今日は日清戦争(にっしんせんそう)について勉強していきます。近代化を目指していた明治時代の1894年、日本が初めて外国と戦争を行ったのが日清戦争で、戦った相手は現在の中国である清国です。

朝鮮半島の支配権を巡って起こったこの戦争は日本の勝利に終わるが、日清戦争とはどのような戦争だったのか。そこで今回、日清戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日清戦争をわかりやすくまとめた。

1882年、壬午軍乱の勃発

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対立する大院君と閔妃

朝鮮王朝の第25代の王・哲宗が死去した後、王族である大院君の子が第26代の王・高宗として即位します。宗哲に息子がいれば当然息子が後を継いで即位したでしょうが宗哲には息子はおらず、そのため高宗が即位、そして高宗には閔妃という名の妻がいました。

さてその矢先、王となった高宗の周囲で権力争いが勃発、揉めていたのは高宗の父・大院君と高宗の妻・閔妃です。それぞれ相手を潰そうとする大院君と閔妃、大院君が軍隊を動かす一方で閔妃は日本の力を借りますが、ここで大院君は大規模なクーデターを起こします。

このクーデターで狙われたのは閔妃はもちろんですが、閔妃が協力を求めた日本もその対象となってしまい、そのため朝鮮の日本大使館が焼きうちされるなど、クーデターは朝鮮内においてまるで戦のごとく大きなものとなりました。しかし、清国によってクーデターは鎮圧されます。

大院君のクーデターと結末

大院君が起こしたクーデター、それは1882年の壬午軍乱と呼ばれるもので、大院君を筆頭にした反乱軍は閔妃を王宮から追い払うことに成功します。閔妃の命を奪うことはできなかったもののクーデターは成功、こうして大院君が政治の主導権を握ることになりました。

もちろん国の頂点に立つのは王・高宗でしょう。しかし「清国の従属国としての立場を大事にしつつ、強い勢力に従って外交政策を進めるべき」と考える守旧派の大院君、「朝鮮は近代化を目指すべき」と考える開化派の閔妃、つまり大院君と閔妃は国論で衝突していたのです。

過激化するクーデターに対して鎮圧に乗り出したのが清国、反乱鎮圧と日本公使の護衛を目的に反乱軍の頭・大院君を拉致します。こうして一時は大院君が政治の主導権を握ったものの、クーデター鎮圧によって最終的な政治の主導権は閔妃が握ることになりました

1884年、甲申事変の勃発

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金玉均のクーデターの失敗

閔妃はクーデター鎮圧の実績から清国を高く評価、一方で日本の評価が下がります。何しろ閔妃はクーデターによって王宮を追われた身、絶体絶命の窮地を救ってくれた清国を評価するのは当然でしょうし、それができなかった日本に対して評価が下がるのもまた当然かもしれません。

閔妃は清国を後ろ盾につけたことで大きな改革を行おうとしませんでしたが、一方で日本の明治維新にならって改革すべきと主張する者もいました。その者の名は金玉均、しかし閔妃には清国という強力な後ろ盾がついていたことから、金玉均は日本に接近することを考えます

そしてクーデターを計画、この計画には日本も協力しました。当時朝鮮では清国につくべきか日本につくべきかで意見が割れており、1884年の甲申事変にて日本は清国を朝鮮から追い払ってしまうと考えたのです。しかしそれは失敗、またしてもクーデターは清国によって鎮圧されたのでした。

天津条約による一時的解決

金玉均のクーデターは失敗に終わりましたが、日本の清国の関係悪化はそう簡単に解決する問題ではありません。甲申事変の影響で日本と清国はいつ戦争を起こしても決しておかしくなく、朝鮮という国を巡って両国は対立する関係となってしまったのです。

ただ、日本としてはこの時点ではまだ清国との戦争を望んでいなかったのでしょうか。幸いにもそのまま戦争に突入することはなく、1885年に日本は清国との間で天津条約を結んで一時的に事態を解決させました。天津条約の際に特命全権大使に任命されたのは伊藤博文、条約の内容は次のようなものです。

「朝鮮から両軍とも撤兵すること」、「両国とも朝鮮に軍事教官を派遣しないこと」、「朝鮮に出兵するときは、両国とも事前通告をすること」、要するに今後朝鮮に出兵するなら相手の国に通知してくださいという決まりですね。ともあれ、天津条約の締結によって日本と清国の戦争は回避されました。

1894年、甲午農民戦争の勃発

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農民の不満と東学党の弾圧

天津条約の締結でひとまず落ち着いた日本と清国の関係、しかし朝鮮の平和は長く続きませんでした。今度は朝鮮の中で大きな問題が勃発、それは農民による反乱です。不平等条約の締結や閔妃の政治に不満が高まった農民達が各地で反乱を起こし始めたのでした。

