今回は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を取り上げるぞ。「怪談」で有名な人ですが、ギリシア生まれのアイルランド人だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代の外国人日本研究家も好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代の外国人日本研究家にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小泉 八雲(ラフカディオ・ハーン)はギリシアの生まれ

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小泉八雲(やくも)(ラフカディオ・ハーン)は、嘉永3年(1850年)6月27日、ギリシアのイオニア諸島・レフカダ島で誕生。父はアイルランド人でイギリス陸軍軍医補だったチャールズ・ブッシュ・ハーン、ギリシア人でキシラ島出身の母ローザ・アントニウ・カシマチの次男(長男は夭折)。パトリキオス・レフカディオス(パトリック・ラフカディオ)と命名。

ラフカディオは、レフカダ島にちなんだミドルネーム。後にハーンはキリスト教に疑問を持ったことから、アイルランドにキリスト教をもたらした聖パトリックにちなんだ名前を嫌い、ラフカディオ・ハーンを名乗るように。尚、小泉八雲は日本に帰化したときに付けた名前。来日したときは、ヘルンと呼ばれたこともあるが、ここではハーンで統一。ハーンの兄弟は4歳下の弟ジェームズ(後、アメリカで農業に従事)。

1-2、ハーン、アイルランドへ

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1851年、父の部隊が西インド転属となったので、この年の年末には母と通訳代わりの女中と一緒に、父の実家のアイルランドへ向い、パリを経て1852年8月に両親とともに父の実家のダブリンに移住して、幼少時代を送ることに。

しかし父が西インドに赴任中だった1854年に、母が精神を病んで弟の出産のためにギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立したということ。父は再婚相手と西インドへ赴任し、ハーンは父方の大叔母で大金持ちの未亡人サラ・ブレナンに引き取られて、厳格なカトリック信者として育てられることになったが、この経験がもとでハーンはキリスト教が嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒。

1-3、ハーン、フランスなどで教育を受けるが、不幸が連続

その後ハーンはフランス、ノルマンディーの寄宿学校イヴトー聖職者学院へ、そしてイギリスのラム市郊外のセント・カスバート・カレッジ(後のアショウ・カレッジ)に送られたが、ジャイアンツ・ストライドという回転ブランコで遊んでいたときに、飛んできた綱の結び目が左目に当たって失明以後左目の色が右目とは異なって見えるようになり左を向いた写真ポーズを取るようになる)。また大叔母が破産、父の病死と不幸が続き、17歳のときにロンドンの大伯母の使用人だった女性のもとに送られ、極貧の生活を送るように。

2-1、ハーン、アメリカへ移民、文才を認められてニューオーリンズへ

ハーンは19歳のときにアメリカへの旅費を渡され移民船でニューヨークへ。2年ほどニューヨークにいた後、親戚を頼ってシンシナティへ。ハーンは出版社で働きながら公立図書館に通い、物語を書いてボストンの週刊誌などに投稿するように。

そして22歳の時にシンシナティ・エンクワイアラー社主筆に文才を認められて、その後正式社員に。そして挿絵画家ファーニーとともに週刊誌「イ・ジグランプス」を創刊し、皮革製造所で起きた惨忍な殺人事件のルポを書き、事件記者に。また、同じ記者仲間のヘンリー・クレビールとの親交を深め、25歳で下宿の料理人アリシア・フォリーと結婚するも、当時は異人種間の結婚が違法だったのでエンクワイアラー社を解雇され、シンシナティ・コマーシャル社に転職。

尚、この結婚は2年しか続かず、ハーンはメンフィス経由でニューオーリンズの「デイリー・シティ・アイテム」紙の準編集者に。なんでも5セントの小さな食堂を開業するも、パートナーに売上金を持ち逃げされ20日間で閉店したことも。その後は「タイムズ=デモクラット」紙の文芸部長として迎えられ、編集長ペイジ・ベイカーの理解で、自由なテーマで執筆に専念、 翻訳集「クレオパトラの一夜とその他幻想物語集」や「異邦文学残葉」を出版。

2-2、ハーン、ニューオーリンズでの博覧会で日本館の展示品に出会う

1884年12月ニューオーリンズ万国産業綿花百年記念博覧会が開幕。ハーンは翌年の1月から2月は博覧会の執筆作業に忙殺される。特に日本館の展示品に興味を引かれたハーンは、日本政府に派遣された服部一三と出会い、ていねいに説明を受けたそう。

