今日は廃藩置県について勉強していきます。今では当たり前のように存在する都道府県ですが、よくよく振り返ると歴史の中で地名において都道府県で解説されることはないでしょう。

それもそのはず、都道府県が設置されたのは明治時代に入ってからで、それまでは国や藩として地域が分けられていた。そこで今回、廃藩置県について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から廃藩置県をわかりやすくまとめた。

中央集権国家を目指す明治政府

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中央集権国家への第一歩・藩の廃止

廃藩置県とは文字どおり藩を廃止して県と府を設置した行政改革で、1871年に明治政府が行いました。明治政府が誕生したのが1868年、戊辰戦争が終了したのが1869年であることを考えると、廃藩置県は明治政府が政治を行うようになってから間もなくして実施されたものだと分かります。

つまり、明治政府は廃藩置県の実施を急いでいたことが予想できますが、それは明治政府が中央集権国家を目指していたからです。江戸時代が終わって明治時代が訪れますが、依然として藩は存続しており、そうなると明治政府の目指す中央集権国家の実現は不可能になります。

何しろ、江戸時代はこれといってまとまった政治体制が整っておらず、各藩ごとにそれぞれが異なる法律を定めるなど言わばバラバラで政治を行っていましたからね。それでは国は一つにまとまらず、理想とする中高集権国家の実現など夢物語、そのため明治政府はいち早く藩をなくそうと考えたのです。

版籍奉還の実施と問題点

さて、藩をなくそうと考えた明治政府が最初に行ったのは版籍奉還、これによって藩の土地と人民を天皇に返上することを定めました。「版=土地」、「籍=人民」、「奉還=返上」、すなわち版籍奉還です。しかし、この版籍奉還によって二つの問題が起こります。

一つ目の問題は結局藩は存続してしまったことで、確かに藩の土地は天皇の土地になったものの、藩主が知藩事となっただけで依然として藩の状況は変わりませんでした。二つ目の問題はこの時点で明治政府が府と県を作ったため、土地の管理が難しくなってしまったことです。

と言うのも、実質藩が存続した状態で府と県を追加したわけですから、新政府の土地が分かりづらく、しかも全国における府と県の割合が少ないため税収も厳しくなります。藩・府・県が存在していたこの状態を府藩県三治制と呼びますが、版籍奉還では明治政府が期待した効果は得られませんでした。

廃藩置県の実施

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知藩事への配慮

版籍奉還を行ったものの実際には何も変わらず、そこで新たな政策として2年後に行ったのが廃藩置県です。最も、明治政府はこれに対する反対が全国で飛び交うことを覚悟しており、そのため薩摩や長州を中心とした護衛の兵を準備した中で各地の知藩事に通達しています。

言わば厳戒態勢の中での実施、幸いにも廃藩置県宣言に伴う大きな混乱は起こらず、1871年の廃藩置県によって藩はなくなりました。廃藩置県の文字どおり、藩が廃止されたことで藩は全て県へと変わり、そのためこれまで藩を治めていた知藩事は全ての権限を失います

知藩事はこれまで藩主も務めていましたから、全ての権限を失うのは当然納得できないでしょう。もちろん、明治政府もそのような知藩事の気持ちは理解も想定もしていたため、華族と呼ばれる特権階級を与えることで反発が起こらないように配慮しました。

中央集権国家の実現

さて、藩が存在していた時代は藩主が藩を管理していました。そして、版籍奉還を行ってからは知藩事と名を変えた藩主が管理していましたが廃藩置県によって失脚、新たな管理者となったのは明治政府から派遣された知事で、全国の府と県に府知事・県令を配置していきます。

配置された府知事・県令は中央省庁からの命令で地方を運営していましたから、これまでの地方分権と一変して中央集権国家の形式が実現、廃藩置県の実施一つで地方分権から中央集権国家へと変貌させたのは、明治政府の見事な政治政策と言っても過言ではないでしょう。

ちなみに、廃藩置県で誕生した県は302、府は東京・京都・大阪の3つです。この中で明らかに目立つのが県の302、あまりにも多すぎますね。ですから明治政府もその点は考えており、県と県を合併させる方式で数を減らしていき、最終的には3府43県まで減少、ここに北海道を追加して1道3府43県にしました。

廃藩置県のちょっとした疑問

沖縄はどうやって日本の支配化になったのか?

