2-6、松本良順に多大な影響を与えた
後に松本良順が江戸へ戻り、ポンペに学んだ医学を大いに広めたので、良順の実家の順天堂の講義が充実したそう。良順はその後は西洋医学所の頭取となり、伊東玄朴の失脚で奥医師のリーダー的存在となり、ポンペに学んだ保健衛生思想から、その後新選組の屯所の住環境改善や、五稜郭の箱館戦争にも従軍するなど、軍医として異色の活躍を。
2-7、帰国後も日本とのつながりが
ポンぺは1862年11月にオランダに帰国、その後は軍隊を除隊し、姪と結婚して3人の子供が生まれ、開業医となり、赤十字にも関与。普仏戦争では野戦病院に勤務し、ハーグの市会議員も務めたということ。
日本とのつながりもあり、岩倉使節団がオランダを訪問した際は、ライデンの案内役を務めたし、帰国途中に日本で採集した標本や原稿などが船が座礁して多くが失われたものの、「日本での5年間」という自叙伝も出版。
また、海軍伝習所の出身でポンぺ帰国時に同じ船でオランダへ留学した榎本武揚が海軍中将兼特命ロシア全権大使となったときに招かれて、ザンクトぺテルスブルグの日本大使館の外交顧問を2年間務めたということ。カキの養殖を行って失敗したらしく晩年は不遇だったということで、1908年10月7日、77歳でブリュッセルで死去。
3-1、ポンぺの逸話
ポンぺは、5年間日本で教えた後、同じ今日柴刈りに教えられるよりも新しい教師に学ぶ方がいい、医学は日進月歩だしということで帰国したということなど、色々な逸話があります。
3-2、ポンぺが学んだ医学校
ポンペが医学を学んだユトレヒト陸軍軍医学校は、フランスのオランダ支配当時にライデンの陸軍病院付属として設立し、フランスの支配後も教育が続行。ユトレヒト大学医学部との関係を築きながら教育が行われ、軍や植民地への医官を養成、1850年代が最盛期で、幕末維新に来日したオランダ人医師の大部分がこの軍医学校の卒業生だったということ。ユトレヒト大学の化学の水準は高く、陸軍軍医学校経由で日本にも高いレベルの化学がもたらされることに。しかし明治8年(1875年)に廃校となり、この学校の建物はホテルになっているそう。
3-3、ポンぺの噂は日本中の蘭方医に伝わった
「胡蝶の夢」司馬遼太郎著によれば、当時適塾主宰の緒方洪庵は、可愛がっていた塾頭の長与専斎に対して、これからはポンぺに学べと長崎行きを勧めたということ。また江戸の整体師とか、漢方の奥医師とか、こんなところにまでというほどポンぺが長崎で体系的に医学を教える噂が伝わっていたそう。
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