\次のページで「3-1、ハーン、来日」を解説!/

3-1、ハーン、来日

1890年、後にアメリカでのハーンの公式伝記の著者となった、女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランドに世界一周旅行の帰国報告を受け、日本が清潔で美しく、人々も文明社会に汚染されていない夢のような国だったという話に心を動かされたハーンは、日本に行くことを決意。また、このころ英訳された古事記を読んだのが動機との説もあり。

ハーンは、ハーバー・マガジンの通信員として、ニューヨークからカナダのバンクーバー経由で、4月4日横浜港に到着。その直後、トラブルでハーバー・マガジンとの契約を破棄。

横浜では、1887年にハーンが「ハーパース・バザー」に発表した「Rabyah's Last Ride」の熱烈なファンだった、在日イギリス人のためのビクトリア・パブリック・スクール校長、チャールズ・ハワード・ヒントンが、ハーンを招いて同校の教職も与えたが、ヒントンの妻がハーンの隻眼を嫌がって決別したそう。このときのハーンの教え子がエドワード・B・クラーク(日本にラグビーを紹介した英語教師)。

3-2、ハーン、松江の英語教師になり、セツ夫人と結婚

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明治23年(1890年)7月、40歳のハーンはニューオーリンズの博覧会で知り合った服部一三(当時の文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現島根県立松江北高等学校)、島根県尋常師範学校(現島根大学)の英語教師に任じられ、8月30日に松江に到着。翌年、1月には身の回りの世話をしてもらっていた小泉セツと、中学教頭西田千太郎のすすめで結婚。この結婚では3男1女が生まれることに。

ハーンが松江で暮らしたのは、正確には1年2カ月と15日ということですが、ハーンが日本で最初に定住した土地でセツ夫人の故郷でもあり、出雲地方の神秘的な雰囲気や豊かな自然に魅せられたということ。しかし山陰地方の冬の寒さが耐えられなかったそうで、暖かい熊本へ赴任することに。

3-3、ハーン、熊本のナンバースクールへ転任

ハーンは明治24年(1891年)11月、日本研究者で古事記の翻訳者、東京帝国大学教授B・H・チェンバレンの紹介で、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身で、校長は嘉納治五郎)の英語教師に。長男も生まれたハーンの熊本の家は、保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復元、熊本市指定の文化財となったそう。

ハーンはその後、明治27年(1894年)に神戸市のジャパン・クロニクル社に就職、神戸に転居した後、明治29年(1896年)には、東京帝国大学文科大学の英文学講師となり東京へ。

3-4、ハーン、日本に帰化して小泉八雲と改名

ハーンは明治29年(1896年)日本国籍を取得、小泉八雲に。八雲の由来は、島根県の旧国名である出雲国の枕詞の「八雲立つ」にちなんだということ。尚、ラフカディオ・ハーンから日本人小泉八雲となったとたんに給料が半分になったという話は有名。

3-5、ハーン、東京帝国大学英文科を解雇される

明治36年(1903年)ハーンは53歳のとき、東京帝国大学講師を解雇されたが、ハーンの留任を要求した学生の運動が起こったということ。尚、後任はイギリス留学帰りの夏目漱石だったが、学生にボイコットされて鬱になったのは有名。当時の学生で後に歌人で実業家、「老いらくの恋」で有名な川田順は「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科、「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」は強烈。

翌年ハーンは早稲田大学講師として招聘され、4月に「怪談」を出版。9月26日、2度目の心臓発作をおこして54歳で死去。

尚、ハーンが東京帝国大学の講師となったとき、松江中学の教え子たちが再び教え子となったということで、彼らはハーン亡き後、街頭募金で資金を集めて、松江に小泉八雲記念館を建てたということ。

\次のページで「4-1、ハーンの逸話」を解説!/

4-1、ハーンの逸話

Lafcadio Hearn portrait.jpg
Frederick Gutekunst - http://www.lib.u-toyama.ac.jp/chuo/hearnlib.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

ハーンは来日後、学校教師をしつつ、14年間に13冊の本を書いたなど、色々な逸話があります。

4-2、ニューオーリンズ時代に地元の料理本を出版

ルイジアナ州ニューオーリンズは、アメリカでもフランスの植民地だった名残で異国情緒のある土地で、ジャンバラヤやガンボなど伝統的なクレオール料理で有名。130年前、ハーンはこの地元料理の本を出版したということ。

ハーンは新米主婦をターゲットに、基本的なスープ、ソースから始まり、魚や肉などのメイン料理から、デザート、病人食まで、材料やコツなどを書いたレシピも紹介されているということで、友人たちの家庭で聞き込んだ本格的な本だそうですが、これはお料理好きには興味津々。

