ジェームス、孫サムエルと続きその長男がジェームス・カーティス・ヘボン。

1-2、ヘボンの子供時代

ヘボンの家庭は、父は判事、母は教会の婦人会の会長という恵まれた環境で、後に弟ひとりと妹6人が誕生。仲の良い弟のスレーターは後に牧師として相談相手に。

当時のアメリカは金鉱や石油が発見され、西へと拡大していくエネルギッシュな時代で、ヘボンは品行方正で科学に興味のある少年として育ったということ。そしてアメリカの中国市場の進出が始まり、教会関係者は中国へのキリスト教の布教伝道に力を注ぎ、「東洋のために祈ろう」と、若い宣教師たちが中国で伝道活動に参加、また彼らの苦難の様子を教会の会報などで読んだり聞いたりして、アメリカ各地で「無知蒙昧な人々にキリスト教を布教して啓蒙しよう」という運動が盛んだったそう。

1-3、ヘボン、プリンストン大学に編入学、ペンシルバニア大学で医学博士に

ヘボンは16歳で名門プリンストン大学に編入したが、科学が勉強したいのに語学、ラテン語を勉強しろと言われて学長に抗議、学長に何を学ぶにも語学が基礎になると諭されたことで、ヘボンは言葉に対する挑戦をかきたてられるようになり、その後ラテン語やギリシア語を学び始めたが、コレラの流行で学校が閉鎖され、学業途中で卒業に。そしてヘボンは名門ペンシルバニア大学医科に入学し、医学博士号を取得。1834年になぜか東洋で働こうと思い立ったということだが、父は大反対、ヘボンはノリスタウンの病院で勤務することに。

1-4、ヘボン、クララ夫人と出会う

ヘボンは病院勤務をしつつ、東洋への夢は捨てていなかったのですが、ある日、ノリスタウンにある従兄の経営する学校へ手伝いに来たアメリカ南部の名門の出身のクララ・メアリー・リートと出会い、海外宣教の話で意気投合して1840年に結婚。翌年、ヘボン夫妻は船医を募集した小さな捕鯨船に乗り、米国長老教会の宣教師派遣計画で、シャム(タイ)へと旅だったということ。

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