戦国時代の中頃までは刀や槍そして弓矢が主力の武器ではあったが、ヨーロッパ船が日本へ漂流したことがきっかけで鉄砲を入手し戦場でも多く活用されていくようになったようです。しかし現代の鉄砲のように軽いわけでもなく単発しか放てなかったため多人数で攻められてしまうと分が悪い武器だったようです。ただ威力は凄まじく甲冑すらも打ち抜くことできたので当たれば相手に致命傷を与えるほどの武器でもあった。

そこで今回は鉄砲をうまく活用し大きな損害を与えることが出来た戦を歴史マニアでもあり歴史ライターのwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

当時の戦で最強と呼ばれていた武田騎馬軍団が敗れてしまった、長篠の戦いを紹介していきつつ近年になって判明してきた諸説も交えて紹介していく。

織田氏と武田氏との関係性

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長篠の戦いが始まる前の両者についてみていきましょう。

武田氏による今川氏と上杉氏との争い

1560年に発生した桶狭間の戦いで、駿河国全体が動揺していましたが今川氏真との同盟を維持することを選択していた武田信玄。しかし弱体化していた今川家といつまでの同盟関係になっていても仕方が無いと判断した信玄は氏真と対立していた徳川家康と同盟を結び駿河国侵攻を開始していきます。同時に協調してもらいたい北条氏康にも駿河国を攻めるようにと話しを持ち掛けると氏康は拒否し今川方の味方になりました。

氏康は娘だった早川殿を氏真の妻にさせていたため、今川氏を見過ごすことは出来なかったようです。氏康が今川方についたことで信玄との甲相同盟は破棄され対立していくことになりましたが家康と所領を巡ることになり、家康と氏真が和解したことで駿河侵攻が一旦止まってしまいました。

また氏康の圧力と越後の上杉謙信がいつ攻めて来るか分からない状況だったため自国の守りを固めていきます。

信長の上洛

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家康が今川氏と和睦している間に織田信長は室町幕府将軍だった足利義昭を奉じて上洛を行っていました。これに伴い信玄は将軍から直々に和睦の勅使をいただくために信長を通じて義昭に会い謙信と和睦を行っていきます。

謙信と和睦を行ったことで攻められることが一旦は無くなり、反上杉派と反北条派となっていた大名らと同盟を結び謙信と氏康に圧力を掛けていきました。常陸の佐竹氏などの力を借りて一時は堅城と呼ばれていた小田原城を取り囲み、長期化すると思われましたが籠城する北条軍に対して挑発を行った武田軍。

依然として動きを見せない北条軍は籠城の構えを維持していくも、武田軍は小田原城を包囲してから四日前後で撤退していき追い打ちをかけた北条軍でしたが三増峠にて撃退され小田原城へ引き返していきました。

義昭と将軍の対立

二度目となる上洛を果たした信長は、義昭から朝廷での官位を授けるといわれておりました。義昭の一番の目的は幕府再興だったため幕府に尽くす将を信長に決めていたことでしたが、信長は幕府再興になど興味は全くなく天下を統一することが成し遂げたいことになります。

この目的の不一致が徐々に両者の関係が崩れていくこととなり、義昭は信長の影響力を弱めるために謙信や信玄そして毛利輝元など信長と同等の力を持っている大名に対して御内書を発行し信長包囲網を築き始めていきました。これにより義昭は挙兵し反信長として兵を率いていきます。

\次のページで「信長包囲網へ参加した武田氏」を解説!/

信長包囲網へ参加した武田氏

信長と友好関係にあった信玄でしたが、比叡山焼き討ちなどの行いを見て義昭の御内書を受け取り上洛に向けて兵を率いていきました。信玄は朝倉・浅井連合軍に信長対抗を要請すると三河へ向けて侵攻を開始し家康の諸城を陥落させていきます。

信玄の行動によって信長との同盟が破棄されていきました。家康と同盟を結んでいた信長は援軍を出すにも朝倉・浅井連合軍と交戦中だったため三千程度の兵しか援軍に出せない状況で家康は初戦の一言坂で敗北し要衝だった二俣城も武田軍によって陥落させられてしまいます。

三方ヶ原で決戦をしていくことになった徳川軍と武田軍でしたが、歴戦の将だった信玄は家康をいとも簡単に捻じ伏せ家康は大敗を期しました。

順調に見えた包囲網だったが

勢いのあった信玄はそのまま、京へ向かう予定でしたがこの頃から持病に悩まされていて度々体調を崩していました。武田家臣団で軍議が開かれこのまま進むか甲斐国へ引き返すかを話し合いしたところ、信玄の体調を最優先として甲斐国へ引き返すことが決定します。

