日本にも遺跡である古墳が多く点在していて埋葬者の権力象徴でもあったようです。また寺院も多く作られていて現存するものも多数あるな。

今回は寺院単体だけではなく遺跡群そのものが世界遺産に登録されたアンコール・ワットについて歴史マニアでもあり歴史ライターでもあるwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

カンボジアの文化的象徴であるアンコール・ワットを作られたとされる1100年頃からの歴史と観光地の部分を行ったことはないが、調べ上げアンコール・ワットの魅力を紹介していく。

クメール王朝によって建造

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ジャヤーヴァルマン二世がシャイレーンドラ朝から独立したことでクメール王朝が設立されカンボジア地域を支配していきスーリヤヴァルマン二世が国王になった際に、次々と寺院を建造していきました。その中の一つがアンコール・ワットです。

王朝の支配地域を増やしていく

ジャヤーヴァルマン二世によって作られた王朝でしたが、独立したばかりの時は戦える兵も少なく領土を拡大できる状況ではありませんでした。まずは拠点を作るために考古遺跡のコ・ケーを建造し兵力を増やしていくとハリプンチャイ王国の一部だったラヴォー王国と戦い占領することに成功します。

占領されてしまったラヴォー王国を奪還するべくハリプンチャイ王国は、クメール王国へと攻撃を仕掛けていきましたがマレー半島の王だったクメール人シータンマソッカラート王がクメール王国に対して支援したためハリプンチャイ王国が撤退を余儀なくされてしまいました。戦いは十年と長期間に渡り戦い続けたとされています。

ハリプンチャイ王国が撤退した1023年に、クメール王国はハリプンチャイ王国領内のラムプーンへと攻撃を開始していきましたが制圧することは出来ずに終えてしまいました。その後も王国周辺の敵国へと攻めていき領土を拡大させていきます。

アンコール・ワット建造

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スーリヤヴァルマン二世が国王に即位した時が、クメール王朝で数々の寺院が建造されておりその時に王都として建造をされていくのがアンコール・ワットとなります。アンコール・ワットが建造する当初の目的は国家鎮護とされヒンドゥー教の寺院として建造していきました。そしてヒンドゥー教には主な宗派が三つ存在していてこの時代ではシヴァ神を信仰するシヴァ派が大部分を占めていています。

しかしスーリヤヴァルマン二世の信仰は、ヴィシュヌ派だったためヴィシュヌ派の寺院として創設されていきました。着工してから完成までに長い年月を要したとされていてスーリヤヴァルマン二世が在位している期間中には完成しなかったようです。クメール王国の国王に即位したジャヤーヴァルマン七世が在位中に一部を除いて建造が終了してしまい未完成のままとなってしまいました。

仏教寺院も建てられていく

1190年には争っていたハリプンチャイ王国を降伏させたジャヤーヴァルマン7世は、更に領土を拡大するべくタイ・ラオス・ベトナムの一部を戦いに勝利したことで自国領土にしていきました。クメール王国での最大勢力となっていたのがこの頃とされており農業を発展させるために水を供給する設備を作り、農作物を王国内で潤わせていきます。

勢力は最大化していましたが、歴代国王と宗教が異なりジャヤーヴァルマン七世はヒンドゥー教徒ではなく仏教徒だったためアンコール・トムなどの仏教寺院を建造させていきました。全盛期を誇っていたクメール王国ではありましたが、長くは続かずに破滅の一途を辿っていきます。

1218年にジャヤーヴァルマン7世が亡くなり跡目争いが発生していくと急速に弱体化していき、一部の人達が独立していき王国を設立していきました。

クメール王国滅亡

弱体化していくクメール王国にモンゴル帝国が攻め込んできましたが、何とか防ぎきり持ちこたえていました。しかし一番の問題であったのがクメール王国に即位した王達が次々と寺院を建造していったことで資金が不足していき国力が衰えていきます。

また宗教もヒンドゥー教徒と仏教徒が混じり合って信仰が行われていたことで、ジャヤーヴァルマン8世が廃仏することを決定しヒンドゥー教に由来する題材が彫り直されていきました。この行動によって仏教徒のインドラヴァルマン三世がジャヤーヴァルマン八世を殺害し国王に即位。