さて同じ頃、朝鮮では東学と呼ばれる宗教を信仰する人々が増えていきます。儒教・道教をまとめた新たな思想を説く東学は崔済愚が作り出し、そして広まっていきました。キリスト教を弾圧する特徴を持つこの東学、それを信仰する人々はいつしか東学党と呼ばれるようになります。

東学党はキリスト教弾圧の教えにならって西洋諸国の大使館やキリスト教の教会を襲撃、過激なその行為を政府が黙って見過ごすはずありません。そのため、キリスト教弾圧に励むはずの東学党は、朝鮮政府によって逆に自らが信仰していた東学を弾圧されてしまったのです。

日本と清国の挙兵

朝鮮政府に弾圧された東学党、朝鮮政府の政治に不満が高まる農民……政府を憎む点で意気投合した東学党と農民は、こともあろうに団結して大規模な反乱を起こします。それは1894年のこと、甲午農民戦争と呼ばれる朝鮮半島で起きた農民の反乱の始まりでした。

この反乱は日本の反乱を遥かに超える凄まじいもので、反乱開始からわずか二ヶ月で大きな地域が占領されてしまうほどの事態になります。怯える閔妃はすぐに清国に反乱鎮圧のための挙兵を求め、また清国もそれに応じますが、天津条約に従って挙兵する旨を日本に通達しました。

一方の日本、立場的には反乱にも援軍要請にも全くの無関係ですが、清国が挙兵したことで日本もまた挙兵、反乱が起こるさなか朝鮮に清国と日本の軍がやってきて再び緊迫した事態となったのです。反乱自体は農民側が勝利しますが、この時の日本の対応が日清戦争勃発の引き金となるのでした

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1894年、日清戦争の勃発

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日本の提案と思惑

クーデターやら反乱やら、度重なる問題を起こしてその都度清国に助けを求める朝鮮、そこで日本は清国に対して「日本と清国が協力して朝鮮の政治を改革してみてはどうだろう?」と提案します。当然清国はそんな日本の提案を断固拒否、そもそも朝鮮は清国からすれば属国ですから、その地に日本が入ってくること自体が不愉快でした。

「なぜ自国の属国である朝鮮の政治に日本が口を挟んでくるのか?」……確かに清国の主張は正論でしょう。しかし、日本からすれば提案を拒否されることは想定内、むしろそれを清国に対する戦争の大義名分として掲げようと考えていたのです。そう、朝鮮の独立という清国と戦争する堂々たる口実を作れたのでした。

日本はロシアの支配が自国に及ぶのを怖れており、と言うのもロシアの支配が既に東アジアまで及んでいたからですね。そこで日本が狙いを定めたのが朝鮮半島の支配、その実現のためには朝鮮を属国と主張する清国との戦争に勝利する必要があり、ですから清国との戦争は日本にとって望むところだったのです。

清国を圧倒する日本

1894年の7月、成歓の戦いにてソウル付近の豊島沖で日本艦隊が清国艦隊を攻撃、さらに8月1日に日本は清国に対して宣戦布告、こうして日本と清国の戦いとなる日清戦争が勃発します。この戦争で日本は陸軍も海軍も活躍、戦況は日本が一方的に有利なまま進んでいきました。

陸軍は朝鮮半島を進行して平壌にて清国陸軍を撃破、また海軍は清国海軍を黄海会戦にて撃破します。唯一問題となりかけたのは、清国軍の乗っていたイギリス船・高陞号を東郷平八郎艦長が攻撃してしまったことですが、これは法に基づいた行動とみなされてイギリスとの衝突には至りませんでした。

日清戦争は終始日本有利の展開で進み、最終的には日本が勝利、そもそも清国は軍の装備も統率も充分とは言えず、戦争時の指導者が決まらず効果的な指揮がとれていなかったことが敗因に挙げられています。日本の軍が首都・北京まで迫ってきた時、清国は敗北を認めて講和を決断しました。

日清戦争の影響

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下関条約による講和

日清戦争の敗北を認めた清国は講和を決断、そのための会議が山口県下関市で開かれます。清国の代表として会議に赴いたのは李鴻章、一方の日本は総理大臣の伊藤博文と外務大臣の李鴻章が代表として出席しました。そして会議の結果、両国との間に結ばれたのが下関条約です。