ところが帰国最中に信玄が亡くなってしまい、他国に知られないよう自身の遺体を処理するよう遺言があり家臣らによって火葬され武田勝頼が二十代目武田家を継承しました。甲斐国へ帰国後、信玄は隠居したと国内に公表されています。

武田氏が帰国したことにより信長包囲網が崩れてしまい、家康は窮地を脱することになりました。更に朝倉・浅井連合軍も信長に攻め滅ぼされてしまいます。

将軍との和睦と幕府滅亡

包囲網が崩れたことで形成が一気に不利となる義昭は、信長から二度に渡る和睦を要求されるも拒否を続けていましたが天皇からの勅命で信長との和睦が半ば強制的に受け入れることになりました。この直後から軍の立て直しを図っている最中に二度目となる義昭の抵抗にあい信長は義昭を京から追放したことで、事実上の幕府崩壊ということになります。

信長と同盟を結んでいた家康は武田氏の撤退している間に、軍を再編し武田氏側にいた奥平氏を寝返らせ武田氏と対立を深めていくことになりました。勝頼もまた家康によって領土を奪われ続けるわけにはいかないため、領土拡大へと動き出していきます。

三河を再掌握するために侵攻する武田軍

再び勝頼が当主の時に領土拡大することが決定し、信玄の時に三河を掌握するために侵攻を重ねていましたが遂には制圧出来ず亡くなってしまい勝頼が三河を自国領土にするため動き出し始めていきます。そして長篠の戦いへと発展していきました。

離反した奥平氏

奥平氏が家康へと寝返ってしまった理由は、信玄の死が秘匿されていたことを怪しんだために家康に味方したとされています。元々は家康側にいた奥平氏でしたが、信玄が三河侵攻の際に武田側に寝返っていました。本来であれば家康は処罰してもいい存在のように思いますが、武田氏の侵攻を食い止めさせるのに必要な存在だと思っていたのかも知れません。

家康から加増と長女だった亀姫を奥平信昌に嫁がせ、自身の娘を本多氏嫁がせる条件を提示されたことで信昌はこれを了承し武田氏の人質となっていた妻と離縁し亀姫を迎え入れました。

勝頼長篠城へ侵攻

信昌が自身から離反したことで激怒した勝頼は、奥平氏から人質となっていた三名を直ぐに処刑し三河へ向けての侵攻する準備を整えていきます。反対に家康は勝頼が攻めて来ると判断したことで、武田氏より奪還した長篠城へ配置し対武田戦の前線で戦わせることに決めました。

天正3年1575年4月に大軍を率いて甲斐国を出兵した勝頼は、長篠城へ向けて侵攻し5月には城の周りを包囲していきます。この時の武田軍の軍勢は一万五千とされ長篠城の守備は五百人程度でした。

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落城寸前の長篠城

たった五百人にしかいなかった長篠城でしたが、二百丁の大量の鉄砲が配備していたことで応戦出来たことと長篠城の周りに川が流れていたことで何とか武器と地形に助けられながら籠城していました。しかし兵力差があったことで徐々に城内の兵は疲弊していたことに加えて防戦している際に兵糧庫に火弓が刺さってしまい焼失してしまいます。

落城寸前にあった状況で信昌は家臣の鳥居強右衛門を密使として家康のところに遣わして援軍を要請させに向かわせました。1575年の5月15日の夜に家康の居る岡崎城へ到着し長篠城の状況を伝え一刻も早く援軍をお願いしたいといわれます。

鳥居強右衛門が到着するよりも前に信長と家康は長篠城に向けて、出発する直前となっていたことで一安心した鳥居強右衛門は急いで信昌の下へ戻っていきました。

密使が囚われるも奮戦

援軍が来ることが分かった鳥居強右衛門は、長篠城へ向かっていましたが道中で武田軍に捕まってしまいます。安堵していた矢先だった鳥居強右衛門。捕まった瞬間から死を覚悟していた鳥居強右衛門は拷問に臆することなく自分が奥平氏の密使であるとと援軍が間もなく到着することを勝頼に告げていきました。

威勢のいい鳥居強右衛門を見た勝頼は城の前で、援軍が来ないから開城しろといえば命は助けてやるといい長篠城の前に連れていくと援軍が来るから持ちこたえろと城内に響き渡るような大声を上げていきます。勝頼は命令したこととは反対だった行動を取られてその場で鳥居強右衛門を槍で突き刺して殺害しました。

