今回はラザフォード・オールコックを取り上げるぞ。幕末に来た最初の駐日イギリス公使か、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末から明治に来日した外国人に興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末から明治に来日した外国人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ラザフォード・オールコックについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ラザフォード・オールコックはイギリス生まれ

ラザフォード・オールコックは1809年5月、ロンドン西郊のイーリングで誕生。オールコック著「大君の都」あとがきによれば、本名はジョン・ラザフォード・オールコックだが、本人はジョンという名前を使わなかったということ。後に駐日イギリス公使となったとき、サーの称号を与えられたが、ここではオールコックで統一。

父トーマスは医師で、母が早く亡くなったために息子のオールコックはイングランド北部の親戚に預けられて成長。病弱だったオールコックは読書好きな少年だったよう。

1-2、オールコックの受けた教育は

image by PIXTA / 58456616

オールコックは1823年、15歳で父の元に戻って医学の勉強を開始、最初は当時外科医として名声を博していたG・J・グスリー博士に師事し、ウェストミンスター病院、ウェストミンスター眼科病院で1年間教育を受け、その後は1828年までパリに留学、解剖学、化学、自然史を修めて、フランス語とイタリア語も会得。

オールコックは、絵画や彫刻にも興味を持っていたが、彫刻家のアトリエに通って彫刻の手ほどきを受けたということ。そしてロンドンに戻って、ウェストミンスター病院で研修医として2年間過ごした後、1830年、21歳で王立外科学校から外科の開業医の免許を獲得。

1-3、オールコック、軍医に

1834年、師匠のG・J・グスリー博士が、従軍外科医の推薦を頼まれて若きオールコックを推薦、オールコックは承諾して、その日のうちにポーツマス軍港に急行、アゾレス諸島へ向かう海兵隊付きの外科医となり、正式に軍医に採用されたということ。

2年後には、スペインの内乱のために派遣され、イギリス軍の軍医長として活躍、その功績により軍医副総監にまで昇進。イギリスに帰国後、スペイン従軍中の記録をまとめて出版し、脳震蕩や胸部の手術などに関する学術論文を発表、王立外科学会から表彰。オールコックは内務省解剖検査官などを務めたあと、外務省の要請でイベリアでの外交問題処理のために再びスペイン、ポルトガルへ。しかし、イベリアでの過労でリウマチになり、両手の親指が全く利かなくなったために、外科医として将来を断念することに。

2-1、オールコック、外交官に転身

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この頃のイギリスは1840年からのアヘン戦争で清を破って、南京条約締結により清の5港を開港させたばかりで、オールコックは極東アジア情勢に興味を持ったということ。

1843年、オールコックは結婚して間もない夫人と共に、中国の厦門(アモイ)へわたって診療所を開業、合間にイギリス領事館の一等書記官を兼務。そして外交官として適材と認められたオールコックは、1844年に福州領事に任命された後、しばらく厦門(アモイ)で過ごし、条約港福州で領事としてつとめ、租界管理、領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げたために、1846年には上海領事、1855年には広州領事と出世し、15年もの間中国でイギリス外交官として活動、1853年には最初の夫人を失ったが、福州、上海の租界の発展に尽力。

また、市場開拓のために清との再戦論を唱えて、上海領事のときに、当時のイギリス首相パーマストン子爵に対し清に武力行使を進言する書簡を送って、アロー戦争(1856年)を引き起こしたということ。

2-2、オールコック、日本開国後の初代駐日イギリス総領事に

安政5年(1858年)、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが訪日し、日英修好通商条約が締結。翌年には長崎、神奈川、箱館の3港が開港することになったため、オールコックは極東駐在イギリス外交官のベテランとして手腕を買われて、安政6年(1859年)3月1日付けで初代駐日イギリス総領事に任命、オールコックは50歳。

オールコックは5月3日に本国からの命令を香港で受け取り、5月16日には香港を立ち、上海に滞在中の駐日アメリカ総領事タウンゼント・ハリスから情報を仕入れてから長崎に到着。日英修好通商条約の批准書交換のために、5月26日に品川沖に到着し、高輪の東禅寺に。

\次のページで「2-3、オールコック、東禅寺に総領事館を」を解説!/

2-3、オールコック、東禅寺に総領事館を

オールコックは、開港予定地である神奈川を視察した後、高輪の東禅寺に暫定のイギリス総領事館を置いて、軍馬売却を幕府に要請。幕府側はオールコックらの到着を事前に知らされていなかったが、交渉は順調に進み、一行は江戸城に登城、批准書の交換が行われたということ。

尚、オールコックは神奈川を視察した際、対岸の横浜に居留地が建っているのを見て、幕府が神奈川と寒村だった横浜村とすり替えたことを知ったが、結局領事館を神奈川の浄瀧寺に設置することで妥協したそう。 その後、安政6年(1859年)9月から10月にかけて、もう一つの開港地である函館へ旅行。オールコックは安政6年(1859年)11月7日に、特命全権公使に昇格。

