今日は尊王論について勉強していきます。

尊王論は直訳すれば中国の儒教の理念であり、仁徳による統治を示す「王道」、武力や策略による統治を示す「覇道」を対比して、王道を尊重することを説いている。

しかし日本に持ち込まれて広まった尊王論は少々意味が異なり、天皇と幕府に関連した置き換えた内容になっている。そこで今回、尊王論について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から尊王論をわかりやすくまとめた。

「尊王論」の歴史

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日本における「尊王論」の解釈

250年以上も続いた江戸時代に代表される学問は儒教で、これは幕府が朱子学を支配原理として採用しており、幕府が認める形として儒教思想を定着させていました。最も、幕府のその姿勢はある意味矛盾していると考えられ、なぜなら自らの正義を否定する思想を推奨しているからです。

徳川家は武士の武力による争いの中で政権を手にしていますから、儒教の理念に置き換えれば「王道」に反した「覇道」になってしまいます。それは幕府が否定されることを意味しており、そんな儒教の理念を幕府が推奨したのは明らかに矛盾していると考えられるでしょう。

ただ、日本では江戸時代の遥か以前となる鎌倉時代や南北朝時代にも尊王論が受け入れられています。「王道=王者=天皇」、「覇道=覇者=幕府」と置き換えられており、幕府を否定する思想として鎌倉幕府滅亡を目指す倒幕派の原動力になっていました。

「天皇を尊敬」から「幕府の批判」への変化

尊王論を簡単に表現するなら「王を尊敬する思想」であり、日本において王とは天皇を意味します。ですから「尊王論=天皇を尊敬する思想」と捉えることができますが、江戸時代になるといつしかその思想は幕府の批判を意味するようになっていきました。

最も、人々がそんな思想を持つことは幕府からすれば危険極まりなく、それならなぜ幕府は尊王論を取り締まらなかったのでしょうか。それは幕府も朝廷の天皇を尊敬すべき態度をとっていたからで、いくら幕府が日本を統治していても立場や位を比較すれば「天皇>将軍」であり、「朝廷>幕府」になるのです。

このため尊王論を安易に否定することはできず、本心はどうであれ、幕府も形の上では朝廷や天皇を尊敬していました。さて、1858年にハリスが日米修好通商条約の締結を迫った際には条約調印の許可を天皇に求めており、しかし当時の天皇である孝明天皇はこれを許可しませんでした。

もう一つの思想「攘夷論」

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外国人を武力で追い払う考えの広まり

尊王論の思想が広まる一方で、同じように広まりつつあり思想がありました。その思想とは攘夷論で、これも元は中国で生まれた考え方であり、夷人を国から追い払うべきというものです。夷人とは外国人を意味する言葉で、つまり攘夷論とは「国から外国人を追い払うべき」という思想になります。

この思想も幕末で広まったものですが、当時日本は鎖国と呼ばれる幕府の対外政策によって外国との交流を遮断しており、その影響で日本の人々は外国の人というだけの理由で外国人を嫌っていました。もちろん現在ならそれは明らかな差別ですが、当時は外国に侵略される恐れもあったのかもしれません。

そのため、日本での攘夷論は「外国人は武力で国から追い払うべき」という過激な思想になっており、孝明天皇もまた攘夷論の支持者だったのです。ですから、幕府が日米修好通商条約への調印を求めてきた際にそれを拒否したのは、攘夷論者の孝明天皇として至極当然の対応だったでしょう。

\次のページで「攘夷論者による幕府への反発」を解説!/

攘夷論者による幕府への反発

そもそも日本が幕府の対外政策に終止符を打ったのは、1854年に日米和親条約を締結させたことが理由であり、さらに要求された日米修好通商条約は日本にとって明らかな不平等条約でした。孝明天皇はこの条約への調印を拒み、一方で軍事力の高さを見せつけて条約調印を求めるアメリカ……幕府は板挟み状態になってしまいます。

この状況に困った幕府は大老・井伊直弼の指示の下、事もあろうに天皇に無許可で条約に調印してしまったのです。不平等条約に調印した幕府は攘夷論を掲げる人々から猛反発され、現在で言うところのまさに炎上状態、この状況を解決するため井伊直弼は1858年に安政の大獄と呼ばれる強引な弾圧を行って攘夷論者を黙らせました。

1860年の桜田門外の変、安政の大獄による行き過ぎた弾圧で攘夷論者の怒りを買った井伊直弼、その代償は大きく、江戸城の桜田門の前にて白昼堂々と暗殺されてしまいます。暗殺したのは最近まで水戸藩に所属していた浪士達で、幕府の大老が殺害されたことで幕府は信頼だけでなく権威も低下したのです

「尊王論」+「攘夷論」=「新たな思想の誕生」

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尊王攘夷論の誕生

広まる尊王論と攘夷論、考えてみると二つの思想はどこか似ているところがあることに気づきますね。尊王論は天皇を尊敬する思想であり、言い換えればそれは幕府を支持しない思想とも受け取れるでしょう。一方の攘夷論は外国人を武力で追い払う考え方で、攘夷論者は不平等条約に調印した幕府に不満を持っています

