今回はポンぺ・ファン・メーデルフォールトを取り上げるぞ。長崎の海軍医学伝習所で教えた軍医だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを明治維新と蘭学者に目がないあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。蘭学者や明治維新に興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ポンぺ・ファン・メールデルフォールトについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ポンぺ・ファン・メーデルフォールトはオランダの生まれ

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ポンぺ・ファン・メーデルフォールトのフルネームは、ヨハネス・リディウス・カタリヌス・ポンぺ・ファン・メーデルフォールトで、ポンぺ・ファン・メーデルフォールトが姓、1829年5月5日にオランダのブリュージュ(現在はベルギー領)で誕生。ポンぺ・ファン・メーデルフォールトは長いのでここではポンぺで統一。

「ポンぺ 日本近代医学の父」宮永孝著によれば、父は軍人で、当時は第六歩兵連隊の隊長ヨハン・アントワヌ、母はヨハンナ・ウィルへルミナ・ヘンドリカ・ド・ムーランで、7人兄弟の3番目。ポンぺの5人の男兄弟は1人が夭折したが、言語学者、軍人、法律家から国会議員になったというなかなか優秀な兄弟だったよう。

1-2、ポンぺの受けた教育

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ポンぺは幼少時は軍人の父の任地を家族で転々とする暮らしで、マーストリヒトで小学教育を、アムステルダムで中等教育を受けたらしいということ。1845年、ユトレヒトの国立陸軍軍医学校の入学試験に合格、見習い生に。そして1849年、4年間の課程を修了し、3級軍医に任命。

1-3、ポンぺ、軍医として勤務

ポンぺは「江戸のオランダ医」によれば、その後、オランダ国内で2年間勤務したのち、オランダ東インド海軍軍艦メラピ号に配属、スマトラ、モルッカ、ニューギニアに派遣されて熱帯医学を経験、オランダに帰国後、昇級事件に合格して2級軍医に、そして1857年、ヤパン号(後咸臨丸と改名)で第二次海軍分遣隊として日本へ。

当時の長崎出島はオランダ東インド陸軍総督の管轄で、ポンぺは政府医官、日本科学調査技官に任命されたということ。

長崎海軍伝習所とは
長崎海軍伝習所は、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため、長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関。幕府は黒船来航後、海防体制強化を行うために西洋式軍艦の輸入と、オランダ商館長の勧めで幕府海軍の士官養成所を設立、オランダ海軍から教師が派遣されることになり、ペルス・ライケンらの第一次教師団、後にはヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の第二次教師団が派遣されたということ。

この海軍伝習所で学んだのは、勝海舟、榎本武揚らが。また練習艦として蒸気船「観光丸」の寄贈を受け、医学所も設けられたが、築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖。

医学所の成り立ち
オランダ政府派遣の軍医が来ることを知った幕府寄合医師の松本良順は、養子なのでまず養父を説得して蘭学を学ぶことを伝え了承を得た後、養父から話を通してもらい、永井尚志を説得して最初は海軍伝習生御用医として長崎に。

松本良順は、医学校開設というポンペの考えに共鳴、まず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう尽力、そのころ蘭方禁止令が出ていたので、幕府の奥医師である松本良順がオランダ医学を学ぶわけにはいかなかったのだが、海軍伝習生として学ぶのなら問題がないということに。

また海軍伝習所は幕府の組織なので、他藩からの蘭学医などの学生も認められなかったのですが、これも松本良順ひとりがポンぺの弟子として講義を受け、松本良順が彼ら一般学生を弟子にして教えるなら問題ないという形式に(実際は同じ教室で講義を受けたそう)。身分制度、封建制度は現在からみると、本当にばかばかしいほどの制限が多いですよね。

松本良順は勝海舟とは馬が合わなかったが、長崎奉行岡部駿河守長常はポンペと良順に好意的で医学校建設に助力を惜しまなかったということ。

尚、この医学所では、明治後に初代陸軍軍医総監となった松本良順を始めとして、司馬凌海、岩佐純、長与専斎、佐藤尚中、関寛斎、佐々木東洋、入澤恭平など、日本の近代西洋医学に大きく貢献した蘭学者たちが集まって学んだということ。尚、この医学所の正式名称はないが、ポンぺは幕府が正式に招いた最初の医学教授に。

