
その辺のところを幕末から明治に来日した外国人に興味津々のあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、ラザフォード・オールコックはイギリス生まれ
- 1-2、オールコックの受けた教育は
- 1-3、オールコック、軍医に
- 2-1、オールコック、外交官に転身
- 2-2、オールコック、日本開国後の初代駐日イギリス総領事に
- 2-3、オールコック、東禅寺に総領事館を
- 2-4、オールコック、外国人として富士山に初登頂
- 2-5、第一次東禅寺事件に遭遇、ロシア艦隊を対馬から退去させる
- 2-6、オールコック、幕府と交渉後、賜暇で離日
- 2-7、オールコック、賜暇休暇を終えて日本に帰任
- 2-8、その後のオールコック
- 3-1、オールコックの逸話
- 3-2、オールコック、初歩的な日本語文法や会話の本を作成
- 3-3、名文家だと思っていたらしい
- 3-4、オールコック、西洋野菜も栽培
- 3-5、オールコック、ロンドン万博で日本美術工芸品を出品
- 最初の駐日イギリス公使として歴史に名を残した
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。幕末から明治に来日した外国人に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ラザフォード・オールコックについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、ラザフォード・オールコックはイギリス生まれ
ラザフォード・オールコックは1809年5月、ロンドン西郊のイーリングで誕生。オールコック著「大君の都」あとがきによれば、本名はジョン・ラザフォード・オールコックだが、本人はジョンという名前を使わなかったということ。後に駐日イギリス公使となったとき、サーの称号を与えられたが、ここではオールコックで統一。
父トーマスは医師で、母が早く亡くなったために息子のオールコックはイングランド北部の親戚に預けられて成長。病弱だったオールコックは読書好きな少年だったよう。
1-2、オールコックの受けた教育は

オールコックは1823年、15歳で父の元に戻って医学の勉強を開始、最初は当時外科医として名声を博していたG・J・グスリー博士に師事し、ウェストミンスター病院、ウェストミンスター眼科病院で1年間教育を受け、その後は1828年までパリに留学、解剖学、化学、自然史を修めて、フランス語とイタリア語も会得。
オールコックは、絵画や彫刻にも興味を持っていたが、彫刻家のアトリエに通って彫刻の手ほどきを受けたということ。そしてロンドンに戻って、ウェストミンスター病院で研修医として2年間過ごした後、1830年、21歳で王立外科学校から外科の開業医の免許を獲得。
1-3、オールコック、軍医に
1834年、師匠のG・J・グスリー博士が、従軍外科医の推薦を頼まれて若きオールコックを推薦、オールコックは承諾して、その日のうちにポーツマス軍港に急行、アゾレス諸島へ向かう海兵隊付きの外科医となり、正式に軍医に採用されたということ。
2年後には、スペインの内乱のために派遣され、イギリス軍の軍医長として活躍、その功績により軍医副総監にまで昇進。イギリスに帰国後、スペイン従軍中の記録をまとめて出版し、脳震蕩や胸部の手術などに関する学術論文を発表、王立外科学会から表彰。オールコックは内務省解剖検査官などを務めたあと、外務省の要請でイベリアでの外交問題処理のために再びスペイン、ポルトガルへ。しかし、イベリアでの過労でリウマチになり、両手の親指が全く利かなくなったために、外科医として将来を断念することに。
2-1、オールコック、外交官に転身

この頃のイギリスは1840年からのアヘン戦争で清を破って、南京条約締結により清の5港を開港させたばかりで、オールコックは極東アジア情勢に興味を持ったということ。
1843年、オールコックは結婚して間もない夫人と共に、中国の厦門(アモイ)へわたって診療所を開業、合間にイギリス領事館の一等書記官を兼務。そして外交官として適材と認められたオールコックは、1844年に福州領事に任命された後、しばらく厦門(アモイ)で過ごし、条約港福州で領事としてつとめ、租界管理、領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げたために、1846年には上海領事、1855年には広州領事と出世し、15年もの間中国でイギリス外交官として活動、1853年には最初の夫人を失ったが、福州、上海の租界の発展に尽力。
また、市場開拓のために清との再戦論を唱えて、上海領事のときに、当時のイギリス首相パーマストン子爵に対し清に武力行使を進言する書簡を送って、アロー戦争(1856年)を引き起こしたということ。
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2-2、オールコック、日本開国後の初代駐日イギリス総領事に
安政5年(1858年)、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが訪日し、日英修好通商条約が締結。翌年には長崎、神奈川、箱館の3港が開港することになったため、オールコックは極東駐在イギリス外交官のベテランとして手腕を買われて、安政6年(1859年)3月1日付けで初代駐日イギリス総領事に任命、オールコックは50歳。
オールコックは5月3日に本国からの命令を香港で受け取り、5月16日には香港を立ち、上海に滞在中の駐日アメリカ総領事タウンゼント・ハリスから情報を仕入れてから長崎に到着。日英修好通商条約の批准書交換のために、5月26日に品川沖に到着し、高輪の東禅寺に。
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