4-3、当初はヘルンと呼ばれた

来日当初、松江の島根県立中学校への赴任辞令に「ヘルン」と表記してあったので、ハーンではなくヘルン先生と呼ばれ、ハーンもそう呼ばれるのが気に入っていたことから定着したということ。セツ夫人は、夫八雲のつたない日本語を「ヘルン言葉」と呼んでいたそう。

4-4、ハーンの人柄は

ハーンの熊本第五高等学校時代の同僚だった本田増次郎によると、ハーンの失明した左目はひどく突き出て残った右目も強度の近視で、ハーンはページに額をこすりつけて読んでいたということで、背中が曲がり変形していたそう。

また、ハーンは一種の人間嫌いで、白人の中にいるより日本人の中にいるほうが気に障らないと感じていたらしいとも。

ハーンの性格についても、病的なほど神経質で猜疑心が強く、「文学者は作品を介して敬服するに越したことはない。個人的なお付き合いをするとひどく失望させられる。ハーンもこの一般原則の例外ではなかった」と語っているが、ハーンは学生には、題名を与えて作文をさせ、優秀者には賞品として自腹で用意した文学全集などを与えたとか、後に衆議院副議長となった教え子の内ヶ崎作三郎は、田部隆次著「小泉八雲」の「小泉八雲先生を懐ふ」という序文のなかで「されど先生の清く澄んだ歌ふがごとき声がかすかに微笑を湛ゆる口辺より洩るるを聞く時は、その事自身が一種の魔力であった」と述べていたそう。

4-5、柔道についても紹介

ハーンが第五高等中学校に赴任したときの校長は、柔道の父と言われる嘉納治五郎。ハーンは嘉納が学生たちに指導しているのを見て感心、明治27年(1894年)「柔術」というエッセイで、柔道の達人は、相手の力を利用し、相手に逆らわずして勝つのが柔道の本質だと紹介。日本の明治の近代化の特徴についても、日本人は西洋の科学や経済、法制などの良いところを取り入れて、柔道のように日本人の使いやすいように適合させ、西洋よりも発展させるに違いないという意味のことを書いたということ。

\次のページで「4-6、セツ夫人の尽力でハーンの本が生まれた」を解説!/

4-6、セツ夫人の尽力でハーンの本が生まれた

Lafcadio Hearn.jpg
unknown photographer in Japan pre-1904, published in US in one of Hearn's books - http://library.hiram.edu/Archives/Mary%20Louise%20Vincent%20Lafcadio%20Harn%20Collection.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

ハーンの妻セツ夫人は、日本語が読めない夫のために日本の民話、伝説を語り聞かせるため、普段から資料収集に努めたということで、セツ夫人の語る昔話をハーンが「怪談」などの名作にまとめたのは有名。

4-7、生まれついての国際感覚があった

ハーンの母は、シチリア島またはマルタ島生まれのギリシア人だったが、アラブの血が入っていたらしいということで、ハーンは、家族や友人に「自分には半分東洋人の血が流れているから、日本の文化、芸術、伝統、風俗習慣などに接してもこれを肌で感じ取ることができる」と自慢していたということ。

ハーンはギリシアで生まれアイルランドで育ち、アメリカに移住して日本に帰化したが、どこへ旅行しても地球上の東西南北の血が自分に流れていると自覚、当時はまだ激しかった人種差別的意識を持たず、人種に関係なく同じ人間という考えをもっていたということで、それはハーンの文学や結婚をみても明らかだそう。

明治の文明開化で失われつつあった古い幻想的な日本の物語を残した

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、ギリシア生まれのアイルランド人という、神話や妖精のイメージの強い国で生まれ育ち、幼時期にキリスト教に失望してアメリカに渡り記者、文筆家として成功、ふとしたことから日本の文化に興味を持って来日。

以後、明治時代半ばの文明開化の時代に、失われつつあった伝統的な古い江戸時代の日本に注目し、日本人のセツ夫人が語る古い昔話を英語でまとめて欧米に紹介、また私たち現代の日本人にも残してくれました。ハーンはちょっと偏屈なところもあったようですが、教え子には慕われ、また松江に住んだのはなんと1年ちょっとなのに、記念館も建てられ住居も史跡に指定されるなど、いまだに大事にされているのは、「怪談」などの多くの著書の影響がいかに大きいかということ。その功績は故郷のアイルランド、もちろん日本でも忘れられることはないでしょう。