2-1、ポンぺ、日本で海軍伝習所の教授に

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ポンペは長崎海軍伝習所第二次派遣教官団のカッテンディーケに選任され、安政4年(1857年)8月に28歳のポンぺは長崎に到着、絵のように美しい長崎湾をうっとり見たそう。

2-2、ポンぺ、たったひとりで医学の土台から教授を

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Unidentified photographer - Nagasaki University Library Archives [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

最初この伝習所では、安政元年(1855年)に第一次海軍伝習の教師団が来日、軍医のヤン・カレル・ファン・デン・ブルークが断片的に科学を教えた程度だったが、ポンペがユトレヒトの軍医大学で学んだ医学をすべてといっていい、理学、化学、解剖学、生理学、病理学といった医学関連科目をたったひとりで教えたということで、内容は臨床的で実学的だったそう。

尚、このポンぺの講義の始まったのは安政3年(1857年)11月12日、長崎の西役所内で松本良順と弟子12名に初講義、この日は現在、長崎大学医学部の創立記念日に。

2-3、ポンぺ、言葉の壁にぶつかる

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不明 - 日本医事新報No.1739 号, パブリック・ドメイン, リンクによる

学生たちは25歳から35歳で、蘭学医としてオランダ語を一応学んだ人たちばかりだったが、いかんせん書物を読むのとリスニングは違うことと、オランダ医学書を読んだだけなので、最初はポンぺのオランダ語がまったく通じず、知識もないことに困ったが、数か月たつうちにポンぺも長崎弁を覚え、学生たちも理解を示すようになったということ。ということで、司馬凌海というまさに高機能自閉症としか思えない語学の天才がいて、この人や長崎通詞の通訳で講義が成り立ったということ。

2-4、ポンぺ、日本初の死体解剖実習を行う

ポンペは、後になると授業は8時間にも及ぶようになり、日本初の死体解剖実習を行ったことでも有名。安政6年(1859年)人体解剖を行ったときには、シーボルトの娘楠本イネら46名の学生が参加。解剖が許可される以前は、キュンストレーキという模型を用いたそう。

2-5、ポンぺ、種痘やコレラの治療も行う

安政4年(1857年)末に、ポンぺは公開種痘を開始し、安政5年(1858年)には、上海で流行していたコレラが長崎で流行するのを予測、長崎で蔓延したコレラの治療に多大な功績を挙げたということ。

また、文久元年(1861年)、長崎に124のベッドを持った日本で初めての近代西洋医学教育病院の「小島養生所」を設立、ほとんどオランダの病院と変わらない完璧と感想を。そして封建時代の日本にあって、ポンペは相手の身分や貧富にこだわらない、きわめて民主的な診療で無料診療も行い、丸山遊郭の遊女の梅毒の検査も行ったということで、長崎で診療した患者は14530人もの人数に。

万延元年(1860年)に海軍伝習が終了後もポンペは残り、文久2年(1862年)11月に日本を離れるまでの5年間で、61名に対して卒業証書を出したということ。

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2-6、松本良順に多大な影響を与えた

後に松本良順が江戸へ戻り、ポンペに学んだ医学を大いに広めたので、良順の実家の順天堂の講義が充実したそう。良順はその後は西洋医学所の頭取となり、伊東玄朴の失脚で奥医師のリーダー的存在となり、ポンペに学んだ保健衛生思想から、その後新選組の屯所の住環境改善や、五稜郭の箱館戦争にも従軍するなど、軍医として異色の活躍を。

2-7、帰国後も日本とのつながりが

ポンぺは1862年11月にオランダに帰国、その後は軍隊を除隊し、姪と結婚して3人の子供が生まれ、開業医となり、赤十字にも関与。普仏戦争では野戦病院に勤務し、ハーグの市会議員も務めたということ。

日本とのつながりもあり、岩倉使節団がオランダを訪問した際は、ライデンの案内役を務めたし、帰国途中に日本で採集した標本や原稿などが船が座礁して多くが失われたものの、「日本での5年間」という自叙伝も出版。