下関条約の内容は「清国は朝鮮国の独立を認めた上で一切手を出さないこと」、「遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲ること」、「日本に対して3億1100万円の賠償金を支払うこと」……主にこの3つでした。この条約締結は当然世界に知れ渡りますが、最も強く刺激されたのはロシアだったでしょう。

なぜなら、勢力を広げつつあるロシアは遼東半島への進出を計画しており、その矢先に下関条約によって遼東半島が日本の手に渡ってしまったからです。もちろんそれで諦めるロシアではなく、日本に対してドイツ・フランスと共になって圧力をかける姿勢を見せてきました。

三国干渉によるロシアの圧力

日本に圧力をかけるロシア、遼東半島を我が物にするため遼東半島を今一度清国に返還するよう要求してきます。これに対して伊藤博文と陸奥宗光は意見が分かれながらも、最終的にはロシアの要求に従って遼東半島の清国への返還を決断、1895年の三国干渉と呼ばれるものです。

ロシア・ドイツ・フランスの3国による日本に対する勧告、すなわち三国干渉を日本政府が受け入れたことは国民の不満を招きます。それもそのはず、せっかく日本のものとなった遼東半島をみすみす手放し、ロシアの要求を受け入れたことはロシアに屈したことになりますからね。

そこで日本政府は「臥薪嘗胆」をスローガンに掲げ、高まる国民の不満をロシアに対して向かわせようとしました。「臥薪嘗胆」の意味は「復讐を成功させるための苦労に耐えること」、ロシアへの復讐を誓った日本は海軍を中心とした軍事力強化に尽力、それはやがてこの先に勃発する日露戦争のきっかけにもなったのです。

日本や清国より朝鮮の視点から学ぼう!

日清戦争のポイントは、朝鮮の視点から学ぶことです。日清戦争は日本と清国の戦争、当然両国の視点から歴史を学んでいくのが自然ですが、日清戦争の流れを知るためのキーワードは朝鮮にあります。

実際、ここでも朝鮮半島を舞台にして解説してきましたが、この方が流れを掴みやすかったでしょう。戦争後の下関条約と三国干渉は別として、日清戦争が起こるまでのいきさつは朝鮮の視点から学ぶと理解しやすいですよ。

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日本史明治歴史

朝鮮半島の支配権を巡る一戦「日清戦争」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は日清戦争(にっしんせんそう)について勉強していきます。近代化を目指していた明治時代の1894年、日本が初めて外国と戦争を行ったのが日清戦争で、戦った相手は現在の中国である清国です。

朝鮮半島の支配権を巡って起こったこの戦争は日本の勝利に終わるが、日清戦争とはどのような戦争だったのか。そこで今回、日清戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日清戦争をわかりやすくまとめた。

1882年、壬午軍乱の勃発

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対立する大院君と閔妃

朝鮮王朝の第25代の王・哲宗が死去した後、王族である大院君の子が第26代の王・高宗として即位します。宗哲に息子がいれば当然息子が後を継いで即位したでしょうが宗哲には息子はおらず、そのため高宗が即位、そして高宗には閔妃という名の妻がいました。

さてその矢先、王となった高宗の周囲で権力争いが勃発、揉めていたのは高宗の父・大院君と高宗の妻・閔妃です。それぞれ相手を潰そうとする大院君と閔妃、大院君が軍隊を動かす一方で閔妃は日本の力を借りますが、ここで大院君は大規模なクーデターを起こします。

このクーデターで狙われたのは閔妃はもちろんですが、閔妃が協力を求めた日本もその対象となってしまい、そのため朝鮮の日本大使館が焼きうちされるなど、クーデターは朝鮮内においてまるで戦のごとく大きなものとなりました。しかし、清国によってクーデターは鎮圧されます。

大院君のクーデターと結末

大院君が起こしたクーデター、それは1882年の壬午軍乱と呼ばれるもので、大院君を筆頭にした反乱軍は閔妃を王宮から追い払うことに成功します。閔妃の命を奪うことはできなかったもののクーデターは成功、こうして大院君が政治の主導権を握ることになりました。

もちろん国の頂点に立つのは王・高宗でしょう。しかし「清国の従属国としての立場を大事にしつつ、強い勢力に従って外交政策を進めるべき」と考える守旧派の大院君、「朝鮮は近代化を目指すべき」と考える開化派の閔妃、つまり大院君と閔妃は国論で衝突していたのです。

過激化するクーデターに対して鎮圧に乗り出したのが清国、反乱鎮圧と日本公使の護衛を目的に反乱軍の頭・大院君を拉致します。こうして一時は大院君が政治の主導権を握ったものの、クーデター鎮圧によって最終的な政治の主導権は閔妃が握ることになりました

1884年、甲申事変の勃発

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