つまり、どちらの思想も幕府に反発する点は共通であり、そのため尊王攘夷論と呼ばれる新たな思想が誕生したのです。尊王攘夷論とは文字どおり尊王論と攘夷論をあわせた思想で、解釈すれば「外国人を武力で追い払って天皇中心の政治をすべき」という意味になります。

それはつまり反幕府の思想と考えることができ、尊王攘夷論を唱える人々は尊王攘夷派と呼ばれました。外国に言われるがままの幕府はもはや頼りにならず、さらに安政の大獄で弾圧を行った幕府への不満も強く、尊王攘夷派からすれば今までのような幕府中心に展開される政治に限界を感じたのかもしれませんね。

\次のページで「尊王攘夷から倒幕への方向転換」を解説!/

尊王攘夷から倒幕への方向転換

こうして尊王論と攘夷論があわさって尊王攘夷論が誕生、雄藩の中でも特に長州藩はこの思想を強く持っており、外国を怖れることなく過激な攘夷運動で次々と外国に攻撃を仕掛けていました。しかし、軍事力の高さを考えればそれは自滅行為、長州藩は外国からの報復を受けて滅亡の瀬戸際まで追い詰められてしまいます。

1864年の下関戦争では、長州藩は過激な攘夷運動の大きな代償を支払うことになり、圧倒的な軍事力の差を見せつけられて惨敗しました。このような経験から長州藩は外国の強さを実感、思想としていた攘夷は不可能だと悟り、外国人を武力で追い払うことを断念したのです。

とは言え、天皇を尊敬する思想は曲げておらず、そのため尊王攘夷の考えは次第に倒幕へと傾いていきます。その頃からでしょうか……尊王攘夷の思想はいつしか倒幕のための考え方と捉えられるようになったのです。長州藩は倒幕に向けてその思想を方向転換させ、日本では長州藩同様に尊王攘夷を唱えた倒幕ムードが加速していくのでした。

尊王攘夷論と対称的だった公武合体論

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朝廷と幕府の協力による政治

尊王論、攘夷論、そしてこれらがあわさって誕生した尊王攘夷論……さらにもう一つ別の思想があり、それは公武合体論でした。公武合体の「公」とは朝廷、「武」とは幕府を示しており、公武合体論とは「朝廷と幕府が協力して政治を行うべき」という思想になります。

最も、朝廷と幕府が協力する目的は幕藩体制の強化で、信頼と権威が低下した幕府がその難局を乗り切るために考えられた思想です。ですから、天皇中心の政治を掲げる尊王攘夷論とは意味が異なっており、公武合体論は幕府派、尊王攘夷論は反幕府派と言い換えることもできるでしょう。

さて、この公武合体論を思想としていたのがまずは幕府、それは思想と呼ぶより失った信頼と権威を取り戻すための策と呼んだ方が適切かもしれません。また、長州藩と肩を並べる雄藩である薩摩藩も公武合体論を思想としており、島津久光はその実現のために尽力していました。

公武合体から倒幕への方向転換

対称的な思想の違いから公武合体論と尊王攘夷論は対立しやすく、そのため公武合体派の薩摩藩と尊王攘夷派の長州藩は衝突して犬猿の仲になりました。しかし、そんな公武合体論に限界を感じる機会が訪れることになり、皮肉にもそれは公武合体派が待望としていた参与会議だったのです。

江戸時代の幕末、1863年に開催された参与会議は公武合体派にとって一つの到達点でしたが、この参与会議がうまくまとまりません。徳川慶喜が島津久光を排除しようとするなど、対立が絶えなかったことで悲願とされていた参与会議はわずか数ヶ月で崩壊してしまいます。

このため、薩摩藩は公武合体論に限界を感じてその思想を倒幕へと変えたのです。尊王攘夷の思想を倒幕へと方向転換したように、公武合体の思想も倒幕へと方向転換、こうしてそれぞれの思想はいずれも倒幕へと行きつき、薩摩藩と長州藩は薩長同盟を締結するまでに至ったのでした

尊王論、攘夷論、尊王攘夷論、公武合体論の流れ

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権力と信頼を失った幕府

さて、様々な思想が存在した江戸時代の幕末を振り返ってみましょう。まず尊王論、天皇を尊敬するその思想は日本人からすればある意味当然の考え方ですが、それは幕府を批判する考え方とも受け取れたため、幕府はこの思想が広まることに危機感を抱いたことでしょう。

しかし、それを取り締まることは天皇の地位を否定することにもなるわけで、そのため幕府も取り締まるつもりはありませんでした。そんな幕府が失態をおかしたのが外交条約に対する天皇に無許可での調印問題であり、それをきっかけに外国人を武力で追い払う攘夷論の思想が広まっていきます。

そして同時に高まる幕府への不満、そこで幕府は方法として攘夷論を弾圧する方針で安政の大獄を行いますが、それが災いして起こったのが桜田門外の変。大老・井伊直弼が暗殺されたことで幕府は信頼のみならず権力も失う結果となってしまい、250年続いた幕府にとうとう滅亡の危機が訪れます。