援軍が到着することと勇気ある鳥居強右衛門の行動によって長篠城内の士気が上がり奮戦していきます。

連合軍が設楽原に到着

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長篠城の奮戦によって陥落させられず、手間を取っていた勝頼でした。5月18日に信長と家康の連合軍が長篠を目前とした設楽原に到着し陣を構え始めました。いきなり攻め立てるつもりはなかった信長は、設楽原の地形を活かすために兵を纏めるのではなく山なりになっている間に兵を待機させていきます。

そして連吾川の前に馬防柵を作らせ川と平行にして設置させていきました。信長の到着を知った勝頼は直ちに軍議を開き戦の方針を決めていきます。武田家重臣だった山県昌景・馬場信春・内藤昌秀などは撤退を進言したものの、勝頼は内藤昌豊などの意見と同じく決戦を主張し長篠で信長に挑むことが決定しました。

奇襲作戦を立案する

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長篠城で奮戦した奥平氏でしたが、兵糧は尽き欠けていた状況で落城間近となっていました。信長はまず長篠城を救援すべく軍議を開き家康重臣の酒井忠次が武田軍に対して奇襲攻撃を立案していきますが、信長はこの奇襲攻撃を反対し話が纏まらず軍議を終えてしまいます。しかし信長は軍議を終えた夜中に密かに忠次を呼び奇襲作戦を命令し別働隊として鉄砲や弓矢に秀でた者達を集めていきました。

信長は軍議で奇襲攻撃を退けたのには、武田軍の間者が紛れ込んでいる可能性があったためその場で判断せずに夜中に指示をしたと信長公記に書かれております。別働隊はその日に命令されてから直ぐに兵を率いて豊川を渡り長篠城を取り囲んでいる中山・久間山・鷲ヶ巣山砦の後方まで進んでいきました。

長篠城を監視するために作られてた砦でしたが、長篠城向きには防衛出来るように作られていたものの後方からは敵が攻めて来ないだろうと想定していたようです。

織田軍の奇襲攻撃が成功

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5月21日早朝には武田軍の砦後方に辿り着き奇襲攻撃を開始すると、武田軍は後方からの攻撃を全く想定していなかったことで瞬く間に兵が討ち取られていきます。各砦を陥落させた忠次は攻撃の手を緩めずに武田軍の陣を構えている場所を次々と攻撃していきました。これにより長篠城の救援が出来たことで昌信は窮地を脱し別働隊に加わっていきます。

完全に不意を突かれてしまった武田軍は立て直しを図ることも出来ずに、武田二十四将など名だたる将が討ち取られていき退却をしていきました。一方の設楽原でも両軍がぶつかり始めていきます。

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武田騎馬軍団が敗れる

戦が開始すると連合軍は馬防柵を利用し、あまり前線に出ずに弓矢や鉄砲を使用して戦っていき対する武田軍は騎馬隊を中心に攻めていきます。しかし設楽原の地形が凸凹していたこともあり織田軍に攻撃すらもままならない状態で攻めて行く武田軍。突撃をして来る武田軍を見た信長は、千丁もの鉄砲を用意し馬防柵から一斉に撃ち掛けていき騎馬隊は一瞬にして壊滅状態となっていきました。

劣勢に陥っていく軍を見て勝頼親族の武田信豊などが、離脱を始めていき残された山県昌景・馬場信春・内藤昌秀などにより負担が掛かってしまい鶴翼の陣形が崩れていき死を覚悟した者達が織田軍に向かって突撃をしていくも鉄砲によって討たれてしまいます。更に後方から忠次率いる別働隊も合流してきたことで、武田主力軍は潰走していきました。

敗北した戦国最強の武田氏

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長篠城から撤退した勝頼は、数百の兵しか周りには残っていない状況で高遠城まで退いていきましたが長篠城と設楽原で討ち取られた武田軍の損害はおよそ五千から一万といわれています。それに対して織田・徳川連合軍は六十から百程度しか兵を失っておらず勝頼は完膚なきまでにやられてしまいました。

何より一般兵の損害だけなく重臣級の将が多数討たれてしまい、この戦を機に武田氏は弱体化をしていきます。反対に信長は長篠城と設楽原で勝利し石山本願寺との和睦により更に勢力を強めていくきっかけとなりました。勝頼も勢力を回復しようと信長と和睦を試みましたが拒否されてしまい窮地に立たされていきます。