また、海軍伝習所の出身でポンぺ帰国時に同じ船でオランダへ留学した榎本武揚が海軍中将兼特命ロシア全権大使となったときに招かれて、ザンクトぺテルスブルグの日本大使館の外交顧問を2年間務めたということ。カキの養殖を行って失敗したらしく晩年は不遇だったということで、1908年10月7日、77歳でブリュッセルで死去。

3-1、ポンぺの逸話

ポンぺは、5年間日本で教えた後、同じ今日柴刈りに教えられるよりも新しい教師に学ぶ方がいい、医学は日進月歩だしということで帰国したということなど、色々な逸話があります。

3-2、ポンぺが学んだ医学校

ポンペが医学を学んだユトレヒト陸軍軍医学校は、フランスのオランダ支配当時にライデンの陸軍病院付属として設立し、フランスの支配後も教育が続行。ユトレヒト大学医学部との関係を築きながら教育が行われ、軍や植民地への医官を養成、1850年代が最盛期で、幕末維新に来日したオランダ人医師の大部分がこの軍医学校の卒業生だったということ。ユトレヒト大学の化学の水準は高く、陸軍軍医学校経由で日本にも高いレベルの化学がもたらされることに。しかし明治8年(1875年)に廃校となり、この学校の建物はホテルになっているそう。

3-3、ポンぺの噂は日本中の蘭方医に伝わった

「胡蝶の夢」司馬遼太郎著によれば、当時適塾主宰の緒方洪庵は、可愛がっていた塾頭の長与専斎に対して、これからはポンぺに学べと長崎行きを勧めたということ。また江戸の整体師とか、漢方の奥医師とか、こんなところにまでというほどポンぺが長崎で体系的に医学を教える噂が伝わっていたそう。

\次のページで「3-4、上野彦馬も教える」を解説!/

3-4、上野彦馬も教える

ポンペは湿板写真の研究にも熱心で、日本最初期の写真家(最初かどうかは不明)の上野彦馬も伝習所でポンペについて化学を勉強し、ポンぺと共に写真の研究に着手、ポンぺはボードウィンの写真撮影に成功し、ポートレイトを進呈したということ。

3-5、ポンぺの言葉が校是に

長崎大学医学部は、ポンぺの西洋医学校の後身とされていて、「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のもの。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」というポンぺの言葉が校是となっているそう。

3-6、赤十字の会議で、日本側に立った発言を

「ポンぺ 日本近代医学の父」によれば、明治20年(1887年)、ドイツのカールスルーエで行われた、第4回国際赤十字会議に出席した森鴎外は、オランダ代表だったポンぺに話しかけられ、松本良順は健在だとか自分の父も間接的にポンぺの弟子になるなどと話をしたということで、ポンぺは当時を振り返って「夢のよう」だったと発言し。

尚、この会議で「赤十字規約の中にある列国は相互に恵み、病傷者を彼我の別なく救療するといった明文は、ヨーロッパ以外の国にも適用すべきか」という議題が提出されたということで、代表者の陸軍医で日本赤十字社長の石黒忠悳(ただのり)が憤慨して発言したが、アメリカからも発言がないので、森鴎外にかなりきつい文句で通訳させて強硬な抗議を行い、場内一時騒然となったということ。

しかし、このときにオランダ代表のポンぺが立ち上がり、「ヨーロッパの国以外にも現に赤十字に加盟し、代表を派遣している日本のような立派な文明を持つ国があるのだから、このような議題は論議の対象にならない」と主張して日本の代表に好意的な意見を述べたせいで、ロシアの代表を始め、その他の委員も賛意を表して、この議題は撤回されたということ。

石黒忠悳は、青年時代にポンぺの本を読んでいたので、赤十字の会議でポンぺに会えて大喜びし、会議の後に昔話もして写真をもらったそう。

また、森鴎外はポンぺの「私が数年前、あなたの祖国、日本で行ったことは、今では歴史上の価値を持つにすぎないが、当時私は堅忍不抜の精神を持って一生懸命それに当たったのです」という言葉を残しているということ。