思想の辿り着く先は倒幕

幕府は以前の人気を取り戻すために公武合体論を思想に掲げ、朝廷と協力した政治によって信頼の復活と幕藩体制の強化を図りました。しかし公武合体論を実現するための参与会議は功績を残せず、その思想に限界を感じた薩摩藩は倒幕へと考え方を変えたのです。

一方、攘夷論は尊王論とあわさって尊王攘夷論と呼ばれる思想を生みますが、攘夷を不可能と悟ったことでやがて倒幕へと考え方が変わります。公武合体論は倒幕へ、尊王攘夷論は倒幕へ、ここで倒幕のキーワードが一致したことで倒幕ムードが加速していくことになりました。

思えば、長く維持してきた幕府の対外政策を終えたことが様々な思想を生むきっかけとなり、様々な思想を生んだことが人々を倒幕へと導くことになったのです。つまり、尊王論を含めた数々の思想はいずれも倒幕と関係してつながっており、文字通り江戸幕府を滅亡へと向かわせていきました。

尊王論の時代は幕末に絞ろう!

尊王論は鎌倉幕府の滅亡に絡んでいますが、その思想を覚えるのであれば江戸時代の幕末に焦点を絞れば良いでしょう。尊王論が出題されるとすれば、関わる時代は江戸時代の可能性が最も高いですからね。

また、江戸時代の幕末において尊王論は数ある思想の一つに過ぎず、尊王論が攘夷論を結びついて尊王攘夷論になることはもちろん、公武合体論についても覚えておきましょう。ちなみに、尊王論は制度ではなく思想なので間違えないでください。

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幕末日本史歴史江戸時代

倒幕へとつながった幕末の思想「尊王論」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は尊王論について勉強していきます。

尊王論は直訳すれば中国の儒教の理念であり、仁徳による統治を示す「王道」、武力や策略による統治を示す「覇道」を対比して、王道を尊重することを説いている。

しかし日本に持ち込まれて広まった尊王論は少々意味が異なり、天皇と幕府に関連した置き換えた内容になっている。そこで今回、尊王論について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から尊王論をわかりやすくまとめた。

「尊王論」の歴史

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日本における「尊王論」の解釈

250年以上も続いた江戸時代に代表される学問は儒教で、これは幕府が朱子学を支配原理として採用しており、幕府が認める形として儒教思想を定着させていました。最も、幕府のその姿勢はある意味矛盾していると考えられ、なぜなら自らの正義を否定する思想を推奨しているからです。

徳川家は武士の武力による争いの中で政権を手にしていますから、儒教の理念に置き換えれば「王道」に反した「覇道」になってしまいます。それは幕府が否定されることを意味しており、そんな儒教の理念を幕府が推奨したのは明らかに矛盾していると考えられるでしょう。

ただ、日本では江戸時代の遥か以前となる鎌倉時代や南北朝時代にも尊王論が受け入れられています。「王道=王者=天皇」、「覇道=覇者=幕府」と置き換えられており、幕府を否定する思想として鎌倉幕府滅亡を目指す倒幕派の原動力になっていました。

「天皇を尊敬」から「幕府の批判」への変化

尊王論を簡単に表現するなら「王を尊敬する思想」であり、日本において王とは天皇を意味します。ですから「尊王論=天皇を尊敬する思想」と捉えることができますが、江戸時代になるといつしかその思想は幕府の批判を意味するようになっていきました。

最も、人々がそんな思想を持つことは幕府からすれば危険極まりなく、それならなぜ幕府は尊王論を取り締まらなかったのでしょうか。それは幕府も朝廷の天皇を尊敬すべき態度をとっていたからで、いくら幕府が日本を統治していても立場や位を比較すれば「天皇>将軍」であり、「朝廷>幕府」になるのです。

このため尊王論を安易に否定することはできず、本心はどうであれ、幕府も形の上では朝廷や天皇を尊敬していました。さて、1858年にハリスが日米修好通商条約の締結を迫った際には条約調印の許可を天皇に求めており、しかし当時の天皇である孝明天皇はこれを許可しませんでした。

もう一つの思想「攘夷論」

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外国人を武力で追い払う考えの広まり

尊王論の思想が広まる一方で、同じように広まりつつあり思想がありました。その思想とは攘夷論で、これも元は中国で生まれた考え方であり、夷人を国から追い払うべきというものです。夷人とは外国人を意味する言葉で、つまり攘夷論とは「国から外国人を追い払うべき」という思想になります。

この思想も幕末で広まったものですが、当時日本は鎖国と呼ばれる幕府の対外政策によって外国との交流を遮断しており、その影響で日本の人々は外国の人というだけの理由で外国人を嫌っていました。もちろん現在ならそれは明らかな差別ですが、当時は外国に侵略される恐れもあったのかもしれません。

そのため、日本での攘夷論は「外国人は武力で国から追い払うべき」という過激な思想になっており、孝明天皇もまた攘夷論の支持者だったのです。ですから、幕府が日米修好通商条約への調印を求めてきた際にそれを拒否したのは、攘夷論者の孝明天皇として至極当然の対応だったでしょう。

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