認知度が高まっていく遺跡
アユタヤ王朝が作られて以降、追い込まれていくクメール王国だったが国力自体も低下していたことで滅亡していくことになります。クメール王朝が滅亡してしまったことで、忘れられた存在となっていく遺跡群でしたが十六世紀にアンチェン一世によって改修されていきました。
未完成だったところ完成させていく
1546年頃にアンチェン一世によって再発見されたことで、未完成だった回廊を完成させていきヒンドゥー教の彫刻を掘り進めていきました。しかし孫のソター王が即位した際には仏教寺院へと改修されていきましたが以前と変わらず異教徒同士が混じり合う状況となります。
アンコール・ワット本堂に安置されていたヴィシュヌ神を仏像へと切り替え仏教をより強めていく形となりました。
アンコール・ワットの外観
アンコール・ワット全体は砂岩や熱帯雨林で採取出来たラトソルが用いられて、アジア地域では煉瓦などに利用されていた物が使われていました。西側が正門として境内は外周は東西千五百メートル・南北千三百メートル・幅百九十メートルの豪で囲まれていて防衛拠点としての一部も垣間見えるところがあります。
前庭を抜けていくと仏教関連を保管する経蔵と聖池が作られており三十の回廊と五つの祠堂が立っていて、第一回廊と第二回廊は十字回廊で繋がって本堂がある第三回廊は第一回廊と第二回廊を抜けた先に見えました。本堂の奥には安置されていたとするヴィシュヌ神が壁の中に埋もれているとされ現在は四体の仏像が安置されています。
ポルトガル人が初めて参拝
改修されていくアンコール・ワットの噂程度で認知されていたようで、それを確認するためにポルトガル人だったアントニオ・ダ・マダレーナが参拝したことがきっかけとなり徐々に認知度が高まっていきました。アントニオ・ダ・マダレーナはフランシスコの修道士で存在を確かめるために、この地域まで足を運び多数の僧が集団で暮らしている施設や設備を賛辞したと残されています。
日本でのアンコール・ワットと二人目の西欧人
このアンコール・ワットの情報は日本にも海外交易を目的とした朱印船貿易によって情報が入ってきました。当時の日本人達は釈迦が説法を行った祇園精舎として誤認していたようで、実際の遺跡を確認したのは通航が拡大したことで参拝者が増加した時に誤認していたことを気づいていきます。
また参拝者達は各名所に墨書を残していきいまも書かれた形跡が残されていますが、中でも有名な墨書は加藤清正の重臣だった森本一房がここに四体の仏像が奉じていると書き記していました。またアンコールワット内部を測量した実測図が今も水戸市の博物館に現存していて、計測した者も一房が書いたとされています。
アンコール・ワットは十八世紀にシェムリアップ洲と共にタイ王国に割譲されていきましたが、以前のように聖性は残されたまま歴史や遺跡が語り継がれていきました。十九世紀以降にアントニオ・ダ・マダレーナ以外の西欧人としてシャルル・ブイユヴォー神父が訪れ約三百年後に二度目の西欧人訪問となっていきます。
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