1351年に隣国だったタイにアユタヤ王朝が設立されたことで、クメール王国から独立したスコータイ王国が制圧されていきました。徐々に力を付けていったアユタヤ王朝は十四世紀後半から度々クメール王国に攻撃を仕掛けていき1431年に王都となっていたアンコール・トムを制圧したことでクメール王朝が滅亡していきます。

\次のページで「認知度が高まっていく遺跡」を解説!/

認知度が高まっていく遺跡

アユタヤ王朝が作られて以降、追い込まれていくクメール王国だったが国力自体も低下していたことで滅亡していくことになります。クメール王朝が滅亡してしまったことで、忘れられた存在となっていく遺跡群でしたが十六世紀にアンチェン一世によって改修されていきました。

未完成だったところ完成させていく

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1546年頃にアンチェン一世によって再発見されたことで、未完成だった回廊を完成させていきヒンドゥー教の彫刻を掘り進めていきました。しかし孫のソター王が即位した際には仏教寺院へと改修されていきましたが以前と変わらず異教徒同士が混じり合う状況となります。

アンコール・ワット本堂に安置されていたヴィシュヌ神を仏像へと切り替え仏教をより強めていく形となりました。

アンコール・ワットの外観

アンコール・ワット全体は砂岩や熱帯雨林で採取出来たラトソルが用いられて、アジア地域では煉瓦などに利用されていた物が使われていました。西側が正門として境内は外周は東西千五百メートル・南北千三百メートル・幅百九十メートルの豪で囲まれていて防衛拠点としての一部も垣間見えるところがあります。

前庭を抜けていくと仏教関連を保管する経蔵と聖池が作られており三十の回廊と五つの祠堂が立っていて、第一回廊と第二回廊は十字回廊で繋がって本堂がある第三回廊は第一回廊と第二回廊を抜けた先に見えました。本堂の奥には安置されていたとするヴィシュヌ神が壁の中に埋もれているとされ現在は四体の仏像が安置されています。

ポルトガル人が初めて参拝

改修されていくアンコール・ワットの噂程度で認知されていたようで、それを確認するためにポルトガル人だったアントニオ・ダ・マダレーナが参拝したことがきっかけとなり徐々に認知度が高まっていきました。アントニオ・ダ・マダレーナはフランシスコの修道士で存在を確かめるために、この地域まで足を運び多数の僧が集団で暮らしている施設や設備を賛辞したと残されています。

日本でのアンコール・ワットと二人目の西欧人

このアンコール・ワットの情報は日本にも海外交易を目的とした朱印船貿易によって情報が入ってきました。当時の日本人達は釈迦が説法を行った祇園精舎として誤認していたようで、実際の遺跡を確認したのは通航が拡大したことで参拝者が増加した時に誤認していたことを気づいていきます。

また参拝者達は各名所に墨書を残していきいまも書かれた形跡が残されていますが、中でも有名な墨書は加藤清正の重臣だった森本一房がここに四体の仏像が奉じていると書き記していました。またアンコールワット内部を測量した実測図が今も水戸市の博物館に現存していて、計測した者も一房が書いたとされています。

アンコール・ワットは十八世紀にシェムリアップ洲と共にタイ王国に割譲されていきましたが、以前のように聖性は残されたまま歴史や遺跡が語り継がれていきました。十九世紀以降にアントニオ・ダ・マダレーナ以外の西欧人としてシャルル・ブイユヴォー神父が訪れ約三百年後に二度目の西欧人訪問となっていきます。

\次のページで「冒険家の紀行文で世界的に有名な場所となる」を解説!/

冒険家の紀行文で世界的に有名な場所となる

シャルル・ブイユヴォー神父が訪れたことでも西欧に徐々にアンコール・ワットが浸透していくも、知らない西欧人の方が多かったようで大々的に有名となるのがフランス人の冒険家によって世界的な場所であると知られていきました。博物学者と冒険家だったアンリ・ムーオがジョン・ボーリングによって書かれたシャム王国の内容に触発されて植物調査を志していき政府に研究費用を申請しましたが、断られてしまいロンドンの一部協会が支援してくれたことでシャムなどを探知していきます。

1860年にアンコール・ワットへ訪れ三週間に渡り内部の詳細を細かく記し旅行日記に書き留めムーオの死後にこの日記が公開されアンコール・ワット一帯が世界的に知られる場所となっていきました。

