その辺のところを明治時代の外国人日本研究家も好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ
- 1-1、小泉 八雲(ラフカディオ・ハーン)はギリシアの生まれ
- 1-2、ハーン、アイルランドへ
- 1-3、ハーン、フランスなどで教育を受けるが、不幸が連続
- 2-1、ハーン、アメリカへ移民、文才を認められてニューオーリンズへ
- 2-2、ハーン、ニューオーリンズでの博覧会で日本館の展示品に出会う
- 3-1、ハーン、来日
- 3-2、ハーン、松江の英語教師になり、セツ夫人と結婚
- 3-3、ハーン、熊本のナンバースクールへ転任
- 3-4、ハーン、日本に帰化して小泉八雲と改名
- 3-5、ハーン、東京帝国大学英文科を解雇される
- 4-1、ハーンの逸話
- 4-2、ニューオーリンズ時代に地元の料理本を出版
- 4-3、当初はヘルンと呼ばれた
- 4-4、ハーンの人柄は
- 4-5、柔道についても紹介
- 4-6、セツ夫人の尽力でハーンの本が生まれた
- 4-7、生まれついての国際感覚があった
- 明治の文明開化で失われつつあった古い幻想的な日本の物語を残した
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。明治時代の外国人日本研究家にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について5分でわかるようにまとめた。
1-1、小泉 八雲(ラフカディオ・ハーン)はギリシアの生まれ
小泉八雲(やくも)(ラフカディオ・ハーン)は、嘉永3年(1850年)6月27日、ギリシアのイオニア諸島・レフカダ島で誕生。父はアイルランド人でイギリス陸軍軍医補だったチャールズ・ブッシュ・ハーン、ギリシア人でキシラ島出身の母ローザ・アントニウ・カシマチの次男(長男は夭折)。パトリキオス・レフカディオス(パトリック・ラフカディオ)と命名。
ラフカディオは、レフカダ島にちなんだミドルネーム。後にハーンはキリスト教に疑問を持ったことから、アイルランドにキリスト教をもたらした聖パトリックにちなんだ名前を嫌い、ラフカディオ・ハーンを名乗るように。尚、小泉八雲は日本に帰化したときに付けた名前。来日したときは、ヘルンと呼ばれたこともあるが、ここではハーンで統一。ハーンの兄弟は4歳下の弟ジェームズ(後、アメリカで農業に従事)。
1-2、ハーン、アイルランドへ
1851年、父の部隊が西インド転属となったので、この年の年末には母と通訳代わりの女中と一緒に、父の実家のアイルランドへ向い、パリを経て1852年8月に両親とともに父の実家のダブリンに移住して、幼少時代を送ることに。
しかし父が西インドに赴任中だった1854年に、母が精神を病んで弟の出産のためにギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立したということ。父は再婚相手と西インドへ赴任し、ハーンは父方の大叔母で大金持ちの未亡人サラ・ブレナンに引き取られて、厳格なカトリック信者として育てられることになったが、この経験がもとでハーンはキリスト教が嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒。
1-3、ハーン、フランスなどで教育を受けるが、不幸が連続
その後ハーンはフランス、ノルマンディーの寄宿学校イヴトー聖職者学院へ、そしてイギリスのラム市郊外のセント・カスバート・カレッジ(後のアショウ・カレッジ)に送られたが、ジャイアンツ・ストライドという回転ブランコで遊んでいたときに、飛んできた綱の結び目が左目に当たって失明以後左目の色が右目とは異なって見えるようになり左を向いた写真ポーズを取るようになる)。また大叔母が破産、父の病死と不幸が続き、17歳のときにロンドンの大伯母の使用人だった女性のもとに送られ、極貧の生活を送るように。
2-1、ハーン、アメリカへ移民、文才を認められてニューオーリンズへ
ハーンは19歳のときにアメリカへの旅費を渡され移民船でニューヨークへ。2年ほどニューヨークにいた後、親戚を頼ってシンシナティへ。ハーンは出版社で働きながら公立図書館に通い、物語を書いてボストンの週刊誌などに投稿するように。
そして22歳の時にシンシナティ・エンクワイアラー社主筆に文才を認められて、その後正式社員に。そして挿絵画家ファーニーとともに週刊誌「イ・ジグランプス」を創刊し、皮革製造所で起きた惨忍な殺人事件のルポを書き、事件記者に。また、同じ記者仲間のヘンリー・クレビールとの親交を深め、25歳で下宿の料理人アリシア・フォリーと結婚するも、当時は異人種間の結婚が違法だったのでエンクワイアラー社を解雇され、シンシナティ・コマーシャル社に転職。
尚、この結婚は2年しか続かず、ハーンはメンフィス経由でニューオーリンズの「デイリー・シティ・アイテム」紙の準編集者に。なんでも5セントの小さな食堂を開業するも、パートナーに売上金を持ち逃げされ20日間で閉店したことも。その後は「タイムズ=デモクラット」紙の文芸部長として迎えられ、編集長ペイジ・ベイカーの理解で、自由なテーマで執筆に専念、 翻訳集「クレオパトラの一夜とその他幻想物語集」や「異邦文学残葉」を出版。
2-2、ハーン、ニューオーリンズでの博覧会で日本館の展示品に出会う
1884年12月ニューオーリンズ万国産業綿花百年記念博覧会が開幕。ハーンは翌年の1月から2月は博覧会の執筆作業に忙殺される。特に日本館の展示品に興味を引かれたハーンは、日本政府に派遣された服部一三と出会い、ていねいに説明を受けたそう。
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