3-4、上野彦馬も教える
ポンペは湿板写真の研究にも熱心で、日本最初期の写真家(最初かどうかは不明)の上野彦馬も伝習所でポンペについて化学を勉強し、ポンぺと共に写真の研究に着手、ポンぺはボードウィンの写真撮影に成功し、ポートレイトを進呈したということ。
3-5、ポンぺの言葉が校是に
長崎大学医学部は、ポンぺの西洋医学校の後身とされていて、「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のもの。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」というポンぺの言葉が校是となっているそう。
3-6、赤十字の会議で、日本側に立った発言を
「ポンぺ 日本近代医学の父」によれば、明治20年(1887年)、ドイツのカールスルーエで行われた、第4回国際赤十字会議に出席した森鴎外は、オランダ代表だったポンぺに話しかけられ、松本良順は健在だとか自分の父も間接的にポンぺの弟子になるなどと話をしたということで、ポンぺは当時を振り返って「夢のよう」だったと発言し。
尚、この会議で「赤十字規約の中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療するといった明文は、ヨーロッパ以外の国にも適用すべきか」という議題が提出されたということで、代表者の陸軍医で日本赤十字社長の石黒忠悳(ただのり)が憤慨して発言したが、アメリカからも発言がないので、森鴎外にかなりきつい文句で通訳させて強硬な抗議を行い、場内一時騒然となったということ。
しかし、このときにオランダ代表のポンぺが立ち上がり、「ヨーロッパの国以外にも現に赤十字に加盟し、代表を派遣している日本のような立派な文明を持つ国があるのだから、このような議題は論議の対象にならない」と主張して日本の代表に好意的な意見を述べたせいで、ロシアの代表を始め、その他の委員も賛意を表して、この議題は撤回されたということ。
石黒忠悳は、青年時代にポンぺの本を読んでいたので、赤十字の会議でポンぺに会えて大喜びし、会議の後に昔話もして写真をもらったそう。
また、森鴎外はポンぺの「私が数年前、あなたの祖国、日本で行ったことは、今では歴史上の価値を持つにすぎないが、当時私は堅忍不抜の精神を持って一生懸命それに当たったのです」という言葉を残しているということ。
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オランダ医学を日本で最初に体系的に教えた
ポンペ・ファン・メーデルフォールトはユトレヒト大学で速成軍医養成コースで学び、それをそっくり日本の蘭学者に教授した人。
それまでの日本の蘭方医はオランダ語を学んで自身で医学書を読み解くという、いわば机上の独学だったのが、ポンぺのおかげで日本初、ヨーロッパの最新医学教育を体系的に教授されるという画期的なもので、日本初の病院も設立、身分の別なく治療を行ったという彼の業績は日本近代医学黎明期の礎に。
当時の蘭方医たちは狂喜乱舞、感謝感激して勉強し、ポンぺが日本を去った後もポンぺを神のごとく祠に祀っていた蘭方医もいたということです。ポンぺは後に日本での体験を夢のようだと回顧、晩年は不遇だったようなのですが、ポンぺもまさに神の配剤のようにあの頃の日本に必要とされた人材、そしてその役目をしっかり果たしたのは間違いないはず。
ポンぺの偉業を忘れずその精神が受け継がれるようにと、初講義の日が長崎大学医学部の開校記念日となっているのは、ポンぺや蘭学医たちにとってなによりのことでは。