沖縄については中国と貿易して栄えていましたが、江戸時代に薩摩藩の島津氏によって薩摩藩の支配下につくことになりました。最も、それでも琉球王国として独立しており、薩摩藩に服属した後も依然として中国との貿易を継続、中国を宗主国としています

そして明治時代になると明治政府はこの現状を問題視、なぜなら日本に服属する一方で中国を宗主国としているため、琉球王国の領土概念が不確かだったからです。そこで明治政府は琉球王国を日本の支配化に入れるための策を実行、その策とは琉球王国を琉球藩としたことでした。

廃藩置県によって藩はなくなりましたが、敢えてその状況で琉球藩と名付けたのは、将来日本の領土にするための言わば前置きでしょう。そして1879年、明治政府の想定どおり琉球藩は廃止されて沖縄県となり、こうして琉球王国は日本の支配下となったのです。

県名はどうやって決めたのか?

藩から県と変わる際、土地の名称がどんな基準で決まったのかを考えてみると、根拠はないながらも興味深い一説があります。それは、明治政府に対して早々に協力した藩はその名前が引き継がれ、一方で明治政府に当初逆らっていた藩は名前を継承できなかったという説です。

確かに、戊辰戦争以前の王政復古の大号令に協力した鹿児島藩、山口藩、佐賀藩は県になってもその名前を引き継いでいますね。一方で名古屋藩、水戸藩、金沢藩はいずれも愛知県、茨城県、石川県と命名されており、藩だった時代の名称の面影は一切ありません。

さらに、同じく一説として戊辰戦争で明治政府に味方した藩は県名・県庁所在地名と同じにしたとされており、やはり鹿児島、山口県、佐賀県は県庁所在地名が同じです。根拠のない一説にしか過ぎないと言ってしまえばそれまでですが、歴史への興味のきっかけとしたこうした部分に注目して考えてみるのも面白いですね。

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廃藩置県の影響と歴史

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廃藩置県がもたらしたメリットとデメリット

廃藩置県を行ったことで全ての土地は明治政府のものになりました。このため領地を奪い合う戦争が起こらなくなり、以前は頻繁に勃発していた内乱も起こりにくくなります。また、貨幣や法律の統一が必要となることから内政改革が行われていき、中央集権国家としての日本の基盤が完成しました。

内政改革もスムーズに進んでいき、それはやはり日本の土地全てが明治政府のものとなったためでしょう。しかし、その一方で明治政府の政策を快く思わない者もいます。例えば商人、廃藩置県によって藩が抱えていた負債は明治政府が受け持ちますが、ここで明治政府は徳政令を打ち出しました。

誕生したばかりの明治政府に返済能力がないとは言え、お金を貸していた大阪の商人は大打撃を受けます。そのため破産に至った商人の数は少なくなく、経済の中心地が大阪から東京へと移り変わっていったのはそのことが理由になっており、つまり大阪は経済の中心地から転落してしまったのです。

大宝律令による中央集権国家の歴史

明治政府が目指した中央集権国家ですが、実は過去においてもこの体制がとられたことがあります。時を遡ること701年、日本は大宝律令を制定して中央集権国家を成立させましたが、当時はそれも長続きせず、税の負担から逃れるために天皇より与えられた口分田から逃亡する人が後を絶ちませんでした。

そこで朝廷も税収を増加させるために墾田永年私財法を制定、土地を開墾した場合はその土地の所有を許可する制度を打ち出します。しかしそれも失敗、権力を持つ寺院が次々と土地を開墾してしまい、自らの領地とする荘園が誕生して朝廷の権力はむしろ低下してしまいました。

さらに平安時代になると荘園はより広まっていき、朝廷の権力は低下するどころか失われてしまいます。これによって律令制は崩壊、大宝律令によって完成した中央集権国家の体制は崩れ、明治政府による中央集権国家はその時代……つまり大宝律令以来の復活になりました。

廃藩置県のおさらい

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版籍奉還と廃藩置県

日本を一つにまとめるための体制、それが中央集権国家です。明治政府はそんな中央集権国家の成立を目指しますが、王政復古の大号令では政権が幕府から朝廷へと移っただけであり、体制は幕藩体制の頃とさほど変わりませんでした。そこで、明治政府は版籍奉還を行って藩の土地と人民を明治政府へと返還させます。