2-4、オールコック、外国人として富士山に初登頂

Sir Rutherford Alcock stele in Atami Japan.jpg
DanceWithNyanko - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

万延元年(1860年)7月27日、オールコックは富士山村山口登山道から富士山へ。記録に残る中では、外国人として初の登頂ということ。尚、途中で村山三坊の大鏡坊に宿泊。また、帰路に熱海に旅行したとき、オールコックの愛犬のトビー(スコティッシュ・テリア)が、大湯間歇泉の熱湯を浴びて大やけどを負って死んでしまったが、村人達が手厚く埋葬してくれ感激したということ。太平洋戦争後、オールコック来訪の記念碑とトビーの墓が大湯間歇泉の脇に建立。

万延元年(1861年)12月4日、米国駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳だったオランダ人のヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に襲われ、翌日死去。オールコックは外国人の安全を保証できない幕府への抗議として、外交団が横浜へ引き移ることを提案したが、ハリスは反対。結局オールコックはフランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールと共に、横浜へ移り、1か月後に江戸へ戻ることに。

万延元年(1861年)3月下旬からモース事件の後処理のため香港に滞在。この間にロシア軍艦対馬占領事件の報告を受け、英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープと協議、軍艦2隻を対馬に派遣して偵察。オールコックは長崎に到着、4月23日に長崎を出発し瀬戸内海と陸路で34日の旅行の後に、文久元年(1862年)5月27日に江戸に。

2-5、第一次東禅寺事件に遭遇、ロシア艦隊を対馬から退去させる

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文久元年(1862年)5月28日、東禅寺のイギリス公使館を攘夷派水戸浪士ら14名が襲撃。オールコックは無事だったが、一等書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷。このためにイギリス水兵の公使館駐屯が認められて、イギリス艦隊の軍艦が横浜に常駐することに。文久元年(1862年)7月8日、艦隊を率いてホープが来日、オールコックはホープと共にイギリス艦隊の圧力での対馬のロシア軍艦退去を幕府に提案、幕府はこれを受け入れ、ロシア軍艦は対馬から退去。

2-6、オールコック、幕府と交渉後、賜暇で離日

文久元年(1862年)7月9日と10日に、オールコックは、ホープ、オリファント(第一次東禅寺事件で負傷し帰国)と、老中安藤信正、若年寄酒井忠眦と通訳を加えた秘密会談を行ったが、幕府権力の低下を肌で感じたということ。また幕府の主張する、新潟、兵庫、江戸、大坂の開港開市延期に対し、オールコックは断固拒否したが、秘密会談の後、開港開市延期の必要性を理解して、幕府が派遣予定の遣欧使節を強力にサポートすることに。

また、オールコックは休暇帰国を利用して、直接英国政府に開港開市延期を訴えることを約束・オールコックは文久2年(1863年)2月23日に離日、ロンドンに着いたのちに、5年間の開港開市延期を認めるロンドン覚書が調印。またオールコックは帰国中にバス勲章を授与されて、サーの称号を。そして自著「大君の都」を出版。

2-7、オールコック、賜暇休暇を終えて日本に帰任

約2年の休暇の後、オールコックは元治元年(1864年)春に日本に帰任、不在中に日本の様相は一変、生麦事件勃発と報復としての薩英戦争、薩摩藩と仲直りして留学生がイギリスに送られ、そして長州藩の攘夷実行による下関での外国船砲撃のため関門海峡は航行不能に。また幕府も攘夷派懐柔のため、ヨーロッパに横浜鎖港談判使節団を派遣という具合に。

オールコックはまず外国船の下関海峡通過のために、フランス、オランダ、アメリカに声をかけて4か国の軍隊を率いて下関攻撃、四国艦隊下関砲撃事件に主導的役割を果たして成功。しかしオールコックは本国イギリスにお伺いを立てたが返事を待たずに実行し、実行後に攻撃を認めないという命令書が届いたため、イギリス外相ジョン・ラッセルに日本駐在公使を解任され、帰国の途に。

尚、オールコックの後任の駐日公使は、かつて清でオールコックの部下だったハリー・パークスが着任。

2-8、その後のオールコック

尚、後に四国艦隊下関砲撃事件について、オールコックの外交政策が至当だったと認められたため、オールコックは日本への帰任を要請するが認められず。

代わりに1865年に、当時のアジア駐在イギリス外交官の中では最も地位が高かった清国駐在公使に任じられたということ。

オールコックは4年間北京で公使を務めた後、1869年に外交官を引退後、若い頃研修医を務めたウェストミンスター病院の理事、同眼病院理事、理事長に就任し、ソホーの婦人病院とその医療団体、慈善団体の役員としても医療施設の充実、公衆衛生の普及などに協力。1875年からは工務省の衛生委員として公共保健法公布や、1889年の伝染病予防についての法案の施行にも多大な尽力をしたということで、1887年にはヴィクトリア女王の即位50年記念事業企画委員に選出されて、女王即位記念看護婦学校の設立に携わったということ。

