
2-3、オールコック、東禅寺に総領事館を
オールコックは、開港予定地である神奈川を視察した後、高輪の東禅寺に暫定のイギリス総領事館を置いて、軍馬売却を幕府に要請。幕府側はオールコックらの到着を事前に知らされていなかったが、交渉は順調に進み、一行は江戸城に登城、批准書の交換が行われたということ。
尚、オールコックは神奈川を視察した際、対岸の横浜に居留地が建っているのを見て、幕府が神奈川と寒村だった横浜村とすり替えたことを知ったが、結局領事館を神奈川の浄瀧寺に設置することで妥協したそう。 その後、安政6年(1859年)9月から10月にかけて、もう一つの開港地である函館へ旅行。オールコックは安政6年(1859年)11月7日に、特命全権公使に昇格。
2-4、オールコック、外国人として富士山に初登頂
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万延元年(1860年)7月27日、オールコックは富士山村山口登山道から富士山へ。記録に残る中では、外国人として初の登頂ということ。尚、途中で村山三坊の大鏡坊に宿泊。また、帰路に熱海に旅行したとき、オールコックの愛犬のトビー(スコティッシュ・テリア)が、大湯間歇泉の熱湯を浴びて大やけどを負って死んでしまったが、村人達が手厚く埋葬してくれ感激したということ。太平洋戦争後、オールコック来訪の記念碑とトビーの墓が大湯間歇泉の脇に建立。
万延元年(1861年)12月4日、米国駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳だったオランダ人のヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に襲われ、翌日死去。オールコックは外国人の安全を保証できない幕府への抗議として、外交団が横浜へ引き移ることを提案したが、ハリスは反対。結局オールコックはフランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールと共に、横浜へ移り、1か月後に江戸へ戻ることに。
万延元年(1861年)3月下旬からモース事件の後処理のため香港に滞在。この間にロシア軍艦対馬占領事件の報告を受け、英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープと協議、軍艦2隻を対馬に派遣して偵察。オールコックは長崎に到着、4月23日に長崎を出発し瀬戸内海と陸路で34日の旅行の後に、文久元年(1862年)5月27日に江戸に。
2-5、第一次東禅寺事件に遭遇、ロシア艦隊を対馬から退去させる

文久元年(1862年)5月28日、東禅寺のイギリス公使館を攘夷派水戸浪士ら14名が襲撃。オールコックは無事だったが、一等書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷。このためにイギリス水兵の公使館駐屯が認められて、イギリス艦隊の軍艦が横浜に常駐することに。文久元年(1862年)7月8日、艦隊を率いてホープが来日、オールコックはホープと共にイギリス艦隊の圧力での対馬のロシア軍艦退去を幕府に提案、幕府はこれを受け入れ、ロシア軍艦は対馬から退去。
2-6、オールコック、幕府と交渉後、賜暇で離日
文久元年(1862年)7月9日と10日に、オールコックは、ホープ、オリファント(第一次東禅寺事件で負傷し帰国)と、老中安藤信正、若年寄酒井忠眦と通訳を加えた秘密会談を行ったが、幕府権力の低下を肌で感じたということ。また幕府の主張する、新潟、兵庫、江戸、大坂の開港開市延期に対し、オールコックは断固拒否したが、秘密会談の後、開港開市延期の必要性を理解して、幕府が派遣予定の遣欧使節を強力にサポートすることに。
また、オールコックは休暇帰国を利用して、直接英国政府に開港開市延期を訴えることを約束・オールコックは文久2年(1863年)2月23日に離日、ロンドンに着いたのちに、5年間の開港開市延期を認めるロンドン覚書が調印。またオールコックは帰国中にバス勲章を授与されて、サーの称号を。そして自著「大君の都」を出版。
2-7、オールコック、賜暇休暇を終えて日本に帰任