遺跡として保存する動きを強めていく近代アンコールワット

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十九世紀頃はフランスとイギリスによる植民地争いが激化してた時にタイ王国から、フランスの植民地領となり本格的に研究が始まっていきアンコール遺跡保存事務所を設置していきました。1908年には観光用の道が作られてカンボジア王に即位したシソワットによって、アンコール・ワットとの関係を深めていきます。

更に遺跡として保存する動きが強くなっていくと、寺院に住んでいた僧達を退去させ保護寺院として保存活動が活発になっていきました。太平洋戦争後に独立したカンボジア王国は、遺跡の修復をしていきましたが1972年にカンボジア内戦が発生し武装組織だったクメール・ルージュが聖像破壊運動が行われて一部の奉納仏が壊され敷石にされてしまいます。

カンボジア王国がクメール・ルージュを追い込んでいくとアンコール・ワットへ逃げ込み遺跡群の堀を上手く利用し、遺跡であるため火重機の使用がためらわれておりましたが制圧するために砲撃を使い遺跡自体にも被害が出ていきました。

カンボジア最大の観光スポット

カンボジア来る旅行者は必ずといっていいほど、観光する場所となっています。

カンボジアまでの移動ルート

アンコール・ワットの最寄り空港がシェリムアップ国際となっていますが、日本からですと直行便が運航しておりませんのでバンコクかベトナムを経由してから到着。飛行時間だけで凡そ十時間から十二時間かかり経由するため空港での待ち時間もありますので十分に準備してからいくことをおすすめいたします。

航空会社は香港エクスプレスなどの格安LCCが多頻度で運航しており、ANAやJAL便はそこまで豊富ではありません。早朝の便で向かうことが出来れば十七時から十九時ぐらいの間で到着するとおもいますのでホテルのそのままチェックインし翌日アンコール・ワットに向かうといいでしょう。

アンコール・ワットの景色

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シェリムアップ国際から五キロほど離れた位置に、アンコール・ワットがあり移動手段はタクシーかトゥクトゥクが主流ですので事前に予約を入れているとスムーズに目的地まで行けると思います。アンコール・ワットは基本として入場チケットが必要で事前にチケットセンターで購入しておかないと、中に入ることも出来ません。

入場後に一番最初に見ることが出来るのが、聖池であり天候に恵まれていると水面に逆さアンコール・ワットを見ること出来ます。また朝日は特に絶景ですのでアンコール・ワットへの入場が出来るのが朝五時からとなっておりますので是非見ましょう。

\次のページで「世界遺産登録の理由」を解説!/

世界遺産登録の理由

世界遺産へと登録することが出来たのは、クメール王朝によるクメール美術が多く使われていて東南アジア地域に大きな影響を及ぼしたことと独自文化と周辺文化を取り入れてることによって副大陸様式と東南アジア様式との境界線を作ったことなどが上げられます。

アンコール・ワットの偉大さ

九世紀に建造された物が現存するだけでも、素晴らしいことですがフランスの植民地となった際に保存活動を行ってくれたことで今もなお歴史的建造物として評価されることになったのでしょう。また寺院として建てられているにも係わらず拠点として使用されていたことも驚きでした。日本でいうところの本願寺に近い存在だったのかも知れません。

カンボジア観光といえばはずことの出来ない場所になり、長期間滞在しないとアンコールトムやタプロームも見て周ることが出来ないようです。そして早朝五時から入場出来る世界遺産もあまりなく、朝日は感動する光景で特に夏と冬はアンコールワットの真上に太陽が上がってくるので人もたくさん訪れる人気な時期となっているでしょう。

昔の方々はこのような美しい彫刻を遺跡に多数残させたのは、未来へアンコールワットの歴史を伝えたかったようにも思えます。

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アジアの歴史世界史歴史

カンボジアの国都寺院の「アンコール・ワット」を戦国通のサラリーマンが5分でわかりやすく解説

日本にも遺跡である古墳が多く点在していて埋葬者の権力象徴でもあったようです。また寺院も多く作られていて現存するものも多数あるな。

今回は寺院単体だけではなく遺跡群そのものが世界遺産に登録されたアンコール・ワットについて歴史マニアでもあり歴史ライターでもあるwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