また1876年から20年もの間、王立地理学協会の会長を務め、極東アジアに関する論文を発表したり、アフリカ探検の募金募集委員長なども務めたということ。

1878年には、パリ万国博覧会のイギリス代表も務め、日本の美術工芸についての著書も出版。

そして当時未開発の地だったボルネオの戦略的重要性に目をつけ、1881年にイギリス政府より特許状をえて、北ボルネオ会社の設立に参画、これは単なる貿易会社ではなく、行政権から土地所有権、鉱山採掘権、耕作権に課税権に至るという大きな権限を有し、名目上は保護領だった北ボルネオを実質的に支配する会社で、オールコックは10年にわたって会長を務めたということ。

そして1897年にロンドンで88歳で死去。

3-1、オールコックの逸話

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フェリーチェ・ベアト - http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kyniska/ambush1.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

色々な逸話があります。

3-2、オールコック、初歩的な日本語文法や会話の本を作成

オールコックは、中国赴任中も中国語の習得をこころがけたが、日本に着任早々から日本語の勉強に熱心で、着任後2年余りで初歩的な日本語の文法書、会話書を著わしたということ。

オールコックは「大君の都」で、日本人の生活や文化を紹介し、日本人とヨーロッパ人の生き方、考え方や制度の違いについて比較、日本人の気質については、幕府の役人の対応の不誠実さとか、侍の一部の傲慢な振る舞いに憤慨しつつも、一般日本人の勤勉さや清潔さなどに好印象を持って紹介。また「日本の美術と工芸」など、他にも日本に関する著作あり。

3-3、名文家だと思っていたらしい

「ある英国外交官の明治維新」によれば、オールコックが清国駐在公使として赴任したとき、彼の書記官を務めた(継娘と恋愛の噂もあった)A・B・ミットフォードは、オールコックがものわかりのよい親切な人だったので、公使館の職員たちは好意を抱いていたが、郵便発送日が迫ると一変したそう。

オールコックは元々名文家だと思い込んでいるために、公文書が我慢が出来ないほど冗漫な延々と果てしなく続く長文で、読む人は興味を削がれてしまうくらいだったのですね。ミットフォードはオールコックの散漫な文章を筆写していると「地獄の悪魔の秘書として酷使されている」気分だったと述懐。

\次のページで「3-4、オールコック、西洋野菜も栽培」を解説!/

3-4、オールコック、西洋野菜も栽培

「大君の都」によれば、オールコックは、パセリやレタス、芽キャベツ、菊芋なども栽培。横浜でイギリスから持ってきた種で大きな菜園を作った外国人もいたということで、日本人もそういう外国人から西洋野菜の栽培を教えてもらい、横浜の山の手から近隣の農村へと西洋野菜が広まっていったということ。

軽井沢には外国人の置き土産のクレソンの群生地があると聞きますが、こうやって日本に西洋野菜が入ってきたのですね。

3-5、オールコック、ロンドン万博で日本美術工芸品を出品

オールコックは東洋美術にも興味を持っていたが、「外交官として、範例とすべき日本美術および美術工芸品を手に入れるよう指示を受けた」ということで、日本の芸術品のほかに日用品まで収集し、ロンドンの万国博覧会に展示することに。江戸幕府も好反応を示し出品に協力したいと申し出たので、オールコックは614点の展示物のカタログを準備し自分で厳選した漆器、刀剣類、わら細工、籠、陶磁器、冶金製品、和紙、革製品、織物、彫刻、絵画、挿絵、版画、オランダからの機械、教育用の作品と器具、玩具など、幕府からは紙製品、日本の硬貨一組が提供され、イギリス本国へ。

文久元年(1862年)に開催された第2回ロンドン万国博覧会では、オールコック選の日本の展示物が大好評で、その後開催されたパリ万博やウィーン万博などでブームになったジャポニズムの先駆け的なものだったのですが、開会式にも列席した文久遣欧使節の福沢諭吉らの日本からの使節団は、草履や蓑といったものまで展示されてあるので不満だったということ。

最初の駐日イギリス公使として歴史に名を残した

ラザフォード・オールコックは、最初は医師として軍務に携わった後、外交官に転身。当時は新しい魅力的な土地に見えたのか、遠い極東アジアの中国までやってきて、外交官としての才能を発揮して認められた後に、開国したばかりの日本へ赴任した人。