しかしその一手にさほどの効果はなく、藩主は知藩事と肩書きを変えただけで依然として藩と統治していました。また、版籍奉還を行う際に明治政府は府と県を設置しますがこれがまた問題。府と県の面積は全国の1/4程度しかなく、そのため財政を安定させることができませんでした。

さらに府県と藩が混在していることで区域の管理が複雑化、統率のとれないその状態は目指す中央集権国家の体制とは程遠いものになってしまいます。このままではいけないと明治政府は次の一手を打ちますが、それが1871年に制定された廃藩置県でした。

廃藩置県による経済への影響

廃藩置県によって藩は廃止され、また知藩事に代わって明治政府より府知事・県令を派遣して配置します。府知事や県令は中央省庁からの命令で動いていましたから、この瞬間に中央集権国家の日本が誕生、廃藩置県の実施によって明治政府が目指す体制を成立させたのです。

ここで問題となるのが唐突に権力を失うことになった知藩事ですが、大きな混乱が起こることはなく、それは明治政府が知藩事に配慮して華族の特別階級を与えたためでしょう。こうして日本は藩をなくして県を設置、当初は多すぎた県の数も合併を繰り返すことで最終的には1道3府43県に落ち着きました。

さて、廃藩置県はメリットがある一方でデメリットもあり、それは藩の廃止によって発生した負債が大阪の商人にとって大打撃となったことでしょう。多くの商人が破産することで大阪の経済は傾いてしまい、日本経済の中心は大阪から東京へと移り変わるのでした。

版籍奉還との区別と廃藩置県を行った目的に注意しよう!

廃藩置県のポイントは2つ、1つ目は「版籍奉還との区別」で2つ目は「廃藩置県の影響」です。版籍奉還は実施した年が近い、表記と内容が似ているなどの理由から間違いやすく、廃藩置県と版籍奉還の区別を確実にしてください。

また、廃藩置県は文字どおりの内容なので行ったことは簡単に理解できますが、それを何のために行ったのかが分かりづらく思えますが、その目的は「中央集権国家の成立」です。

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中央集権国家の成立の瞬間「廃藩置県」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は廃藩置県について勉強していきます。今では当たり前のように存在する都道府県ですが、よくよく振り返ると歴史の中で地名において都道府県で解説されることはないでしょう。

それもそのはず、都道府県が設置されたのは明治時代に入ってからで、それまでは国や藩として地域が分けられていた。そこで今回、廃藩置県について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から廃藩置県をわかりやすくまとめた。

中央集権国家を目指す明治政府

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中央集権国家への第一歩・藩の廃止

廃藩置県とは文字どおり藩を廃止して県と府を設置した行政改革で、1871年に明治政府が行いました。明治政府が誕生したのが1868年、戊辰戦争が終了したのが1869年であることを考えると、廃藩置県は明治政府が政治を行うようになってから間もなくして実施されたものだと分かります。

つまり、明治政府は廃藩置県の実施を急いでいたことが予想できますが、それは明治政府が中央集権国家を目指していたからです。江戸時代が終わって明治時代が訪れますが、依然として藩は存続しており、そうなると明治政府の目指す中央集権国家の実現は不可能になります。

何しろ、江戸時代はこれといってまとまった政治体制が整っておらず、各藩ごとにそれぞれが異なる法律を定めるなど言わばバラバラで政治を行っていましたからね。それでは国は一つにまとまらず、理想とする中高集権国家の実現など夢物語、そのため明治政府はいち早く藩をなくそうと考えたのです。

版籍奉還の実施と問題点

さて、藩をなくそうと考えた明治政府が最初に行ったのは版籍奉還、これによって藩の土地と人民を天皇に返上することを定めました。「版=土地」、「籍=人民」、「奉還=返上」、すなわち版籍奉還です。しかし、この版籍奉還によって二つの問題が起こります。

一つ目の問題は結局藩は存続してしまったことで、確かに藩の土地は天皇の土地になったものの、藩主が知藩事となっただけで依然として藩の状況は変わりませんでした。二つ目の問題はこの時点で明治政府が府と県を作ったため、土地の管理が難しくなってしまったことです。

と言うのも、実質藩が存続した状態で府と県を追加したわけですから、新政府の土地が分かりづらく、しかも全国における府と県の割合が少ないため税収も厳しくなります。藩・府・県が存在していたこの状態を府藩県三治制と呼びますが、版籍奉還では明治政府が期待した効果は得られませんでした。

廃藩置県の実施

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