カンボジアの文化的象徴であるアンコール・ワットを作られたとされる1100年頃からの歴史と観光地の部分を行ったことはないが、調べ上げアンコール・ワットの魅力を紹介していく。

クメール王朝によって建造

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ジャヤーヴァルマン二世がシャイレーンドラ朝から独立したことでクメール王朝が設立されカンボジア地域を支配していきスーリヤヴァルマン二世が国王になった際に、次々と寺院を建造していきました。その中の一つがアンコール・ワットです。

王朝の支配地域を増やしていく

ジャヤーヴァルマン二世によって作られた王朝でしたが、独立したばかりの時は戦える兵も少なく領土を拡大できる状況ではありませんでした。まずは拠点を作るために考古遺跡のコ・ケーを建造し兵力を増やしていくとハリプンチャイ王国の一部だったラヴォー王国と戦い占領することに成功します。

占領されてしまったラヴォー王国を奪還するべくハリプンチャイ王国は、クメール王国へと攻撃を仕掛けていきましたがマレー半島の王だったクメール人シータンマソッカラート王がクメール王国に対して支援したためハリプンチャイ王国が撤退を余儀なくされてしまいました。戦いは十年と長期間に渡り戦い続けたとされています。

ハリプンチャイ王国が撤退した1023年に、クメール王国はハリプンチャイ王国領内のラムプーンへと攻撃を開始していきましたが制圧することは出来ずに終えてしまいました。その後も王国周辺の敵国へと攻めていき領土を拡大させていきます。

アンコール・ワット建造

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スーリヤヴァルマン二世が国王に即位した時が、クメール王朝で数々の寺院が建造されておりその時に王都として建造をされていくのがアンコール・ワットとなります。アンコール・ワットが建造する当初の目的は国家鎮護とされヒンドゥー教の寺院として建造していきました。そしてヒンドゥー教には主な宗派が三つ存在していてこの時代ではシヴァ神を信仰するシヴァ派が大部分を占めていています。

しかしスーリヤヴァルマン二世の信仰は、ヴィシュヌ派だったためヴィシュヌ派の寺院として創設されていきました。着工してから完成までに長い年月を要したとされていてスーリヤヴァルマン二世が在位している期間中には完成しなかったようです。クメール王国の国王に即位したジャヤーヴァルマン七世が在位中に一部を除いて建造が終了してしまい未完成のままとなってしまいました。

仏教寺院も建てられていく

1190年には争っていたハリプンチャイ王国を降伏させたジャヤーヴァルマン7世は、更に領土を拡大するべくタイ・ラオス・ベトナムの一部を戦いに勝利したことで自国領土にしていきました。クメール王国での最大勢力となっていたのがこの頃とされており農業を発展させるために水を供給する設備を作り、農作物を王国内で潤わせていきます。

勢力は最大化していましたが、歴代国王と宗教が異なりジャヤーヴァルマン七世はヒンドゥー教徒ではなく仏教徒だったためアンコール・トムなどの仏教寺院を建造させていきました。全盛期を誇っていたクメール王国ではありましたが、長くは続かずに破滅の一途を辿っていきます。

1218年にジャヤーヴァルマン7世が亡くなり跡目争いが発生していくと急速に弱体化していき、一部の人達が独立していき王国を設立していきました。

クメール王国滅亡

弱体化していくクメール王国にモンゴル帝国が攻め込んできましたが、何とか防ぎきり持ちこたえていました。しかし一番の問題であったのがクメール王国に即位した王達が次々と寺院を建造していったことで資金が不足していき国力が衰えていきます。

また宗教もヒンドゥー教徒と仏教徒が混じり合って信仰が行われていたことで、ジャヤーヴァルマン8世が廃仏することを決定しヒンドゥー教に由来する題材が彫り直されていきました。この行動によって仏教徒のインドラヴァルマン三世がジャヤーヴァルマン八世を殺害し国王に即位。

1351年に隣国だったタイにアユタヤ王朝が設立されたことで、クメール王国から独立したスコータイ王国が制圧されていきました。徐々に力を付けていったアユタヤ王朝は十四世紀後半から度々クメール王国に攻撃を仕掛けていき1431年に王都となっていたアンコール・トムを制圧したことでクメール王朝が滅亡していきます。

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