オールコックは非常に穏やかな性格だったようですが、才気煥発なアーネスト・サトウを書類仕事から解放し、日本語の勉強を思う存分させたことで早期に日本語を会得して、ややこしい状況の日本で情報収集できるようになったし、四国艦隊下関砲撃事件を本国の許しを得ずに行ったことで辞職に追い込まれたというものの、結局は駐北京公使として出世しているのですから、かなりの有能な外交官で、イギリス政府も認めていたということ。

またロンドン万博に日本の品々を出展してジャポニズムブームの先駆けとなったこと、「大君の都」などを執筆して当時の日本のスケッチや目撃談などを残したことなどなど、最初の駐日イギリス公使としてのオールコックの功績も忘れてはならないでしょう。

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幕末日本史明治歴史江戸時代

最初の駐日イギリス公使「ラザフォード・オールコック」について歴女がわかりやすく解説

今回はラザフォード・オールコックを取り上げるぞ。幕末に来た最初の駐日イギリス公使か、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末から明治に来日した外国人に興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末から明治に来日した外国人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ラザフォード・オールコックについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ラザフォード・オールコックはイギリス生まれ

ラザフォード・オールコックは1809年5月、ロンドン西郊のイーリングで誕生。オールコック著「大君の都」あとがきによれば、本名はジョン・ラザフォード・オールコックだが、本人はジョンという名前を使わなかったということ。後に駐日イギリス公使となったとき、サーの称号を与えられたが、ここではオールコックで統一。

父トーマスは医師で、母が早く亡くなったために息子のオールコックはイングランド北部の親戚に預けられて成長。病弱だったオールコックは読書好きな少年だったよう。

1-2、オールコックの受けた教育は

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オールコックは1823年、15歳で父の元に戻って医学の勉強を開始、最初は当時外科医として名声を博していたG・J・グスリー博士に師事し、ウェストミンスター病院、ウェストミンスター眼科病院で1年間教育を受け、その後は1828年までパリに留学、解剖学、化学、自然史を修めて、フランス語とイタリア語も会得。

オールコックは、絵画や彫刻にも興味を持っていたが、彫刻家のアトリエに通って彫刻の手ほどきを受けたということ。そしてロンドンに戻って、ウェストミンスター病院で研修医として2年間過ごした後、1830年、21歳で王立外科学校から外科の開業医の免許を獲得。

1-3、オールコック、軍医に

1834年、師匠のG・J・グスリー博士が、従軍外科医の推薦を頼まれて若きオールコックを推薦、オールコックは承諾して、その日のうちにポーツマス軍港に急行、アゾレス諸島へ向かう海兵隊付きの外科医となり、正式に軍医に採用されたということ。

2年後には、スペインの内乱のために派遣され、イギリス軍の軍医長として活躍、その功績により軍医副総監にまで昇進。イギリスに帰国後、スペイン従軍中の記録をまとめて出版し、脳震蕩や胸部の手術などに関する学術論文を発表、王立外科学会から表彰。オールコックは内務省解剖検査官などを務めたあと、外務省の要請でイベリアでの外交問題処理のために再びスペイン、ポルトガルへ。しかし、イベリアでの過労でリウマチになり、両手の親指が全く利かなくなったために、外科医として将来を断念することに。

2-1、オールコック、外交官に転身

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この頃のイギリスは1840年からのアヘン戦争で清を破って、南京条約締結により清の5港を開港させたばかりで、オールコックは極東アジア情勢に興味を持ったということ。

1843年、オールコックは結婚して間もない夫人と共に、中国の厦門(アモイ)へわたって診療所を開業、合間にイギリス領事館の一等書記官を兼務。そして外交官として適材と認められたオールコックは、1844年に福州領事に任命された後、しばらく厦門(アモイ)で過ごし、条約港福州で領事としてつとめ、租界管理、領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げたために、1846年には上海領事、1855年には広州領事と出世し、15年もの間中国でイギリス外交官として活動、1853年には最初の夫人を失ったが、福州、上海の租界の発展に尽力。

また、市場開拓のために清との再戦論を唱えて、上海領事のときに、当時のイギリス首相パーマストン子爵に対し清に武力行使を進言する書簡を送って、アロー戦争(1856年)を引き起こしたということ。

2-2、オールコック、日本開国後の初代駐日イギリス総領事に

安政5年(1858年)、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが訪日し、日英修好通商条約が締結。翌年には長崎、神奈川、箱館の3港が開港することになったため、オールコックは極東駐在イギリス外交官のベテランとして手腕を買われて、安政6年(1859年)3月1日付けで初代駐日イギリス総領事に任命、オールコックは50歳。

オールコックは5月3日に本国からの命令を香港で受け取り、5月16日には香港を立ち、上海に滞在中の駐日アメリカ総領事タウンゼント・ハリスから情報を仕入れてから長崎に到着。日英修好通商条約の批准書交換のために、5月26日に品川沖に到着し、高輪の東禅寺に。

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