約2年の休暇の後、オールコックは元治元年(1864年)春に日本に帰任、不在中に日本の様相は一変、生麦事件勃発と報復としての薩英戦争、薩摩藩と仲直りして留学生がイギリスに送られ、そして長州藩の攘夷実行による下関での外国船砲撃のため関門海峡は航行不能に。また幕府も攘夷派懐柔のため、ヨーロッパに横浜鎖港談判使節団を派遣という具合に。
オールコックはまず外国船の下関海峡通過のために、フランス、オランダ、アメリカに声をかけて4か国の軍隊を率いて下関攻撃、四国艦隊下関砲撃事件に主導的役割を果たして成功。しかしオールコックは本国イギリスにお伺いを立てたが返事を待たずに実行し、実行後に攻撃を認めないという命令書が届いたため、イギリス外相ジョン・ラッセルに日本駐在公使を解任され、帰国の途に。
尚、オールコックの後任の駐日公使は、かつて清でオールコックの部下だったハリー・パークスが着任。
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2-8、その後のオールコック
尚、後に四国艦隊下関砲撃事件について、オールコックの外交政策が至当だったと認められたため、オールコックは日本への帰任を要請するが認められず。
代わりに1865年に、当時のアジア駐在イギリス外交官の中では最も地位が高かった清国駐在公使に任じられたということ。
オールコックは4年間北京で公使を務めた後、1869年に外交官を引退後、若い頃研修医を務めたウェストミンスター病院の理事、同眼病院理事、理事長に就任し、ソホーの婦人病院とその医療団体、慈善団体の役員としても医療施設の充実、公衆衛生の普及などに協力。1875年からは工務省の衛生委員として公共保健法公布や、1889年の伝染病予防についての法案の施行にも多大な尽力をしたということで、1887年にはヴィクトリア女王の即位50年記念事業企画委員に選出されて、女王即位記念看護婦学校の設立に携わったということ。
また1876年から20年もの間、王立地理学協会の会長を務め、極東アジアに関する論文を発表したり、アフリカ探検の募金募集委員長なども務めたということ。
1878年には、パリ万国博覧会のイギリス代表も務め、日本の美術工芸についての著書も出版。
そして当時未開発の地だったボルネオの戦略的重要性に目をつけ、1881年にイギリス政府より特許状をえて、北ボルネオ会社の設立に参画、これは単なる貿易会社ではなく、行政権から土地所有権、鉱山採掘権、耕作権に課税権に至るという大きな権限を有し、名目上は保護領だった北ボルネオを実質的に支配する会社で、オールコックは10年にわたって会長を務めたということ。
そして1897年にロンドンで88歳で死去。
3-1、オールコックの逸話
フェリーチェ・ベアト – http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kyniska/ambush1.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
色々な逸話があります。
3-2、オールコック、初歩的な日本語文法や会話の本を作成
オールコックは、中国赴任中も中国語の習得をこころがけたが、日本に着任早々から日本語の勉強に熱心で、着任後2年余りで初歩的な日本語の文法書、会話書を著わしたということ。
オールコックは「大君の都」で、日本人の生活や文化を紹介し、日本人とヨーロッパ人の生き方、考え方や制度の違いについて比較、日本人の気質については、幕府の役人の対応の不誠実さとか、侍の一部の傲慢な振る舞いに憤慨しつつも、一般日本人の勤勉さや清潔さなどに好印象を持って紹介。また「日本の美術と工芸」など、他にも日本に関する著作あり。
3-3、名文家だと思っていたらしい
「ある英国外交官の明治維新」によれば、オールコックが清国駐在公使として赴任したとき、彼の書記官を務めた(継娘と恋愛の噂もあった)A・B・ミットフォードは、オールコックがものわかりのよい親切な人だったので、公使館の職員たちは好意を抱いていたが、郵便発送日が迫ると一変したそう。
オールコックは元々名文家だと思い込んでいるために、公文書が我慢が出来ないほど冗漫な延々と果てしなく続く長文で、読む人は興味を削がれてしまうくらいだったのですね。ミットフォードはオールコックの散漫な文章を筆写していると「地獄の悪魔の秘書として酷使されている」気分だったと述懐。
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