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日本史明治歴史

「怪談」をあらわした日本研究家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について歴女がわかりやすく解説

今回は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を取り上げるぞ。「怪談」で有名な人ですが、ギリシア生まれのアイルランド人だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治時代の外国人日本研究家も好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代の外国人日本研究家にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小泉 八雲(ラフカディオ・ハーン)はギリシアの生まれ

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小泉八雲(やくも)(ラフカディオ・ハーン)は、嘉永3年(1850年)6月27日、ギリシアのイオニア諸島・レフカダ島で誕生。父はアイルランド人でイギリス陸軍軍医補だったチャールズ・ブッシュ・ハーン、ギリシア人でキシラ島出身の母ローザ・アントニウ・カシマチの次男(長男は夭折)。パトリキオス・レフカディオス(パトリック・ラフカディオ)と命名。

ラフカディオは、レフカダ島にちなんだミドルネーム。後にハーンはキリスト教に疑問を持ったことから、アイルランドにキリスト教をもたらした聖パトリックにちなんだ名前を嫌い、ラフカディオ・ハーンを名乗るように。尚、小泉八雲は日本に帰化したときに付けた名前。来日したときは、ヘルンと呼ばれたこともあるが、ここではハーンで統一。ハーンの兄弟は4歳下の弟ジェームズ(後、アメリカで農業に従事)。

1-2、ハーン、アイルランドへ

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1851年、父の部隊が西インド転属となったので、この年の年末には母と通訳代わりの女中と一緒に、父の実家のアイルランドへ向い、パリを経て1852年8月に両親とともに父の実家のダブリンに移住して、幼少時代を送ることに。

しかし父が西インドに赴任中だった1854年に、母が精神を病んで弟の出産のためにギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立したということ。父は再婚相手と西インドへ赴任し、ハーンは父方の大叔母で大金持ちの未亡人サラ・ブレナンに引き取られて、厳格なカトリック信者として育てられることになったが、この経験がもとでハーンはキリスト教が嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒。

1-3、ハーン、フランスなどで教育を受けるが、不幸が連続

その後ハーンはフランス、ノルマンディーの寄宿学校イヴトー聖職者学院へ、そしてイギリスのラム市郊外のセント・カスバート・カレッジ(後のアショウ・カレッジ)に送られたが、ジャイアンツ・ストライドという回転ブランコで遊んでいたときに、飛んできた綱の結び目が左目に当たって失明以後左目の色が右目とは異なって見えるようになり左を向いた写真ポーズを取るようになる)。また大叔母が破産、父の病死と不幸が続き、17歳のときにロンドンの大伯母の使用人だった女性のもとに送られ、極貧の生活を送るように。

2-1、ハーン、アメリカへ移民、文才を認められてニューオーリンズへ

ハーンは19歳のときにアメリカへの旅費を渡され移民船でニューヨークへ。2年ほどニューヨークにいた後、親戚を頼ってシンシナティへ。ハーンは出版社で働きながら公立図書館に通い、物語を書いてボストンの週刊誌などに投稿するように。

そして22歳の時にシンシナティ・エンクワイアラー社主筆に文才を認められて、その後正式社員に。そして挿絵画家ファーニーとともに週刊誌「イ・ジグランプス」を創刊し、皮革製造所で起きた惨忍な殺人事件のルポを書き、事件記者に。また、同じ記者仲間のヘンリー・クレビールとの親交を深め、25歳で下宿の料理人アリシア・フォリーと結婚するも、当時は異人種間の結婚が違法だったのでエンクワイアラー社を解雇され、シンシナティ・コマーシャル社に転職。

尚、この結婚は2年しか続かず、ハーンはメンフィス経由でニューオーリンズの「デイリー・シティ・アイテム」紙の準編集者に。なんでも5セントの小さな食堂を開業するも、パートナーに売上金を持ち逃げされ20日間で閉店したことも。その後は「タイムズ=デモクラット」紙の文芸部長として迎えられ、編集長ペイジ・ベイカーの理解で、自由なテーマで執筆に専念、 翻訳集「クレオパトラの一夜とその他幻想物語集」や「異邦文学残葉」を出版。

2-2、ハーン、ニューオーリンズでの博覧会で日本館の展示品に出会う

1884年12月ニューオーリンズ万国産業綿花百年記念博覧会が開幕。ハーンは翌年の1月から2月は博覧会の執筆作業に忙殺される。特に日本館の展示品に興味を引かれたハーンは、日本政府に派遣された服部一三と出会い、ていねいに説明を受けたそう。

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