オランダ医学を日本で最初に体系的に教えた

ポンペ・ファン・メーデルフォールトはユトレヒト大学で速成軍医養成コースで学び、それをそっくり日本の蘭学者に教授した人。

それまでの日本の蘭方医はオランダ語を学んで自身で医学書を読み解くという、いわば机上の独学だったのが、ポンぺのおかげで日本初、ヨーロッパの最新医学教育を体系的に教授されるという画期的なもので、日本初の病院も設立、身分の別なく治療を行ったという彼の業績は日本近代医学黎明期の礎に。

当時の蘭方医たちは狂喜乱舞、感謝感激して勉強し、ポンぺが日本を去った後もポンぺを神のごとく祠に祀っていた蘭方医もいたということです。ポンぺは後に日本での体験を夢のようだと回顧、晩年は不遇だったようなのですが、ポンぺもまさに神の配剤のようにあの頃の日本に必要とされた人材、そしてその役目をしっかり果たしたのは間違いないはず。

ポンぺの偉業を忘れずその精神が受け継がれるようにと、初講義の日が長崎大学医学部の開校記念日となっているのは、ポンぺや蘭学医たちにとってなによりのことでは。

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日本最初に体系的医学を講義した「ポンぺ・ファン・メーデルフォールト」オランダ軍医について歴女がわかりやすく解説

2-6、松本良順に多大な影響を与えた

後に松本良順が江戸へ戻り、ポンペに学んだ医学を大いに広めたので、良順の実家の順天堂の講義が充実したそう。良順はその後は西洋医学所の頭取となり、伊東玄朴の失脚で奥医師のリーダー的存在となり、ポンペに学んだ保健衛生思想から、その後新選組の屯所の住環境改善や、五稜郭の箱館戦争にも従軍するなど、軍医として異色の活躍を。

2-7、帰国後も日本とのつながりが

ポンぺは1862年11月にオランダに帰国、その後は軍隊を除隊し、姪と結婚して3人の子供が生まれ、開業医となり、赤十字にも関与。普仏戦争では野戦病院に勤務し、ハーグの市会議員も務めたということ。

日本とのつながりもあり、岩倉使節団がオランダを訪問した際は、ライデンの案内役を務めたし、帰国途中に日本で採集した標本や原稿などが船が座礁して多くが失われたものの、「日本での5年間」という自叙伝も出版。

また、海軍伝習所の出身でポンぺ帰国時に同じ船でオランダへ留学した榎本武揚が海軍中将兼特命ロシア全権大使となったときに招かれて、ザンクトぺテルスブルグの日本大使館の外交顧問を2年間務めたということ。カキの養殖を行って失敗したらしく晩年は不遇だったということで、1908年10月7日、77歳でブリュッセルで死去。

3-1、ポンぺの逸話

ポンぺは、5年間日本で教えた後、同じ今日柴刈りに教えられるよりも新しい教師に学ぶ方がいい、医学は日進月歩だしということで帰国したということなど、色々な逸話があります。

3-2、ポンぺが学んだ医学校

ポンペが医学を学んだユトレヒト陸軍軍医学校は、フランスのオランダ支配当時にライデンの陸軍病院付属として設立し、フランスの支配後も教育が続行。ユトレヒト大学医学部との関係を築きながら教育が行われ、軍や植民地への医官を養成、1850年代が最盛期で、幕末維新に来日したオランダ人医師の大部分がこの軍医学校の卒業生だったということ。ユトレヒト大学の化学の水準は高く、陸軍軍医学校経由で日本にも高いレベルの化学がもたらされることに。しかし明治8年(1875年)に廃校となり、この学校の建物はホテルになっているそう。

3-3、ポンぺの噂は日本中の蘭方医に伝わった

「胡蝶の夢」司馬遼太郎著によれば、当時適塾主宰の緒方洪庵は、可愛がっていた塾頭の長与専斎に対して、これからはポンぺに学べと長崎行きを勧めたということ。また江戸の整体師とか、漢方の奥医師とか、こんなところにまでというほどポンぺが長崎で体系的に医学を教える噂が伝わっていたそう。

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