その七年後に武田氏を討ち滅ぼすために信長が兵を率いて天目山にて、勝頼が自刃したことで武田氏は滅びていきました。

鉄砲と地形をうまく利用して勝利を収めた

長篠の戦いといえば大量の鉄砲が扱われたことは、一般の方々でも勉強されたことだと思います。その他には三段構えで武田軍を撃退したとも書かれていますが、三段撃ちに関しては信憑性がなく現在では否定されており真意ははっきりしていません。三段構えがなかったのにしろ、武田軍からすると千丁もの鉄砲で一斉射撃をされただけでも驚いたことでしょう。日本に伝来してからほんの数十年でここまで実用出来る信長はやはり只者ではないということが分かる戦いでもありました。

またこの戦自体は信長はあまり積極的ではなく家康の義理立てで、兵を率いていたため最初から武田軍を攻めるつもりはなく守りに徹していることが織田家家臣の陣取りから見ても分かります。山県昌景らの意見だった撤退を行っていればこのような損害は出さずに関東勢を手を組み、信長の脅威的存在になっていたかも知れない武田氏でしたが現代でもいえることではあると思いますが勝負に二度はないといったところでしょう。

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室町時代戦国時代日本史歴史

戦国最強と呼ばれていた武田氏が敗れた「長篠の戦い」を戦国通サラリーマンが5分でわかりやすく解説

戦国時代の中頃までは刀や槍そして弓矢が主力の武器ではあったが、ヨーロッパ船が日本へ漂流したことがきっかけで鉄砲を入手し戦場でも多く活用されていくようになったようです。しかし現代の鉄砲のように軽いわけでもなく単発しか放てなかったため多人数で攻められてしまうと分が悪い武器だったようです。ただ威力は凄まじく甲冑すらも打ち抜くことできたので当たれば相手に致命傷を与えるほどの武器でもあった。

そこで今回は鉄砲をうまく活用し大きな損害を与えることが出来た戦を歴史マニアでもあり歴史ライターのwhat_0831と一緒に紹介していきます。

ライター/what

当時の戦で最強と呼ばれていた武田騎馬軍団が敗れてしまった、長篠の戦いを紹介していきつつ近年になって判明してきた諸説も交えて紹介していく。

織田氏と武田氏との関係性

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長篠の戦いが始まる前の両者についてみていきましょう。

武田氏による今川氏と上杉氏との争い

1560年に発生した桶狭間の戦いで、駿河国全体が動揺していましたが今川氏真との同盟を維持することを選択していた武田信玄。しかし弱体化していた今川家といつまでの同盟関係になっていても仕方が無いと判断した信玄は氏真と対立していた徳川家康と同盟を結び駿河国侵攻を開始していきます。同時に協調してもらいたい北条氏康にも駿河国を攻めるようにと話しを持ち掛けると氏康は拒否し今川方の味方になりました。

氏康は娘だった早川殿を氏真の妻にさせていたため、今川氏を見過ごすことは出来なかったようです。氏康が今川方についたことで信玄との甲相同盟は破棄され対立していくことになりましたが家康と所領を巡ることになり、家康と氏真が和解したことで駿河侵攻が一旦止まってしまいました。

また氏康の圧力と越後の上杉謙信がいつ攻めて来るか分からない状況だったため自国の守りを固めていきます。

信長の上洛

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家康が今川氏と和睦している間に織田信長は室町幕府将軍だった足利義昭を奉じて上洛を行っていました。これに伴い信玄は将軍から直々に和睦の勅使をいただくために信長を通じて義昭に会い謙信と和睦を行っていきます。

謙信と和睦を行ったことで攻められることが一旦は無くなり、反上杉派と反北条派となっていた大名らと同盟を結び謙信と氏康に圧力を掛けていきました。常陸の佐竹氏などの力を借りて一時は堅城と呼ばれていた小田原城を取り囲み、長期化すると思われましたが籠城する北条軍に対して挑発を行った武田軍。

依然として動きを見せない北条軍は籠城の構えを維持していくも、武田軍は小田原城を包囲してから四日前後で撤退していき追い打ちをかけた北条軍でしたが三増峠にて撃退され小田原城へ引き返していきました。

義昭と将軍の対立

二度目となる上洛を果たした信長は、義昭から朝廷での官位を授けるといわれておりました。義昭の一番の目的は幕府再興だったため幕府に尽くす将を信長に決めていたことでしたが、信長は幕府再興になど興味は全くなく天下を統一することが成し遂げたいことになります。

この目的の不一致が徐々に両者の関係が崩れていくこととなり、義昭は信長の影響力を弱めるために謙信や信玄そして毛利輝元など信長と同等の力を持っている大名に対して御内書を発行し信長包囲網を築き始めていきました。これにより義昭は挙兵し反信長として兵を率いていきます。

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